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少し前、紫翠が応接間の隣りの部屋へと戻って来ると、侍女達が躊躇う前で、綾がべったりと応接間の方の壁に貼り付いて、耳を当てているところだった。

紫翠が入って行くと、侍女達は困惑した表情で頭を下げる。

普段から、非の打ち所がない妃である綾が、こんなことをすることに、戸惑っているようだった。

どこまでも、母にそっくりな。

だから父は娶ったのだろうと紫翠は思いながら、言った。

「こら、綾殿。そのように貼りついておっては、侍女が困っておるではないか。いくら父上が命じておられるからと。」

侍女達は、それを聞いて王が命じられたのか、と思って二度びっくりした。

綾は、ため息をついて壁から耳を離すと、言った。

「…我だって、好きでこんなことをしておるのではありませぬわ。桜様には、どうあっても幸福になって頂かねばなりませぬ。公明様がどのようなお考えであるのか、しっかり聞いておかねば。何しろ、王はこうと思うたらこうであられるから、桜様がどんな扱いをされるか分からぬではありませぬか。焔様の例もございます。案じて当然なのですわ。」

言われてみたらそうなのだが。

紫翠は思った。恐らく綾は、自分を躾けてくれた桜を、案じてやまないのだろう。

言うが早いか、綾はまた、壁に耳をくっつけた。

もはや窘める気にもならなくなった紫翠は、侍女達に手を振って下がれと言った。せめて、こんな様を侍女達に見られるのだけは避けたい。

侍女達は、戸惑いながら壁にくっついたまま動かない、綾を気遣わし気に見ながら、そこを出て行った。

綾は、怖いほど真剣な顔で、そのまま微動だにせずに居る。

紫翠は、そこまで必死になれるのもある意味凄いと感心しながらも、傍の椅子に腰かけて、二人の話が終わるのを待つ体勢に入った。

侍女達が淹れて置いて行っていた、茶を口にしながら待つこと十分ほど、綾は、やっと壁からフッと肩の力を抜いて離れると、紫翠を振り返った。

「大丈夫そうですわ。」

紫翠は、眉を上げた。

「大丈夫?まあ、確かに公明の事は幼い頃から知っておるゆえ、あれが良い性質であることは知っておるがの。」

綾は、スッと目を細くした。

それを見た紫翠は、びくと肩を震わせた。前世の母が、こんな感じになる時は説教が始まる前触れだったからだ。

思った通り、そっくりな綾は、ガンガンと言い出した。

「紫翠様、婚姻であるのですから、ご友人関係とはまた違うのですわ。姪であられるのですから、もっと慎重になさらねばなりませぬ!例えご友人でも、こと婚姻に関しては違うやもしれぬでありませぬか。あなた様は姪の桜殿が、そのような扱いを受けて構わぬと申されるのですか?あまりにも浅はかでいらっしゃいますわ。そも、こういう場を設けられるのでしたら、先に王に申し上げてくださるべきでした。そうしたら、王だって我などをこちらへやって話を聞くなどせずでもよろしかったでしょうに。」

紫翠は、いくら父の妃とはいえ、遥かに年下の綾にここまで言われてさすがにムッとした。

確かに父に言うべきだったかもしれないが、公明は友であってこちらに相談してくれていたのに、それをわざわざ父に言うのは野暮というものではないのか。

そもそも、皇子とはいえ自分は結構いい歳なのだ。父の老いが止まったから、皇子なだけでとっくに王でもおかしくはない。

紫翠は、言った。

「我とて考えておるわ。主にそこまで言われる謂れはないぞ。いきなりに押し掛けて我の対で居座っておるくせに、口が過ぎるぞ、綾殿。」

言われて、綾はハッとした顔をした。

確かに、王に継ぐ地位の第一皇子の紫翠に対して、確かに言い過ぎなのだ。

綾は、つい前世(まえ)と同じように接してしまうが、これは自分より遥かに年上の、皇子であったと、見るからに怒っている自分そっくりの顔の紫翠を前に、フッと肩で息をついた。

困ったこと…このままでは、恐らく何度もこんなことが起こって、そのうちに紫翠は我を疎ましく思い始める。

そうなると、宮が乱れる元になるのだ。

「…申し上げねばなりませぬ。」綾は、覚悟を決めて、紫翠を鋭い目でじっと見た。「紫翠様、あなた様は必ずお口を慎まれると約されまするか?」

紫翠は、怪訝な顔をした。

「何を言うておる。我は主の指示など聞かぬぞ。」

綾は、すっかり意固地になっている紫翠に、またため息をついた。まあそういう反応であるのも分かる。

「椿にも、言うておりませぬ。あれは箔炎様の下に居るから、我と接することも少ないし、それで良いと思うたから。ですが紫翠、あなたは違う。我と同じ宮に住んでおるのですから。このまま、我がこのように振る舞って、あなたが我を疎ましく思うと宮が乱れまする。ゆえ、申しましょう。緑翠にも後で申すから…いえ、ここへ呼んだ方が良いのかしら。」

綾が、眉を寄せて考え込む顔をすると、紫翠は遂に怒って言った。

「何を偉そうに!父の正妃とは申して、我らを子のように扱うでないわ!主より遥かに年上であるのだぞ?!いい加減にせぬか!」

綾は、紫翠が怒ったところで、痛くもかゆくも無かった。何しろ、息子なのだ。

「紫翠、あなた、いつになったら妃を娶るおつもり?我は、逝く前に申したわね。緑翠を見倣って早う妃をと。それなのに、こうして戻って見てみたら、まだ独り身で。母がこれを最期と言い置いておるのに、全くご努力もなさらずでいらして。公明様は只今はお一人ではありますけれど、一度は妃を娶っていらしたのに…そちらの世話を焼いておる場合ではないのではありませぬの?」

紫翠は、怒鳴り返そうとして、はたと止まった。逝く前と言ったか?

「…何を言うておる。まさか主、脳の病か何かか?」

だとしたら、流行り病ではないか。

これは神世に報告せねばならぬのでは、と紫翠が俄かに戦慄を覚えていると、綾は首を振った。

「だから脳の病ではありませぬ。父上は知っておられるわ。我はね、綾。あなたをお育てしたあの、綾ですわ。あなたは途中、母より龍王妃様になついてしもうて寂しい限りでしたけど、戻ったら元のあなたでしたしそれは良いの。それより、前世の記憶があるとか申しておったけれど…もしかして、そのせいで妃を娶るのにトラウマか何か?焔様も、そんな事を仰っておってアレでしたから、分からぬでもないのですけれど。我のように同じ記憶でも、幸福に過ごした記憶なら良いけれど、あなたや焔様のように、どこかにトラウマを抱えて今生に影響するとなると、面倒でありますこと。」

紫翠は、目を丸くした。

当然のようにさらりと言っているが、これは父母以外には知らない事だ。

父が怪訝な顔をするので、自分が前世の記憶を持って、幼い頃からませた口を利く事の説明をしたことがあった。

それを、母も知っていた。

後は、共に攫われた事のある、明蓮と公明しか、それを知らないはずなのだ。

鷲の宮で生まれて育った、綾が知るはずなどない。父が、わざわざそんな事までこの綾に話す必要などないからだ。

「主…それを、どこで聞いた。」紫翠は、ずいと綾に迫って言う。「父がそんなことを言う必要など無い。誰が主にそれを。」

綾は、ふうと息をついた。

「これが嫌だから言わずにおったのに。どうせなら緑翠も呼んで一緒に話した方が良いのではありませぬの?そうね、緑翠。あの子、定佳様に懸想して騒ぎを起こしたわね。何しろあの子は、幼い頃は男のかたが好きでしたもの。でも、育ったらどっちでも良いとか言い出して、長い間世話をしていた白蘭様に想われて、娶る決心をしたのよね。今でも師弟のようだけど、あれはあれで幸福にしておるようだから良いかと思うわ。」

紫翠は、目を丸くした。

どうして知っている。

いや、多分これは母だ。そうは思うのだが、頭が拒絶するのだ。この、目の前に立つ自分より遥かに年下の幼い所が残る皇女が、まさか自分の母の生まれ変わりであるなどと。

「え…そんなことまで、どうして…。」

母上なのか。

紫翠が、混乱する頭を整理しようとしていると、綾はじっと紫翠の目を見つめた。

「椿には、言ってはなりませぬよ。我は、できたら皆とは今生での関りで生きて行けたらと思うて参りましたの。翠明様には、娶って頂かねばならないから、正直に申し上げました。未だに我を想うてくださっておると知って、ならば我が戻っておるのだと知らさねばと思うて。我はね、父上があまりに嘆くので、あちらで気が気でなくて。早う戻らねば、でも記憶がないと戻っても意味がない、と、力が無いので煽様のところに押しかけて、無理に術を掛けて頂いて記憶を持ったまま生まれて来ました。燐の子に産まれたら、きっと似ておるだろうと思うて…そうしたら、こんなにそっくりに。月の宮での、楽の宴があったでしょう?あの時に、地の気を呼ぶ演奏を聞いて…全て、思い出したのですわ。我が逝く、最後の時を。」

ああ、あの時か。

紫翠は、思い出していた。

龍王、龍王妃、鷲王が揃って母と共に地の気を呼ぶ演奏をして、その音はこの宮に響き渡り、途端に地の底から一気に多くの気が湧き上がって来て驚いた。

そして、いよいよという亡くなる直前、椿が必死に綾の目を覚ませようと、覚えたての琴を引っ張り出して、必死に地の気を呼ぶ曲を弾いた。

綾は目を覚まし、そのすぐ後に旅立った。

「…母上…。」

紫翠は、ボロボロと涙を流した。

綾は、困ったように懐から懐紙を引っ張り出すと、それで紫翠の頬を拭った。

「もう、だから嫌だったのに。でも、我のせいね。どうしても、あなたが吾子だという意識が消えぬで…申し訳ないわ。」

紫翠は、首を振った。

「我が悪い。我だって、記憶を戻したクチなのに。母上がそうだとは、すぐには信じられぬで…母上、またお会いできて我は嬉しいです。」

綾は、苦笑した。

「我もよ。でも、緑翠にはあなたから話してくれない?もう何度も感傷に浸るのは嫌なの。もう、我は帰って来たのだし、また共に生きるの。だから、もう泣くのはなしよ。」

紫翠は頷いて、この幼い母と共にまた生きていけるのかと、暖かいような、くすぐったいような不思議な気持ちになっていたのだった。

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