宴
維月は、戻って来た維心を迎えていた。
しっかりと準備して待っていたので、このまま出たら良いので維心はホッとしたような顔をして、維月に手を差し出した。
「具合は良うなったか。すまぬの、まさかそれほどにつらいとは思わずで。その着物は…まあ、見た目はそれほどでもないが、楽か。」
維月は、頷いた。
「これも大変に質の良い物でありますし、このように品の良い形も私は好きですわ。それより、維心様はどうなさいますか?お着替えになられますか。」
しかし、維心は面倒そうに首を振った。
「我は良い。着物をとっかえひっかえするのは好きではない。」
私には着替えろ着替えろ言うくせに。
維月は少しむっとしたが、王とはそんなものなので、黙って扇で口元を押えただけに留めた。
維心は、維月が少し気分を悪くしているのを気の変動で感じ取っていたが、いったい今の何が気に障ったのか分からなかったので、とりあえずその肩を抱いた。
「さあ、では参ろう。本日は椿も来ておるし、話し相手にするが良い。そのように浮かぬ顔をするでない。」
維月は、王とはこんなものだし、維心はずっと良い方なのだからと、気を取り直して頷いた。
「はい、維心様。」
維心は、維月が答えたのでホッとして、今回の宴の間になっている、会合の宮大広間へと向けて、歩き出した。
維心と維月が会合の宮へと入ると、箔炎が椿と娘の菖と共に歩いているのに行き会った。
維月は、久しぶりに椿に会ったので、内心嬉しかったのだが、維心が話すより先に飛び出していくわけにもいかず、黙って扇を上げてベールの中で見ているだけに留めた。
維心が、脇で言った。
「箔炎。椿と、もしやそれが皇女か?」
二人は頭を下げている。
箔炎は、頷いた。
「そう。菖と申す。主らにはまだ見ておらぬな。外へ連れて参るのは、これが初めてであるからの。」
維心は、頷いた。
「維月、主がよう会いたいと申しておった椿の子ぞ。」
維月は、やっと口を開けると微笑んだ。
「はい。誠に嬉しいこと。椿様、菖殿、本日はどうぞおよろしくね。」
椿が、顔を上げた。
「はい、維月様。お会い出来て嬉しゅうございますわ。菖は、まだ成人しておらぬので、長くは宴の席に置けぬのですけれど、一度経験させておかねばと連れて参りました。どうぞ、いろいろお教えくださいまして。」
維月は、頷いた。
「我でよろしければいくらでも。仲良くしてくださいませね、菖殿。」
菖は、それこそカチコチになりながら、顔を上げた。
「はい、龍王妃様。」
菖は、それは愛らしい金髪の女神だった。そこは、箔炎に似たようで、華やかな顔立ちで、それでもまだ成人しておらぬので、幼い顔立ちで緊張している様は、微笑ましかった。
維心が、言った。
「参ろうか。皆先に参ったか?」
箔炎は、頷きながら歩き出した。
「炎嘉が先を行くのが見えた。我は、妃と子を連れておるので時が掛かっての。皇子達は皆、訓練場であろう?箔遥も嬉々として参ったわ。」
維心は、歩きながら答えた。
「さもあろう。あれぐらいしか娯楽などないしな。維明が宴の席では退屈だろうとあれらを訓練場へ連れて参る事を思い付いたのだ。我も良い考えであるなと許した。まあ、皇子の間しか遊んでいられぬのだし、良いであろう。」
すると、後ろから翠明が歩いて来るのが見えた。
紫翠は訓練場へと向かったらしく、一人で歩いて来る。
振り返った維心が、翠明に気付いて言った。
「翠明。主も参るか。」
翠明は、足を速めて追いついて来ると、頷いた。
「おお、参る。紫翠は何やら立ち合いだと浮足立っておって。主から借りた甲冑を着て飛び出して行ってしもうたわ。もう良い歳なのに、未だに独り身で。そろそろ宴の席にでも出て、相手を探してほしいのに。」
箔炎が、苦笑して言った。
「良いではないか。主がまだそのように若いまま老いが止まっておるのだから、あれも気楽にしておるのだ。並んで居ったらまるで兄弟ぞ。ま、力のある神は誰もそうであるがの。」
維心も、それには頷いた。
「それはそうよ。我とて維明と維斗と、もう姿があまり変わらぬようになった。あちらが追い付いて参るからのう。とはいえ…翠明の場合、公青の気をもらっておるから、紫翠は追い抜いて参る可能性があるよの。悪くすると、子の方が先にという事もあるやもしれぬ。ゆえ、好きにさせてやるが良い。」
それには、翠明も思うところがあるようで、ため息をついて頷いた。
「分かっておる。だがの…もう、我は親しい者を亡くしとうない。主らは良いの、いくら長生きとはいえ、子の方が先に参る事はあるまいに。我は、それだけは経験しとうない。」
確かに…。
維月は、それを聞いて思っていた。
子供が自分を追い抜いて歳を取り、死んで逝くのを見送るなど苦痛でしかない。
だが、蒼はそれをやっている。いくら不死の月の眷族でも、神との婚姻では限りある命の子しか出来ないからだ。
蒼は、多くの妃と娘を見送って来たのだ。
維月がそう思っていると、維心がそれを見透かしたように言った。
「…不死の眷族の事を思うが良いぞ、翠明。蒼など、ああして穏やかに生きてはいるが、四人の妃を亡くして、娘も亡くしておる。あの性質であるから、皆大事にしておったのに。今も妃を傍に置いているが、いつかは先に逝くのだ。主は、たった一人を亡くしただけであろう。そのように、いつまでも悲観して物事を悪い方へと考えるのをやめぬか。また、蒼に話でも聞くが良いわ。」
翠明は、言われてハッとそれに思い当たったようで、頷いた。
蒼…何の悩みも無さそうなあの蒼が、確かに何人もの妃と子を先に亡くしているのだ。
それに気付くと、翠明は急に恥ずかしくなった。確かに綾の事はいつも心のどこかで思ってはいるが、それでも、もうそこまで悲しんでいるわけではない。
だが、あれから世の儚さに気付いてしまい、何事も面白くなく、無駄な事のような気がして、どうしようもなかった。
ただ、それだけだったのだ。
維心と箔炎と並んで大広間へと入って行きながら、翠明はしっかりしなければならないな、と思いながら、微笑みながら皆を待つ、蒼の隣りへと足を進めたのだった。
維心が前の席へと行って、維月は後ろで仕切り布の間に入って座った。
こうなって来ると、椿が遠い。
前の維心の隣りはいつものように序列から炎嘉が居た。
その隣りには焔、志心、と来てやっと箔炎なので、その後ろに座る椿達は自然かなり離れた位置になっていた。
そして、箔炎の隣りには蒼、翠明、高湊、駿と今日は並んでいる。
その辺りは、いつも気分で入れ替わるので、適当に好きに座っているのは分かった。
上座は、その会場によって変わるのだが、今回の場合は右端が上座のようで、そこに維心が居る。
真ん中が上座になることもあるし、左端の時もたまにあるのだが、それは向いている方向で違った。
だが、この座り方だと維月も一番端になってしまうので、他の妃が居ても遠すぎて話が出来ない事が多いのだが、今、まさにその状態になってしまっていた。
前の王達は、皆維心の真隣りの炎嘉の方を向いて話しているので、自然、弧を描いたようになっていて、一番端の駿など横向きになっている。
なので、余計に椿が遠かった。
今夜は話せないわね。
維月が思ってため息をつくと、ふと、一個開けた隣りの仕切り布が動いた。
…あそこは、焔様の後ろ。
焔は炎嘉の隣りなので、近い。
維月は、誰か居るのかとワクワクしながら声を掛けた。
「…もし。鷲の宮の御方であられますか?」
すると、侍女が進み出て仕切り布を横へと避けた。
すると、長い黒髪を結い上げたそれは若い女神が、深々と頭を下げてそこに居た。
「龍王妃様には、初めてお目に掛かりまする。鷲の宮、燐の第一皇女、綾でございます。」
維月は、驚いて目を丸くした。
綾…燐が、母を今度こそ幸せにと、願ってつけた名。
お転婆で、桜にしつけさせたのだと聞いている通り、若いのに完璧な仕草と口上だった。
維月は、気持ちを落ち着かせながら、微笑んで答えた。
「まあ、綾殿。お会いしたいと思うておりましたのよ。どうぞお顔を上げて下さいませ。」
言われて、綾は顔を上げた。
ベールの中で扇を高く上げているその目は、まさに綾そっくりの紫で、涼やかに微笑んでいた。
綾様…!
維月は、心の中で叫んだ。あの時、最後に合奏をしてから会う事もなく、世を去ってしまった友の綾が、まさに生きてそこに座っているようだったのだ。
思わず知らず涙が浮かんで来るのを抑えて、ここまでそっくりだったとはと、無理に微笑み返しながら、言った。
「まあ…なんと、在りし日の燐様の母上にお似申しておられることか。我が目を疑いましたわ。」
綾は、恥ずかし気に答えた。
「はい。皆そのように。ですが我は、その祖母にお会いしたことがございませぬで、分からなくて。父もよう、懐かしいと申しましてございます。」
声や話し方までそっくり。
維月は、綾が帰って来たようだと嬉しくて、自然弾んだ声になった。
「どうぞ、仲良くしてくださいませね。おばあ様の綾様とは、誠に長い間友でありましたの。我とて懐かしくて…ああ、そうだわ。」と、後ろに控える、千秋に言った。「こちらへ昨日作ったパウンドケーキを持って参って。あちらの椿様と菖様にもお出ししてね。」
千秋は、頭を下げてそこを出て行く。
綾は、興味深げに言った。
「まあ。初めて聞く名ですわ。パウンドケーキとは、いったいどのような物ですか?」
維月は、答えた。
「人世の菓子ですの。甘いものはお好きですか?」
綾は、それこそ目をキラキラと輝かせた。
「まあ!我は食物に目が無くて…あちらでは、あまり手に入らぬので、お父様にお願いして翠明様の宮から柑橘などを戴くのですわ。とても素晴らしい味わいで…。」
維月は、フフと微笑んだ。
「ならばきっと、パウンドケーキも気に入ってくださいますわ。楽しみになさってね。」
ああ、綾が生きてそこに居る。
維月は嬉しくて、仕方がなかった。