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こんな時に

駿は、慣れない事をここ数ヶ月強いられてきて、もうパンクしそうだった。

若い騮は馴染むのが速かったが、駿はいつものルーティンを乱されて、休む間もない。

会合の時に聞いてみると、どこの宮も同じような有り様で、いったい維心は独りでどうやってこれを処理していたのかと思うほどだった。

通常の宮の政務のほかに、神世の細かい様子を見張り、逐一頭に入れて助言する。

謁見の数も尋常ではなく、一人一人に時間が掛かるので、一日に処理できるのはせいぜい二、三組。聞いたところ、維心はこれを一日十人以上こなしていたのだと言うから、その知識と判断力には舌を巻いた。

一々、相談を受けても駿のように調べる必要などなく、頭にある情報から判断してしまうので、速かったのだろう、と炎嘉は言っていた。

つまりはそれだけの事を、リアルタイムで頭に入れていたということなのだ。

会合の時、今は、十六夜が完璧に化けた維心が常に炎嘉の隣りで黙って座っているのだが、中身も維心ならどんなにいいかと駿はいつも思っていた。

維斗の妃は、順調に腹の子を育ててくれているらしい。

なんとしても、維心には戻ってもらわねば、と駿は心から望んでいた。

「父上。」騮が、やっと一息ついた駿の居間へと入って来た。「姉上より、文が届いておりまする。」

駿は、珍しいな、と手を差し出した。

「これへ。」

あまり娘は、父王に文など寄越さない。

余程のことがない限り、相談は母の方にするからだった。

駿は、中を確認し、額に手を置いた。

「…離縁したいと言うて来たわ。」

騮は、身を乗り出した。

「やはり、焔殿の扱いに我慢ならずに。」

駿は、頷いて文を騮に渡した。

「やはり物のような扱いであったらしい。それでも良いと思うておったが、母や綾と過ごすうちに気が変わったと。まあ…分かっておったことであるから良いが、こんな時に。あちらもバタバタしておろう。うるさいと言われまいかの。」

騮は、文を見て首を振った。

「今だからこそ、面倒だから帰るなら帰れとなるはずでありまする。ここは父上から、正式に離縁の申し入れを。あちらも非があるのは分かっておるのですから、あっさり承諾致しましょう。今すぐにでも、書状を。」

騮は、姉が心配で仕方がないらしい。

駿は、やっと一息ついていたのにと、ため息をついたが、頷いた。

「分かった、ではそのように。臣下に書かせよ。主が指示してあちらに正式に申し入れさせよ。」

騮は、ホッとしたように頷いた。

「は!ではすぐに。」

騮は、サッと文を置いてそこを出て行った。

駿は、仕方なく疲れた体に鞭打って、桜に返事を書いたのだった。


鷲の宮では、臣下が獅子の宮からの公式の書状を受けて、中を確認しようとしているところだった。

そういえば、そろそろ桜に戻ってもらわないことには、桜がやっていた事を重臣達で持ち回り、時に燐に手助けしてもらって回しているが、龍王が拗ねているとかいう今、宮の仕事が多過ぎて、とてもじゃないが手が回らない。

そろそろ帰るという連絡か、と読んでみると、それは駿からの、正式な離縁の願い出だった。

「え…!桜様が、お戻りになられないと?!」

思わず河が声を上げるのに、回りに座っていた臣下達の、顔が強張る。

だが、確かにこれまでよく堪えてくださっているなとは、思っていたのだ。

焔の無関心さは、度が過ぎていた。

あれだけ宮に貢献している桜に、労いの言葉すら掛けることなく、宮の外での催しにも連れて行かず、父や母が来ると分かっているのに全く無視で、自分だけさっさと出掛けて行っていた。

その上、休みすら与えようとはせず、里帰りも全くさせてはいなかった。

今回、やっと里帰りさせたのだが、それもこの忙しい時に、他の王達から桜の事を大事にしていないとか、面倒な事を言われるのが嫌で、それなら居なければ良いとさっさと厄介払いしただけで、結局自分のためであって桜のためを思ってのことではない。

そんな焔に、これからも仕えて欲しいとは、河にはとても言えなかった。

河の隣りに座っていた、燐が言った。

「…飲んでやるが良い。」燐が言うのに、河はそちらを見た。燐は続けた。「ようここまで文句も言わずに仕えてくれたものよ。綾のことも、しっかりと育て上げてくれた。維織も感謝しておったのだ。煌も産んでくれたのだし、もうこれ以上こちらに縛り付けるのはやめよ。臣下一同は、桜の望み通りにと思うておると、焔に申すが良い。」

河は、しかし困ったように燐を見た。

「ですが…今は龍王様があのような事態で。王も振り分けられた業務が多く、余裕がないので宮の事は燐様にもご負担をお掛けするような事になっておりまする。桜様が戻られないとなると…この先が案じられてなりませぬ。」

燐は、首を振った。

「ならばもっと、あれが居るうちに焔に煩う申すべきであったわ。主らは見て見ぬふりで、誰も焔に強う言わなんだではないか。我が時々見かねて申したが、誰も被せて異論を挟まぬから焔もそれで良いのだと思うてしもうて。そう思うのなら、なぜに我が申した時に、共に責めなんだのよ。勝手な事ばかり申すでないわ。我も腹に据えかねたら、月の宮にでも世話になるぞ。維織の里であるし、あちらでゆっくりするわ。」

燐にまで出て行かれたら、いよいよ宮が回らなくなる。

河は、慌てて頭を深々と下げた。

「は…!申し訳ありませぬ!では、我ら王に桜様をお里へとお返しすることを、ご了承する旨伝えまする。王に於かれましては、恐らく気にも留められぬと思いまするが…。」

そもそも、それが問題なのだ。

燐は、内心そう思っていた。

桜は、それはよく働いてくれていた。維織が、そういうことはからきしであったのだが、一々丁寧に教えてくれて、今では普通の妃並みには、宮を回すことが出来るようになった。

だが、桜の例もあるので、維織には基本、宮の仕事はさせてはいなかった。

させ始めたら、それが普通と押し付けて来るのが臣下なのだ。

なので、燐は維織を守るため、自分の対とその周辺だけの事を任せて、維織には外へ出て来る必要はないと言っていた。

だが、維織の立場は月を親に持つという特殊なもので、それが強くて臣下も無理を通すことはできない。

何しろ、燐は王ではないし、連れて月の宮へと帰ることもできてしまうので、あの強い眷族たちが守る地に、文句など言えないので、臣下も維織には何も言わなかった。

だが、桜は守るはずの夫の焔があの様子で、全く守られることもなく、臣下もそれに胡坐をかいて、いろいろな事を桜に押し付けてさせていた。

なので、今となっては楽をすることを覚えてしまっているので、今、いきなりまたやれと言われて、激務になっているだけで、慣れて来たら前のように回せるはずなのだ。

なので、燐は臣下を甘やかせるつもりなど、到底なかった。


綾から書状を受け取っていたのもあって、燐は桜が里へ帰りたいと言って来るのは知っていた。

なので、焔には何が何でもそれを飲ませようと、事前にいろいろ考えていた。

まずは臣下を押えてしまうのが一番だと考えたので、いつもなら焔の事を手伝って執務室に詰めて居たのだが、今日は臣下の会合に顔を出していたのだ。

その会合が終わり、一度自分の対へと帰って着替えてから、燐は焔の所へと向かった。

もう、夕暮れが近付いているので、本当なら居間に居る時間なのだが、最近では執務が終わらないので、大概執務室に居た。

燐がそこへと入って行くと、やはり焔が、面倒そうな顔をしながら、正面の椅子に座って書状に埋もれていた。

「…焔。桜の件は聞いたか。」

焔は、書状の一つから顔を上げて、手を振った。

「ああ、聞いたわ。良い、帰りたいなら帰れば。最近は他の王達もうるそうなって来て、鬱陶しく思うておった。あれの荷物を侍女に詰めさせて、駿に送るように指示したわ。」

燐は、相変わらずの様子に、眉を寄せた。

「…主、何も分かっておらぬな。あれがどれだけ宮の役に立っておったと思うのよ。それを、労う事も無く帰れとは、乱暴な事ではないのか。せめて、文か品でも準備させて持たせぬか。」

焔は、燐を睨んだ。

「何を言うておるのだ。そんな暇があったら、一つでも案件を処理するわ。主が宮の会合などに出ておるから、本日の分がまだ終わっておらぬのだぞ?さっさとそこらの物を片付けぬか。」

燐は、傍の書状を手にすると、それを焔へと放り投げた。

焔が、驚いてそれを慌てて受け止めると、燐は言った。

「これぐらいの事を己一人で処理することもできぬくせに!偉そうに申すでないわ!主にはもう、愛想が尽きた!」

燐は、くるりと踵を返すと、今入って来た戸へと向かった。

焔が、その背に言った。

「何を言うておる!これをどうするつもりよ!」

燐は、怒鳴るように言った。

「知らぬ!勝手にすればよい、己一人で何でもできるのだろうからの!我はこの宮を出て参るわ!」

焔は、突然に燐がそんなことを言い出したので、さすがに慌てて立ち上がった。

「何と申した?!燐、待たぬか!」

しかし、燐は何も返す事は無く、そのまま己の対へと帰って行ったのだった。

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