恐怖
遡って婚儀の日の朝、宮は維明が回しているので、将維は碧黎のもとに、例によって力の制御を学びに来ていた。
碧黎はいつものごとく嫌な顔もせずに迎えてくれて、蒼が留守の月の宮の中で、また一日中碧黎からそれを学んだ。
感覚しかないので、今は将維に任されているのがこの、島の中だけとはいえ、それは難しかった。
この島にはあちこち火山があって、上手く回さないと簡単に噴火する。
上手くやっているつもりだったが、島の西の方ではまた、火山が燻り始めていた。
碧黎は、それをなんとか防ごうと力を集中して助けてくれたが、一度活発になると、碧黎にも抑えるのは難しいようだ。
曰く、人がくしゃみを我慢しているような感じらしく、かなりのストレスもあるし、気を抜くと簡単に大きく噴火した。
それでも、なんとか抑える事に成功し、ホッと胸を撫で下ろしていると、碧黎は言った。
「…やはり難しいの。まだ生まれたてみたいなものだし、我だってその頃には地上は荒れ放題であったもの。いくらなんでも、主になんとかしろとは乱暴な話よ。天黎が戻ったら、もっと簡単な…そうよな、体の動きを管理するぐらいに変えてもろうた方が良いやもしれぬ。」
将維は、碧黎を見上げた。
「体の動きとは?」
碧黎は、頷いた。
「我は宇宙という広い空間に浮いておって、その中を真ん中の常に燃えている星に引っ張られた状態で回っておる。近付くと地上全体が燃え尽きてしまうほど面倒な星だが、あれがないと熱が無くて神以外の生物は死に絶える。大氣と瀬利によってその熱を上手い具合に維持して、地上は生物が快適に過ごせる温度を保っておるのだ。我は、地上の生き物達にちょうど良い温度になる位置を保って回っておるので、今の環境があるのよ。ちなみに十六夜と維月は我が引っ張って宙に迷うことの無いようにしておるのだが、我を中心に回っておる。その、一定距離を保って回るのを主が担当するのでどうであろうか。」
将維は、また壮大な事に顔をしかめた。
「…できる気がせぬ。そも、主のやっておることは多すぎる上、少しでも違えたら生き物にすぐに影響が出る重要な事ばかりぞ。我にできるのか…その、適正距離も全く分からぬのに。」
碧黎は、息をついた。
言われてみたらそうなのだ。自分が長い年月掛けて考え、やって来たことを、いきなり全てやれとは荷が重い。
まして、地上の生き物全てに関わることだらけなのだ。
碧黎は、あまりにも無謀だったか、と頷いた。
「…仕方がない。とりあえず、天黎にどこかを任せるのはまだ早かったと話そう。然る後に、主から地の力を剥奪して、我のやることを肌で感じて覚えて参れるように、見せて行こう。つまりは主は、本来あるべき姿に戻るわけだが、今は百も過ぎておるし、問題あるまい。少し若い姿になるだけぞ。あの頃のように赤子ではないし、それで参ろう。」
将維は、項垂れて頷いた。やはり無理なのだ…碧黎は、思っていたよりずっとたくさんのことを、息をするようにこなしている。
全ては地上の生き物のためと、生まれた昔から考えて作り上げて来た事で、ポッと出た将維に、簡単にできることではなかったのだ。
将維はこの地を自分が動かす事で、失われる命がどれほど出るのだろうと、恐怖を感じてしまい、余計に身動きできないようになってしまっていた。
碧黎は、そんな将維を慰めるように頭を撫でて、天黎に話をつけておくので、明日、また来るようにと言った。
将維は、夕刻の日が傾いて来る中、気落ちしたまま龍の宮へと帰って行ったのだった。
維月は、珍しく夜明け前のまだ暗いうちに、フッと目を覚ました。
体がだるい…まるであの、重い着物を着ているような。
疲れが残っているのか、と、維月はため息をついた。
人の頃だったら、トイレに行きたくなったのかととりあえず行く事を考えるところだが、あいにく月になってからトイレに行くことがない。
食べたものは全てエネルギーに変換されて、自分のエネルギー体を構成する一部となるのだ。
なので、もう少し寝よう、と維心の方へと寝返りを打つと、維心はいつものように自分を律するように唇を引き結んで、じっと眠っていた。
「…?」
維月は、いつもと違う、と感じた。
どういうわけか、いつもと何かが違う。違和感があるのだ。
「…維心様?」
維月が声をかけると、いつもなら絶対に目を開く維心が、じっと目を閉じたままでいる。
維月は、維心の腕を掴んで揺さぶった。
「維心様!」
そして、その腕がいつもより冷たく感じて、驚いた。
「維心様?!」維月は、違和感の正体が分かった。なぜなら、維心が呼吸をしていないのだ。「維心様!!ああ、どうしたこと!お父様!十六夜!来て!」
維月の叫びは、十六夜と碧黎だけではなく、外で控えていた侍女達にも聞こえた。
維月は、いったい何が起こっているのか分からず、必死に気を補充した。心の臓が止まっている…いったい、いつからこんなことに…!
維月の悲痛な叫びを聞いた碧黎と、次に十六夜が、パッパッとそこに出現した。
「なんぞ?!」碧黎は、維月が必死に気を補充するのを見て、慌ててその先の維心を見た。「維心…?!なんとしたこと、気が尽きておる!」
「なんだって?!」
十六夜も、寝ぼけ眼だったが反射的に手を上げた。
碧黎、十六夜、維月の三人が一気に気を維心に流し込んだが、維心は真っ青な顔のまま、微動だにしなかった。
「私…気付かなくて。」維月は、泣きじゃくりながら言った。「気付かなくて…今、なぜか目が覚めて…体がだるくて、寝直そうと維心様を見たら、こんな風に…。」
碧黎は、険しい顔で気の補充を止めて、言った。
「…気が尽きてからしばらく経っておる。気を補充しても、帰っては来ぬ。」
「そんな…!」維月は、それでも気の補充を止めずに言った。「維明に!あの子に黄泉の道へ…!」
碧黎は、遠く何かを探る目をした。
「…門の前に立っておるな。行くならすぐに行かねば寒さに耐えられぬだろう。とりあえず、体は我が術で維持を。ただ、困った事に逝ってしばらく放置されておったゆえ…この体に戻れるかどうか。戻っても、これまで通りとはいかぬやもしれぬ。あちこち支障が出よう。」
「そんな…!」
私が気付かなかったばかりに。
維月が床に崩れ落ちると、十六夜は気の補充の手を止めて、言った。
「どういう事でぇ。維心は、この体ではもう、生きるのが難しいのか。」
碧黎は、維月の肩を抱きながら頷いた。
「地上では、命は器に依存しておるからの。主らが脳と申す、体を動かすための司令塔が損傷しておって、この器に入るとまともに考えが働かぬのだ。体も思うように動くまい。ゆえ、まずいことに。」
確かに脳細胞は一番始めに崩壊を始めるのだと聞いた事がある。
人とは違うが、それでも碧黎がそういうからには同じような事が起こっているのだろう。
「十六夜!碧黎様!」蒼が、息を切らせて駆け込んで来た。「維月の叫びがオレにも聴こえて…維心様がどうかしたのですか?!」
碧黎は、頷いた。
「死んだ。」蒼が絶句していると、碧黎は続けた。「とりあえず体は維持しておるが、時が経っておったからまずいことになっておる。とにかく、維心を連れ帰って、原因を調べねば。術の気配はない…維月、目が覚めた時、だるかったと言うたの。」
維月は、肩を抱かれたまま泣いている。
碧黎は、厳しい声で言った。
「しっかりせよ!二度とこのような事がないように、原因を知らねばならぬのだ!」
維月は、叱責されて涙の中で慌てて言った。
「はい…あの、着物を。石の着物を着た時のように、だるく感じて。」
それを聞いた碧黎は、ハッとした顔をした。
そして、寝台の脇に置いてある、維心の冠と頚飾、龍王刀へと目をやった。
「…これか。」碧黎は、苦々しげに言った。「こんなものを真横に置いて寝ておったから、気を乱されて消失したのよ。恐らく維心は、気付いたのではないか。だが、気付いた時にはもう、体が動かなかったのだろう。将維が昨夕、自信を失くして本日朝に天黎に地から出してもらうつもりでおった。また、石から常なら抑えておる厄介な気が出ておったのだ。」
維月は、絶句した。
昨日、いつもなら着替えるのにそのまま奥へと入って、そこで襦袢になったので寝台脇に全て置いて寝たのだ。
それだけの事で、こんなことに。
「ああ…私のせいですわ。」維月は、もはや号泣しながら言った。「私が心を乱していたので、維心様はなだめようとそのまま奥へとお入りに。いつもなら、着替えて装飾品は厨子に収めて遠ざけるのに…。」
いつの間にか、寝室の入り口には、上位の王達がいきなり来たのが分かる、襦袢に袿を羽織っただけの姿で中を見ながら立っていた。
碧黎は、チラとそちらを見て、その先頭に居る蒼に言った。
「…他言無用ぞ。維心が戻るのは問題ない。だが、体がそれに耐えられぬだろう。まだどうするかは黄泉の門の前に居る維心と話し合わねば分からぬが、主らに言えることは、今この時、維心は死んでおる。翠明の婚儀であるし、後は主が良いように申せ。維心は連れ帰る。」
炎嘉が、青い顔をしながらも毅然とした表情で言った。
「後は我が。これの代わりに後二日を務めて参る。ゆえ、主は何としても維心を戻せ。」
碧黎は、炎嘉を見た。
「約束できぬ。それは維心の決めること。器の損傷が激しいゆえ、戻っても元の維心ではないぞ。見た目はこうだが、中身はかなり進んでおるからな。とにかくは…」と、十六夜を見た。「…維斗はどうか?」
十六夜は、頷いた。
「まあ…あいつは親父が言ってた通りに動いてる。」
碧黎は、頷いた。
「このためであったのやも知れぬの。流れとはそういうものだからの。」
何のことだかわからない維月が、碧黎を見上げた。
「え…維斗がなんと?」
碧黎は、首を振った。
「良い。主は知らずともの。」と、維心に手を翳した。「参る。」
そして、碧黎はその場から、維心と共に消えた。
恐らくは、龍の宮へと運んで行ったのだろう。
十六夜が維月の肩を抱いて、言った。
「さあ、オレが連れて帰る。お供の龍達は勝手に帰って来るだろう。蒼、お前龍達に維心が先に帰ったと伝えてくれ。死んだって言うなよ、大騒ぎになる。」
蒼は、真っ青な顔で頷いた。
「分かった。後は任せて。」
維月は、十六夜を涙でぐしゃぐしゃの顔を上げて見た。
「どうして?維心様だけがあんなことに。私も横に寝ていたのよ?それなのに、どうしてなの…?」
十六夜は、維月を抱き上げて言った。
「だから、お前は月だし地だしで気が尽きるってことはねぇ。消耗はするけどな。多分…将維の調整が、狂っちまってるんだ。前みたいにな。」
維月は、まだ涙を流したまま言った。
「どうしたらいいの?お父様は、維明に連れて帰ってもらっても、あの体はもう使えないようなことをおっしゃっていたわ。昨夜、ずっと一緒だとお話したばかりだったのに…。」
十六夜は、息をついて窓へと向かい、言った。
「親父に任せよう。多分、天黎だったらどうにか出来るが、やらねぇだろうな。あいつも自分で決めた決まりの中でしか動かない。さあ、しっかりしろ。行くぞ。」
そうして、十六夜は維月を連れて飛び立って行った。




