月の結界の中
恒は、李心を見た。
「じゃあ、蒼もああ言ってるし住居は東の三番目の空き屋敷を。それから、学校は多分時間が掛からないし、軍の方でも受け入れ先を決めておいてくれないか。宿舎の準備もな。妻子があるから宿舎はあんまり使わないだろうけど。案内を頼むよ。オレは生活物資を持って行かせる。」
李心は、頷いた。
「分かった。」と、奈河を見た。「じゃあ、こちらへ。こんな時間だし、屋敷へ案内しよう。明日からの事は、また追って知らせる。文字は読めるか?」
奈河は、八重を気遣いながら李心について行き、頷いた。
「読める。読み書きは幼い頃から教えられたので。」
李心は、頷いた。
「ならばまた予定を書いて戸に挿しておくわ。それを見てくれたら良い。とりあえずは、明日の朝学校へと案内するために訪ねて参る。我が行けなくても、他の軍神が必ず行くゆえ。宮と屋敷の位置をしっかり覚えて、最初は学校へ通うだけであろうしな。」
李心が、浮き上がった。
奈河は、慌てて八重を抱き上げて、それに続いた。
そこは、見た事もないほど美しい宮が小高い丘の上に遠く見える、それは整った広い領地だった。
その上、聞いていた以上に清浄で濃い気が溢れていて余りある状態で、体が一気に楽になるのを感じる。
ふと見ると、背の河玖は目を覚ましていたが、全く泣きもせずにキョロキョロと眼下に見える美しい街並みを見ていた。
「なんと美しい街並みでありますこと。」八重が、ため息をついて言った。「生まれてこのかた、このようなものは見たことがありませぬ。母が、時に話してくれておりましたけれど、想像もつきませんでしたもの…。」
親はこんな場所で育ったのだろう。
だが、自分達はその親がこんな場所を出たのか追われたのか分からないが、離れてしまったばかりに、知らずに生きて来た。
李心は、ぽつぽつと離れて建っている大きな屋敷の辺りに降りて行くので、奈河もそれについて行った。
すると、一つの屋敷の前へと降り立った。
その屋敷は、灯りはついていなかったが、綺麗に手入れされていて、外では見た事もないほどしっかりとした建物だった。
李心は、そこの戸を開いて、振り返った。
「ここが、主らの家ぞ。家族用とはいえ、下位の臣下に貸し出される屋敷は小さくてな。だが、主が励んで序列が上がればもっと広い屋敷に移ることも可能になる。」と、手を上げた。「灯りは、こうして気を少し放てば天井が光る。」
ここが小さい?
奈河は、八重を地面へ下して、二人で顔を見合わせた。
こんな屋敷は、見た事がないのに。
「…待て。ここは、主の屋敷ではなく、我らの?」
李心は、それを聞いて驚いた顔をしたが、クックと笑った。
「我はこう見えて序列三位ぞ。もっと大きな屋敷を賜って、侍女も居る。主らは、まだ来たばかりであるから侍女も居らぬし一般的な軍神の家族が住む家ぞ。」と、奥へと歩いた。「ここらは皆同じ間取りでな。ここが居間、あちらに寝室が三つ、そちらに湯殿。家具は、寝室一つにつき二つの寝台がある。見ての通り居間にはテーブルと椅子が六つ。これ以上欲しいとなったら軍で働いて、王から何か下賜される時に申し出たら良い。」
テーブルも椅子も、全てが美しい。
八重が、進み出て恐る恐るその、椅子に触れた。表面がすべすべしていて、とても滑らかだ。
朽ちた椅子しか見た事が無かった八重にとって、それは夢のような物だった。
「お邪魔するよ。」開け放たれたままの戸の方から、声がした。「侍女達も夜番の者と入れ替わりの時でバタバタしてたから、オレが持って来たよ。基本支給の着物だ。ここに置いておくね。」
恒が、大きな厨子を持って来て、戸の中へと置いた。
「え、着物も支給してもらえるのですか?」
恒は、頷いた。
「月に一度は必ずこれと同じだけの数の着物が支給される。一人にどれだけって決まってるんだ。それから、褒美として良い働きをしたらもっともらえることもある。ま、学校でいろいろ教えるから、その時覚えてくれたらいいよ。じゃあ、オレももう休むから。また。」
恒は、それだけ言うとさっさと帰って行った。
奈河は、戸惑いながらその厨子の蓋を開いて中を見てみると、きちんと畳まれた真新しい着物が、綺麗に揃えられて入っていて、男物、女物、赤子の物と一揃え入っていた。
「…こんな質の良いものを。」
奈河が思わずつぶやくと、李心が言った。
「ここは最上位の宮だからな。我ら臣下がきちんとした格好でないと、王に恥をかかせる事になるゆえ。主も、軍へ入るのだから甲冑も刀も支給されるゆえ、大切にの。」と、湯殿の戸を開いた。「湯殿は、神世には無いが水道というのが通っておってな。ここは人世から来た神も多く居て、便利なものは設えてあるのだ。こっちのハンドルを回すと、温泉から引いておる湯が出る。反対に回すと止まる。こっちのハンドルは水。これで湯を溜めて、本日は汚れを落として着替えて、もう休むが良い。明日から忙しくなるゆえな。」
奈河は、一々頷いて、豊富に湯を放つ水道というものを見つめながら、言った。
「いろいろ、感謝し申す、李心殿。覚えねばならぬことが多いようだ。」
李心は、頷いた。
「その通りよ。段々に覚えて参ったら良い。とにかくは、休め。」
李心は、そう言うとそこを出て行った。
取り残された八重は、茫然とそれを見ていたが、見る見る目に涙をためると、言った。
「これで…河玖も、清潔にしてやることができまする。新しい着物を着て…美しい屋敷に、落ち着いて暮らすことが。」
奈河は、同じように涙ぐむと、背負っていた紐を緩めて、河玖を下ろした。河玖は、あれだけむずかる子であったのに、ここへ来てから一度も泣いてはいなかった。
そんな河玖を、居間のテーブルの上に寝かせてボロキレでしかない着物を脱がせると、言った。
「さあ、河玖、父と風呂に入ろう。綺麗になるぞ、新しい着物を着るのだ。」
八重は、涙を拭って頷いた。
「では、お二人の着物を出しておきましょう。本日はゆっくりしましょうね。」
そうして、キャッキャと笑う河玖を抱いて、奈河も擦り切れた着物を脱ぎ捨て、風呂へと向かった。
十六夜が、言った。
《蒼。やっぱり大丈夫だったろ?》
蒼は、寝る準備を済ませて居間で座っていたのだが、窓から空を見た。
「ああ。二人とも綺麗なもんだった。奈河は話し方もしっかりしてるし、八重は珍しいほど品のある女神だったな。これで、あの家族が上手くやれたらいいなって思うけど。奈河の頑張り次第かなあ。」
十六夜は、ハハと笑った。
《大丈夫だよ。今、風呂に入って綺麗さっぱりしたところだ。新しい襦袢を皆で着て、寝台二つをくっつけて河玖を間に寝ようとしてる。幸せそうだぞ。》
蒼は、微笑んだ。
「そうか。だったら良かったよ。十六夜が言ってた通り、軍神崩れの父親に育てられたらしい感じの男だったよな。どこの軍神だったのか知らないけど、その父親も生きてたらうちなら何とかやって行けたかもしれないのに。なんか、複雑だよなあ。」
十六夜は、珍しく真剣な声で言った。
《あのさあ。維月が見つかった辺りにも、実ははぐれの神がひっそり住んでて。そいつらは、はぐれの神の集落では虐められてやって行けなかったから、ああして隠れてあえて危ない場所で生きてるみてぇなんだ。良かったら、あいつらの精査もしてやってくれねぇか。行けそうな奴が居たら、ここへ連れて来てやりてぇ。あのまま一生なんて、あまりにも可哀そうだと思うんだよなあ。》
蒼は、また面倒な事を、とため息をついた。
だが、集落の神よりはマシな者達なのかもしれない。十六夜がああ言うぐらいだから、もうある程度は見て来ているはずだった。
なので、蒼は頷いた。
「分かった。明日から、軍神達に命じて様子を見て希望を聞いて来るように言うよ。ここへ入りたいって者が居たら、それらを関の房へ連れて帰らせる。で、オレが見て決めるよ。入っても、ある程度根性がなきゃ無理だからね。何しろ、完全に生き方を変えなきゃならないんだし。それができないなら、きっと出て行ってしまうだろう。それなら、いっそ結界内の暮らしを知らない方がいいのかもしれないし。そういうところも、見させてもらうよ。」
十六夜は、頷いたようだった。
《頼むよ。助けられる命があるなら、助けてやりてぇんだ。》
蒼は、頷いて奥への扉を見た。
「じゃあ、もう寝るよ。長い一日だったし。じゃあな、十六夜。」
十六夜は、答えた。
《じゃあな、蒼。また明日。》
そうして、蒼は奥の間へと引っ込んだ。
もう月は、高く昇っていた。




