練習
桜は、母の椿と、綾と共に龍の宮で行われる宴で、女楽を催すと聞いて緊張していた。
確かに、鷲の宮では毎日のように誰かが弾いていたものだし、桜も頻繁にそういう会に出て宮の中で弾いていたものだが、規模が違う。
龍王妃までが参加し、神世のほとんどの神が来る宴の席で披露するなど、全く初めての経験だった。
公明と文を取り交わすようになっていた桜なので、この事も急いで書いて送ったのだが、公明もそれには出席して、筝の琴を弾くということ。
当日が楽しみだと逆に期待されてしまった。
ここはもう、練習しかないと、毎日必死に西の島南西の宮で練習に勤しんでいた。
椿は鷹の宮へと帰っていていなかったが、綾が居たので綾に教えてもらいながら、桜は演目の曲を練習していた。
綾は、龍王妃の維月とそれは仲良く文を取り交わしていたので、そこで今回の合奏に関してどうするのか、話し合っているらしい。
綾は鷲の宮に居た時よりも更に腕を上げていて、龍王妃と共に合奏と聞いても楽しみだとうきうきしているだけで、緊張などしないようだった。
そんな二人が、今日も籠って琴に興じていると、侍女が入って来て、言った。
「王妃様。龍王妃様からの御文でございます。」
綾は、手を止めて振り返った。
「まあ。先ほどお返事を出して取り決めたばかりなのに、何か不都合でもおありになったのかしら。」
そういって、美しい塗りの文箱を受け取ると、紐を解いて中を確認した。
そして、言った。
「…一度本番前に合奏をと。まあ確かに。」と、桜を見た。「桜殿、龍の宮へ参るのですわ。龍王様がお許しくださったらしゅうて、皆様で一度龍の宮に集まって試しておこうということらしいのです。確かにこのままいきなり本番では、桜殿も心許ないのでしょう?」
桜は、本当にそうだと何度も頷いた。
「誠にその通りですわ。一度弾いておけば、我も安心しておれまする。龍王妃様からは、いつ頃と?」
綾は、文を見ながら言った。
「何分時が迫っておるので、いつでも良いので来られそうな日を教えて欲しいと。」と、すっくと立ち上がった。「これはすぐにでも王にお尋ねして参らねば。桜殿は、いつでもよろしいですわね?我と共にここからお連れしますから。」
桜は、その迫力に押されて頷いた。
「わ、我はいつなりと。」
綾は頷いて、さっさとそこを出て行ったのだった。
桜は、本当に慌ただしい宴になりそう、と、不安になっていたのだった。
椿もまた、鷹の宮で琴を練習していた。
幸い、箔炎が名手なので教えてもらえるので焦ることもなく、維月からどのパートを受け持つのか知らせて来た時には、箔炎に主旋律を弾いてもらって励んでいた。
そんな最中、龍の宮から一度集まって合奏をしておこうという文が届いた。
箔炎は、琴を押しやって言った。
「それは良い。行って参るが良いぞ。今のままでは不安であろう?維月は維心によく似た弾き方をするゆえ、我では役不足ではないかと思うておったところよ。慣れておいた方が良い。」
椿は、確かにそうだがまだ不安だった。
「…ですが、まだ…。我の演奏では拙くて、足を引っ張る事になるのでは。」
箔炎は、微笑んで言った。
「何を言う。主も良い音を出すようになった。大きさを感じさせる…誠に癒される音よ。」
やはり陽華の転生した命であるだけある。
箔炎は、内心思っていた。
地を感じさせる旋律は、とても懐かしく、癒された。
椿は、褒められたので恥ずかしげに頬を染めたが、思いきったように頷いた。
「では、行って参りますわ。まだ日程は皆様と擦り合わせるようですけれど、合わせて行って参ります。」
箔炎は頷いた。
それにしても今の神世には、こうして妃を連れて来る王が減った。
それというのも上位の王達には妃がない者が多く、いつも男ばかりで華がない。
今回の女楽にしても、出るのは維月、綾、桜、椿、燈子の五人だけ、他は弾けぬ者やら、第二皇子の妃やらで公の場で並んで合奏できる者が居ない。
独身の皇女も少ない上、皆なかなかに楽まで教えていないようで、出そうという王も少なかった。
下位の宮の王妃でもこちらは特に構わないのだが、あちらが遠慮して出るとは言わなかった。
そんなわけで、どうあっても椿には、出てもらって華を添えて欲しいのだ。
「…さて、そろそろ我も己の曲を弾いておくかの。」箔炎は、琴を引き寄せた。「維心が凄みのある技巧だし、炎嘉の音は華やかだしで、我の音は霞んでしまうだろうがの。」
椿は、まあ!と首を振った。
「箔炎様とて大変に美しい音でありますわ。我はいつも癒されて、胸が高鳴る心地になるもの。そのようにおっしゃらないでくださいませ。」
箔炎は、そんな椿に苦笑しながらも、自分のパートを弾いたり、他の曲を弾いたりして、椿と宵を楽しんだのだった。
高湊の宮でも、燈子が胡弓を練習していた。
かつて駿の妃であった瑤子も、それは胡弓を良くした。
その妹である燈子も同じく、胡弓はおろか琵琶も琴も完璧にこなす、英才教育を受けた妃だった。
まるで水を得た魚のように、燈子は様々な曲を弾いて、楽しげにしていた。
もちろん、演目の曲も練習は怠らなかった。
だが、高湊は複雑だった。
何しろ、公には兄である本当は父の、前王である高瑞は、何事にも卒がなく完璧な王だったので、琴も琵琶も笙も笛もできた。
だが、高湊はいきなり王になったので、それまでそんな雅事には無縁で来て、何もできない。
それは王座についてから慌てて習って琴ぐらいなら何とかなったが、今回の曲は難し過ぎて到底無理だった。
なので辞退したのだが、燈子まで出るなと言うのはさすがにおかしい。
なので許していたのだが、毎日それは美しい音色を聴くにつけ、己の至らなさを責められているように思えて、内心穏やかではなかった。
しかも、今回は長らく顔を見ていない、高瑞まで来るのだと言う。
高瑞ももちろん合奏に加わるので、ますます高湊の立場がなかった。
臣下達が、確かに狂ってしまった高瑞には困っていたが、ああして元に戻った今となっては、王としては高瑞の方が良かったのではないかと囁いているのは知っていた。
何しろ、幼い頃にあんなことがなければ恐らく、高瑞は完璧な王であったはずなのだ。
何事にも優れ、努力家であった高瑞に比べ、琴すらまともに弾けぬ高湊のことを、また臣下は噂するのではないかと気が気でない。
そんな高湊の事が分かるのか、まだ成人まで少しある、高彰が言った。
「父上。何やら落ち着かれぬご様子であられますが、何か?」
高湊は、自分の子である高彰を見た。
高彰は、かつて賢王だと皆に言われたあの、曾祖父の高彰の生まれ変わりなのだと言う。
幼い頃から老長けた様子で、何かを悟っているかのように、それは勤勉で、何事にも優れていた。
もちろん、あの燈子が産んだ子であるので、楽にも造詣が深く、高瑞同様何でもこなす。
あまりに優秀なので、高瑞がダメなら高彰を王に、という空気があるのも知っていた。
高湊は、所詮罪人が産んだ子だと、皆に思われているのだろうとおもしろくなかった。
なので、自然高彰にもきつく当たってしまっていた。
「…別に何も。楽の音がたまにするのは良いが、こう連日朝から晩までとは耳に障ると思うておったまでぞ。」
どうせ主とて我など中継ぎの間に合わせの王だと思うておるのだろう。
記憶もない高彰にそれは酷だと分かっていたが、高湊はとにかく、おもしろくなかったのだ。
「…母上には、皆の前で弾くのに拙い音では王に恥をかかせてしまうと一生懸命であられるのです。今少し、お見逃しください。」
誠にできた答えよな。
高湊は、またそれがおもしろくなかったが、これ以上言ってもこちらが悪者になるだけだ。
なので黙っていた。
高彰は、何も返さない高湊に仕方なく頭を下げると、そこを出て奥の母が居る部屋へと向かったのだった。




