再会
「そのような。」翠明は、やっと声を絞り出した。「主が戻って来たなどと…記憶はそんなに簡単には持って来られぬはず。」
そう、持って来られるのなら、皆が持って来ようとするだろう。
鷲とはいえ、ただの神であった綾が、いくらもとは鷲の王に手助けされたからと、簡単に留められるものだろうか。
そうだ、もしかしたら、綾は維月から話を聞いて、記憶を持って来たと言って自分に嫁ごうとしているのでは。
自分こそが、あの綾なのだと。
翠明は、そう思いが至ると、フッと肩の力を抜いた。
「…ならぬ。主、我の事など知らぬだろうが。そうまでして我に嫁いでも良い事などないぞ。主を以前の綾だと愛して、主は苦しくないのか。己自身を愛して欲しいと願うようになるのでは。」
綾は、険しい目にスッとなると、言った。
「…我が偽りを申しておると?」
翠明は、頷いた。
「そんなに簡単に記憶など持っては来られぬ。どうせ維月殿から聞いたことを申しておるのではないのか?綾と維月殿は仲の良い友であったし、ある程度は知っておるはずぞ。」
綾は、じっと翠明を睨んで、ずんずんと寄って来た。
翠明が退いていると、綾は続けた。
「ならば何でも聞いて下さいませ。それで我が綾だったら、散々謝り倒さねば嫁いであげませぬからね?」
翠明は、その自信がどこから来るのかと驚いたが、キッと視線を鋭くして、言った。
「ならば子は。」
綾は答えた。
「何を聞いていらっしゃるの。我らしか知らぬ事を聞かねば意味がありませぬでしょう。でも、良いですわ。紫翠と緑翠。椿ですわ。緑翠は定佳様を思って紫翠と共に白虎に襲われて大変な事になり申しましたが、長く世話した白蘭様と婚姻を。椿は箔炎様との縁談を蹴って駿様と婚姻して幸福にしておったのに、駿様が瑤子様に肩入れして戻りました。我は死の間際、箔炎様にくれぐれも椿をと言い置いて行きましたけど、箔炎様は我の死後、あの子を娶ってくださいましたのね。菖を見て、ホッとしておりました。」
かなり詳細に知っている。
翠明は、ならばとさらに言った。
「…主は、鷲の宮を出るために誰に嫁ごうとした。あの時の事を覚えておるか。」
綾は、ため息をついた。
「…一佳様に。あのかたの、母親のようにお世話でもしようと考えておりました。ですけれど、母君がとても…我に似ておったから。その座を奪うのは否と、日陰の身で隠とんしようと考えて、帰ろうとしたら翠明様が…」綾は、涙ぐんだ。「あなた様が娶ってくださると申して。さすがに最初から正妃には出来ぬがとおっしゃったのに、紫翠を生んだ後、正妃に取り決めてくださいましたわ。一佳様がそれであなた様を恨んで…まさか、あのような事になるなんて。我は、ならば突き放して差し上げねばと、一佳様を地下牢で罵倒してあなた様に咎められました。龍王様もいらして…さすがにやめた方が良かったかと、後で思いました。」
翠明は、愕然とした。
いくらなんでも、そんなことまで知るはずがない。
いくら学んで来たとはいえ、翠明が何を聞くかまで、分かるはずもないのに、細かいことまで覚えられないからだ。
「綾…しかし主は…。」
綾は、焦れて翠明にもっと寄って顔を覗き込んだ。
「もっと話せと申すなら、いくらでも話しますわ!翠明様は我の部屋があるのに、毎夜翠明様のお部屋で休めとおっしゃいましたわね。椿が出来た時は、またかとおっしゃって我が怒った事を覚えていらっしゃいますか?あれからしばらく、褥を共にしてもお相手しなかったので、七日後に遂に謝っておられましたわね。なので緑翠の時は、何も言えなかったのですわ。」
翠明は、それを聞いて目を見開いた。
いくらなんでも、そんな事まで維月に話していたとは思えない。
仮にもし知っていたとしても、龍王妃である維月が、公式の場で綾にそんなことを話すはずはないのだ。
翠明は、見る見る涙を浮かべて、言った。
「綾…?誠に、綾なのか。」
綾は、地団駄踏んで言った。
「だから、言うておりますのに!我が、綾なのですわ!あの日、こちらで去ろうとするあなた様の足を掴んで引き留めて、どうしたら良いのか教えてくれと申した、あの綾なのです!」
翠明は、目の前で必死に叫ぶ綾を見て、涙を流した。
…そうか…綾が、帰って来たのか。
綾は、自分も涙で顔をぐしゃぐしゃにしているのに、翠明が大量に涙を流すのを見て、慌てて翠明の頬に触れた。
「まあ、王。そのように…子供のようですわ。我が居りますゆえ、思い詰めずに。」
翠明は、あの頃の綾と同じ物言いなのに涙を流したまま微笑んで、その手を握って頬を摺り寄せた。
「綾…我は、我はどれほどに主に会いたいと願っておったか。また全く同じに美しく生まれついてからに…面倒が起こったらどうするのよ。別に我は、どんな姿でも主なら愛したのに。」
綾も、また涙が溢れて来るのを止めようともせずに、微笑んだ。
「まあ…王が、こうやって我を見つけてくださらぬと困るからですわ。燐の子なら、きっと我に似ておるだろうと思うて。そうしたら、このように。」
翠明は、クックと笑って綾を抱き寄せた。
「そうであろうな。我は、主の事ばかり思うて他など目に入らぬで。主があまりに似ておるから、それは嬉しかったのだが逆にの…主との違いを知ってしまう事を思うと、もう主が居らぬ現実を突きつけられるような気がして。遠く幸せを、願うだけで良いかと思うて。娶ろうとはせなんだ。」
綾は、ふう、とため息をついた。
「誠に。あちらから見ておっても案じるほどに憔悴していらして。我が居らぬぐらいで、そのようではなりませぬ。今生だって、王がどれほど生きていられるか分からぬのですから。此度こそ、重々弁えられて、我がまた先に参っても、決して呆けて務めを疎かになさらぬとお約束くださいませ。我だって、あちらでゆっくりして居たかったのですわ。それなのに、急がねばならなかったのですから。煽様だって、本当ならもう口も利きたくなかったのですけれど、我の力では記憶を維持して行けぬので、頼み込みに参って。まあ、あちらでは幼女趣味の王だったと噂されて、それなりに居心地がお悪いようですので、もう良いですけど。」
翠明は、目を丸くした。煽は、死んでからそんな悪評を立てられているのか。
「…それは…まあ、煽も気の毒な気もするの。」
綾は、また懐紙で鼻をかむと、涙を拭った。
「翠明様も。」と新しい懐紙を翠明がいつも入れる懐から引っ張り出すと、それで涙を拭いた。「王がそのように妃の事でいつまでもグチグチしておってはなりませぬよ?新しい妃を迎えるぐらいの気概がおありでないと。」
翠明は、ため息をついて綾の肩を抱いて、池を見つめて、言った。
「主を知ってしもうてから、他の女など娶る気になるはずはないわ。主は出来過ぎなのだ。だから少しぐらい不器量でも良かったのに…また絶世の美女に生まれつきおって。どうするのだ、また我は妬まれるのか。」
綾は、ぷうと頬を膨らませて、言った。
「だから姿がこれでもなかなかに信じてくださいませんでしたのに!姿が全く違ったら、絶対に会うてもくださらなかったでしょう?とにかく、我を信じてくださいませんでしたから、謝ってくださいませ。もう嫁ぐと思うておられるのでしょうけれど、あんな風に頭から信じてくださらなかったのですし、並大抵の謝罪では聞きませぬわよ?」
翠明は、そうだった、と綾を困ったように見た。綾は一度怒ると、なかなかに機嫌を直してくれなくて、困ったことになるのだ。
「だから、いきなりに信じよと申して無理な話ではないか。主ではないと思い込もうとしておったし、新しい綾を不幸にしとうなかったから。我に嫁いでも、主の面影ばかりを追い求める我に、失望するだろうと思うておったし、何も知らぬ女神をそんな目に合わせとうなかった。ゆえ、偽りだと思うて娶るわけにはと意固地になったのだ。主の幸福を祈ったからぞ。」
綾は、それをじっと恨めし気に聞いていたが、ハアとため息をつくと、袖で口元を押えて、頷いた。
「…そうですわね。翠明様をお責めするわけにはいきませぬ。何しろ、我は今夜思い出すまで、誠に子供で。翠明様をお見上げして、恐らくこの記憶を奥深くに持っておったからだと思うのですけれど、大変に慕わしいかただと思うて。おまけに柑橘がそこら中にある宮のかたなら、嫁ぎたいなあと思ったのですわ。誠に、短絡的な考えで。そうして、文を取り交わしておったら、手には自信がありましたし、きっとお誘い頂けると待っておりました。なのに、お誘いくださるのはそこらの別の宮の方々ばかり。もう、焦れてしまって、今夜月見の宴に、焔様に無理を申して連れて来てもらったのです。あなた様に、お会いして娶って頂こうと思うて。」
翠明は、また行動的な、と思ったが、綾ならそれぐらいやるだろう。とはいえ、そんな事をする女神は、なかなか神世には居ない。
「まだ我の琴はそこまでではないので、他の王と比べて我の事など懸想するはずはないと思うておった。」
綾は、翠明を見上げて心外な、という顔をした。
「何をおっしゃっておられるの。大変に上達しておられて、良い音を出されておりましたわ。でも…あの音色は我の記憶を蘇られせて、その衝撃でほとんど覚えておらぬのですけれど。懐かしい焔様の琴と、龍王様の琴の音を。地の気を呼ぶあの曲の中で、我は己の生涯を脳裏に見ました。ああ、我は再び皆様の元に戻って来たのだ、と、嬉しいやら懐かしいやらで、涙が流れて止まりませんでしたの…。」
翠明は、その肩をしっかりと抱きながら、頷いた。
「そのことは、維月殿には言うたのか。」
綾は、それには寂し気に首を振った。
「いいえ。どうお話したら良いものか。分からずで、こちらに座っておりましたの。翠明様にも、どうお話ししようかと、こちらで悩んでおったのです。そういえば、この辺りで前世翠明様にお会いしたなあと思うておったら、後ろから来られて。もう、あまり驚くこともありませんでした。きっと、我らは運命なのだと、あの時に思いましたので。」
そうだったのか。
翠明は、綾を抱きしめて、言った。
「綾、変な意地は張らずに、我に嫁いで参れ。焔に、主を娶りたいと申そう。今度こそ、主は最初から幸福になるのだ。我は、主を不幸にはせぬ。記憶の事は、打ち明けるかどうかは主が決めたら良い。我は主の考えに従おう。それで良いか?」
綾は、少し不貞腐れたような顔をしたが、選択肢は他にないので頷いた。
「はい。でも、なんだかあっけなくて複雑な心地ですわ。もっと、情緒的な感じでお申し込み頂きたかったのに。結局、こんな風で。」
翠明は、それこそ心外だと綾を見て顔をしかめた。
「情緒的とは何ぞ。仕方がないではないか、こんな風に主だと知ってしもうたら、分かっておるのに今さらであるぞ。」
綾は、拗ねたようにぷうと顔を膨らませて、横を向いた。
「我だって、普通の皇女並みに嫁ぎたいというだけですわ。だから、文だって遣わせてみたりしておったのに、全くなびいてくださらなくて、翠明様は。」
翠明は、歩き出す綾に慌てて合わせて歩きながら、言った。
「だから、此度はきちんと申し込んで、結納だって遣わせるし。そのように機嫌を悪くするでない。鷲の王族なのだぞ?主は。臣下の子ではないし、主の望み通りになるゆえ。」
二人は、まだ何やら言い合いながら歩いていたが、それを月が見ているのに、気付かなかったのだった。




