話
維心は、トボトボと居間へと帰って来た。
今日は、午後から何もやることがないので、本当なら居間で維月とまったりと過ごせて足取りも軽かったはずなのだが、今は維月が居ないので、たった一人で座っていると、それが更に胸に迫ってつらかった。
早く話し合って維月に会いたいと思うのだが、そもそもが維月が帰って来るつもりもなかったら、碧黎といくら話しても無駄だと思えた。
将維は、しっかり伝えてくれているはず。
維心は、碧黎の訪れを、待つしかないと思っていた。
長い回廊を抜けて奥への扉を気で開くと、目の前に気楽な姿の碧黎が座っていた。
「帰ったか。待っておった。」
維心は、いつもならいきなり来るなと怒るのだが、そんな事も忘れて、やっとかと急いで正面の椅子へと座り、弾丸のように言った。
「取り決めを忘れて悪かった。以前の通りに月の宮にも頻繁に里帰りさせるし、まだ婚姻関係でもないのにごちゃごちゃ言わぬ。それで維月を帰してくれるか。」
碧黎は、維心も思い詰めていたのだとその弾丸トークに思ったが、言った。
「まあ待て。分かったゆえ。とりあえず、維月は帰りたいようぞ。ただ、主がまたいきなり我とのことで、慕っておるのかとか怒り出すのが怖いのだ。主がまたいろいろ忘れて維月を責めるのなら、お互い無理をしてまで共に居る必要はないと考えている。主をも苦しめると思うからぞ。そこのところ、主はどうよ?」
維心は、下を向いた。
「…あの時は我にも余裕がなくて。十六夜も居らず、主も面倒を言わず、穏やかに生きておったので、それを当然と崩れる事を危ぶんだのだ。だが、あの時維月が言うたように、主は決して約した事を違えぬ性質。十六夜とは違うのに、あれでは想うことすら止めよと禁じておることになる。誠に…悪かったと思うておる。」
全面降伏している維心に、碧黎は肩の力を抜いた。
「まあ…主なら分かるだろうとは思っておった。維月も怒っているのではなく、困惑しておっただけであるしな。そんなに強く諌めたわけでもないようだし、維月はあのままなんとか説得出来ぬかと、あの時思っていたようだが、十六夜が連れて戻ったゆえ。ならば少し、考えようと思うただけのようよ。あちらでふた月ほど楽しんだゆえ、そろそろ頃合いだなと我も思うておった。まあ、まだ維月と我は前のように命を繋いでおるわけではないが、主との取り決め通り、婚姻関係には今後もならぬ。もしそのようなことになるのなら、主には先に知らせよう。ま、ないと思うがの。天黎も居るし、それなら我もと気軽に言い出したら厄介ぞ。ゆえ、案じるでないわ。」
維心は、維月は帰らぬと言うておるのではないのか、と顔を明るくした。
「維月は帰って来てくれるか。怒ってはおらぬと?」
碧黎は、頷く。
「最初からの。だからここに居て、主を説得しても良かったが、十六夜がこのままでは主が助長すると思うたようぞ。あれが案じておるし、主が今言うたように、以前のように頻繁に里帰りとなるだろう。ちなみにあれらは夫婦ではないぞ?先に言うておくが、十六夜はすっかり落ち着いておって、愛してはいるがそんなものは必要ないという考え方でな。つまりは、百年ほど前に取り決めておったままで良いということよ。主も、その時の心地をようよう思い出して、これからはおかしな妬みなど持たぬことぞ。あの折、我を案じておったくせに。たった百年ほどで忘れるでない。」
維心は、下を向いた。
「確かに…主の言う通りぞ。あの頃は別に、主と維月が命を繋いでいようと、別になんとも思わなかった。価値観が違うからの。分かっておったはずなのに…すまぬ。」
碧黎は、苦笑して立ち上がった。
「では、翠明の式のこともある。近々連れて参るゆえ、主もそのつもりでな。そうそう、維月は胡弓と琵琶を弾けるようになったぞ。主に聴かせたいと思うておるのではないかの。」
維心は、何度も頷いた。
「準備させておく。確か宝物庫にあったはずであるから。」
碧黎は、そんな維心に何やら不憫な気持ちになって、言った。
「…主も大変だの。維月を愛しておらねば、こんな苦労はせずで済んだのに。とはいえ、維月も主に嫁いでおらねばあそこまで育ったとも思えぬし、あれが神に嫁ぐというなら主しか居らなんだとは思う。」
維心は、碧黎の目を見返して、首を振った。
「維月を愛したのは運命であった。それを今生も継続しようと決めたのは我ぞ。恐らく、忘れたいなら主にでも記憶を封じてもらったら良いのだ。だが、我は維月を愛していたい。これは我の選択ぞ。ゆえ、少しぐらいの行き違いなどで、諦めたりはせぬ。」
碧黎は、頷いて微笑むと、浮き上がった。
「やはり主に任せるべきぞ。」
そうして、パッとその場から消えた。
維心は、碧黎を見送って、ああしてこちらを気遣ってまでくれる姿に、なぜに自分は妬んだりしたのだろうと、後悔したのだった。
十六夜は、それを月から見ていた。
維月も、地上の維心の対でじっと月から見ていたのを知っていたので、恐らく知っているだろう。
碧黎から、待っていろと言われたから着物をきっちり着ていつでも行けるようにと構えていたのだ。
十六夜も、維心の覚悟を知って少し、ホッとした。維心は時間が経つといろいろ月の眷族の事を忘れて横柄になって来る。それは、王として君臨しているのだから何事も思い通りになって当然で、そうなるのも仕方がないのだが、複雑な維月との関係では、それは忘れてはならない事だった。
十六夜は、維心を困らせるつもりはなかったのだが、時々こうして引き締めることで、強制的に思い出させて更生する必要があると思っていた。
維心は、簡単にはこちらの言う事を聞かないし、十六夜が説教しようにも分かっていると適当にあしらって、まともに考えようとしないだろう。
なので、ああして維月を強制的に離すことで、真剣に考えさせようと思ったのだ。
思った通り、維心はしっかり考えて、反省したようだった。
維月を嫁にもらうという事は、こういう事だと知っていたはずなのだ。
それを、思い出させようとしたのだった。
碧黎は、戻って来て月の宮の上空に現れると、そこからスーッと飛んで維月が居る維心の対へと飛んだ。
十六夜は、もう大丈夫だなと、ここのところ適当に済ませていた、自分の責務である地上の黒い霧を消すのに集中した。
碧黎は、部屋でじっと待っていた、維月の下へと向かった。
維月は、碧黎が言った通り、いつでも出られるようにきっちりと外向きの着物を着て、待っていた。
そして、碧黎が入って来たのを見て、言った。
「見ておりました。維心様は、分かってくださったのですね。」
碧黎は、頷いた。
「あれは、時々忘れてしまうのだ。冷静になれば思い出すが、余裕が無くて不安から主につい、当たってしまうのだろうて。そんなことが無いように、話して参ったのでしばらくは大丈夫だろう。あ奴の事であるから、また忘れることもあるやもしれぬが、その時はまた話すしかあるまい。分かってやるが良い、厄介な眷族である我らを、何とか理解して主を傍におきたいと考えておるのだから。」
維月は、頷いた。
「はい、お父様。」と、立ち上がった。「では…本日、あちらへ帰りたいと思いますわ。長い時間、こちらに居りましたので。」
碧黎は、それにも頷いて維月の手を取った。
「では、帰るか。送って参ろう。」
しかし、維月は首を振った。
「それは、夕刻に。」と、碧黎をじっと見た。「維心様との取り決めが、しっかりと再確認できましたところで、お父様にご提案がございますの。」
碧黎は、眉を上げた。
「何ぞ?」
維月は、じっと碧黎を見上げた。
「お父様には、私の事をまだ愛しておられますか?」
碧黎は、心外な、という顔をして頷いた。
「当然であろう。命を繋ぐと決意したほどに主だけと決めたものを、そう簡単には変わることなどない。主が面倒だろうし、あれから何も言わずに参っただけ。」
維月は、言った。
「この百年、誠によう我慢して私の事を想って遠く見守ってくださったと感謝しております。そのお心に、あの時己のために私を使おうとしておられた、片鱗もございませぬわ。お父様は、此度の維心様のように、あの時は惑われたのですね。」
碧黎は、そう言われてバツが悪かった。
確かにその通りだったからだ。
あの時は、自分の気持ちを守ろうと、狂ったようだった…維月を蔑ろにするつもりはなかったが、結果的にそうなって、維月から見切りを付けられそうになったのだ。
それを、維心が自分の行動を照らし合わせて、維月に見切るのは早い、と碧黎を庇った過去があった。
今回は、自分の番だと碧黎は思って、維心と話をしに行ったのだが、思いの他維心は自分で悟って自分で立ち直っていた。
「…あの時は、我が悪かった。自分の心を守ろうと、あんな風に判断した己が恥ずかしい。維心も此度、同じような状況であったのだろうな、と思った。ただ、あれは己で立ち直ったし、我の出る幕はなかったがの。」
維月は、碧黎を見上げた。
「ですが、お父様は百年以上も私を待ってくださいました。相変わらず、お心が広いのには私も心が解けました。ですのでお父様が望まれるのなら、私は命を繋いでも良いと思っております。」
碧黎は、身を震わせた。
維月が…この百三十年ほどの間、じっと見ているしか出来ずに、ただ見守って大切に守って来た維月が、我を許してくれたのか。
「…良いのか。」碧黎は、まだ信じられずに、維月の手を両手で握った。「また、時々に我と命を繋いでも。」
維月は、頷いた。
「はい。長らくお待たせしてしまいました。よく考えたら、もっと早うそう思うておったような気がします。ただ、里帰りをなかなかせぬようになっておったので、言い出す機会もなかっただけで。」
碧黎は、嬉しさのあまり、目頭が熱くなって来るのを感じた。
こんなことは、初めてだった。
「…ならば、夕刻まで。」碧黎は、維月の手を引いて、歩き出した。「我の対へ参ろう。誠に…誠に胸が沸く事よ。初めて主と命を繋いだ時でも、これほどに嬉しいと思うてはいなかったのに。」
そうして、二人は碧黎の対まで歩いて、そこで二人並んで座ってじっと目を閉じて、本当に久しぶりに、命を繋いだのだった。




