夜の庭
すっかり遅くなってしまったが、良い心地で皆、自分の控えの間へと戻って行った。
妃や皇女達は皆、もう既に戻って寝ている時間だろう。
翠明は、初めて弾いた十七弦がまた面白くて、まだ興奮冷めやらぬ心地でいた。
なので、まだ眠る気にもならなくて、一人、この東の対に沿ってある、南の庭の方へと足を運んだ。
…綾の筝は、昔のままだったな。
翠明は、そう思っていた。
きっと、あれだけ似ているのだから、体格も同じで、音も似て来るものなのだろう。
あれだけ生前の綾に似ているのだから、同じ名でもあるし、娶れば良いのだと焔も言うのだが、翠明は綾のためにももっと成長した方が良い、と焔に答えていた。
だが、それは表向きの建前で、実は、翠明は怖かった。
あれだけ似ていては、綾だと思ってしまうだろう。
そうして、娶った後は恐らく、ああして燐の子として生まれた綾なのに、生前の綾と同じ扱いをしてしまいそうな気がするのだ。
似ているとは言っても、全く同じではないはずなのに、同じ綾だと思って娶って、傍に置いて生前の綾との違いを見せつけられ、綾はもう居ないのだと再び突きつけられるのが、怖くて仕方がなかったのだ。
なので、翠明はただ、遠くに懐かしんでいる方が、きっと良いのだと、そう、綾が生きてるだけで良いのだと、自分に言い聞かせていたのだ。
綾が自分を願ってくれたら、とは、ただの自分の心の真実を、己に隠すための建前だったのだ。
翠明は、自分を騙すことすら出来なくて、ただあの時、この庭で生前の綾と出会った時の事を思い出して、同じ月灯りの下、歩いていた。
奥の池は、変わらずそこにあった。
あの時も、ここへ来てぼうっとしていて、戻ろうとしたら何やら女の気を感じたので、もしかして迷っているのかと宮へ連れて帰ってやろうとしたら、綾が居て、結構無礼な態度を取られたのだ。
あの時の綾は、己がどうしたら良いのか分からず、足掻いていた時の綾だった。
皆に厄介だと言われて、それが分かっているのにどうしたら自分は幸福になれるのかと、必死に考えていたのだ。
…誠に、懐かしい。
綾そっくりの琴を聴いた後だからだろうか、今日は常よりあの日の事が胸に迫って苦しいほどだ。
翠明が思って歩いていると、ふと、あの時のようにまた気配がした。
「…?」
翠明は、脇の茂みを抜けて、そこへ足を踏み入れた。
すると、驚いたように振り返った影があった。
「…翠明様?」
翠明は、びっくりして見つめた。
「綾…。」
そこには、綾が池の方を向いてしゃがみ込んで、翠明を振り返っていたのだ。
しばらく、固まっていた翠明だったが、気を取り直して、言った。
「ぬ、主、なぜにこんな場所に独りで!侍女はどうした、よう焔が許したの!しかも、そんな格好で!」
寝る前の着物に袿を引っ掛けただけの格好だ。
綾は、特に焦る様子もなく、ため息をついて池に石を放り込んだ。
ぼちゃん、と音を立てて石が落ちるのを見ながら、綾は面白くなさそうに言った。
「…良いのですわ。眠れなくて、こちらへ参りましたの。あの…我は、いろいろありまして。」
翠明は、怪訝な顔をした。いろいろ?
「それは…女神の中ではいろいろあろうの。」
綾は、それには首を振った。
「いいえ。皆様とてもよくしてくださいますわ。本日も、おいしい菓子も戴きましたし。それよりは…」と、また、石を放り込んだ。「…翠明様は、我のことなど子供だと思うておられますわね。」
翠明は、びっくりして目を丸くした。子供…まあ、まだ百を過ぎただけであるのだから、それはそうかもしれないが。
「子供ではないから、夜中にこんな所に居てはまずいと言うのよ。さ、帰った方が良い。送ってやるゆえ。」
綾は、肩で息をつくと、立ち上がった。
「そうではないのですわ。一向に、文を取り交わしておってもご興味おありにならないようで。我が子供だからかなと、思うたのです。あの、こんなことを言うては呆れてしまわれましょうけど、率直に言うと我は翠明様に嫁ぎたいのですわ。」
翠明は、目を見開いた。
どうして、そんなことになる。
そもそも、会ったのはあの七夕の一回きりではなかったか。
翠明の書の腕はそうでもないのに、それで綾が懸想したとは考えづらい。
いったい、どうしてそういうことになるのだろうか。
それにしても己から嫁ぎたいなど、桜はきちんとしつけたのか。
「ちょっと待て、なぜにそうなる。主は、我など知らぬだろうが。文を取り交わすとて、柑橘のことなど書いておるだけぞ。まさか、毎日柑橘が食べたいからとかではなかろうの。それなら…分からぬでもないが、毎日送ってやるゆえ早まるでない。」
前の綾ならあり得たからだ。
綾は、またため息をついた。
そして、言った。
「…翠明様には、前の妃を大変に想われて、未だにそのかたを想うておられるとか。我は、そのかたにそっくりなのでしょう?我の、祖母に当たるかたなので。」
翠明は、綾そっくりの綾に言われて、複雑だったが頷いた。
「あれは…我にとり、最高の妃であった。主は似ておるが別の神ぞ。身代わりになど、主に失礼ではないか。あくまでも、我が愛しておるのは、やはりあの、主の祖母の綾なのだ。」
そう、あの綾はもう居ない。
似ていても、違う命なのだ。
綾は、じっと黙って池を見つめていて、こちらに背を向けている。
翠明は、この綾がどう思っているのか、全く分からずその背を見つめていた。
「…我は、初めてお見上げした時、なぜか大変に嬉しくて。」綾は、淡々と言った。「一向に色好いことなどおっしゃらないけれど、文を取り交わすと心が沸くようでした。本日だって、また面倒な事を言われるから否と王に言われたのに、無理やり琴が聴きたいとお連れ頂いた。翠明様に、お会いしたかったからですの。」
翠明は、若い綾がきっと、憧れのような気持ちで自分に会いたいと思ったのだろうと思いながらそれを聞いていた。
若い頃は、まだ誰かを想う気持ちなど知らぬので、己の感情すらよく分かっていないことが多いからだ。
翠明は、息をついた。
「それはの、初めて親しく話す他の宮の神が我だったからではないのか。恋情とはそんなものではないぞ。心の底から想い、慕う気持ちというものが、大切なのだ。」
自分が綾を想うように。
翠明は、言いながら思っていた。
綾は、続けた。
「…最後まで聞いて下さいませ。そうですわ…我は子供で。こちらへ来た時には、それがどういう気持ちなのか分かりませんでした。我は…」と、黙ってから、また続けた。「…維月様にお聞きしました。翠明様が、妃を亡くしてからずっと沈んでいらしたこと。そして、毎年命日には墓前に好きだった菓子を作らせて供えていたこと。そして百年以上が過ぎた今でも、それを続けていらっしゃることを。」
翠明は、維月から聞いたのか、と頷いた。
「…その通りよ。我は…あれを追って行けたらと何度も思うた。だが、我は大きな気を持ってしもうて、老いが来ぬ。それもいつになるのか分からずで、ただあれを想うしかなかったのだ。」
翠明が言うと、綾は振り返った。
その顔は、涙でぐちゃぐちゃになっていた。
慌てた翠明は、急いで懐紙を出して綾に渡した。
「なんぞ…我の事など、焔に比べたらそう美しいわけでもないし、そこまで想う事もなかろうが。まして主の父はあれほどに美しい男なのに。」
綾は、涙を拭きながら何度も首を振った。
「そんなことではありませぬ!我は…我は…」と、チーンと鼻をかんで、続けた。「思い出してしもうたのですわ!あの、地の気を呼ぶ演奏で…あなた様を愛した我を!また廻り合いたいと、煽様に無理に記憶を留める術を掛けさせて、こちらへ来たことを。我は、綾でございます。あなた様が未だに愛してくださる、綾なのですわ!この庭で、初めて出会ったあの、どうしようもない女だった、綾ですの!」
目の前で盛大に鼻をかむ女神にも驚いたが、綾がそうだったので特に驚きはしなかったが、その話の内容が、翠明にはすぐに理解出来なかった。
「煽…?」翠明は、目を見開いた。「何と申した、主、綾か?!だが…主には記憶を留めるだけの力などなかったはずでは。」
綾は、涙でぐちゃぐちゃの顔で言った。
「だから煽様に!あのかたが我にしたことはこの際許して差し上げるので、何とか記憶を持って行けるようにと煽様に無理やり術を掛けさせましたの!規則違反だとかなんだとかおっしゃっておりましたけれど、そんなものあのかたの罪の罰だから受けて下さいませと申しました。それで…でも、全く覚えていなくて。今夜の演奏を聴くまでは、我がなぜに翠明様に嫁ぎたいのか、全てが懐かしいのか、全く分かりませんでした。それが…あの演奏を聞いて、あの折の南西の宮での最後の時を思い出して。そう、椿が調子っぱずれな琴を弾いて、我を目覚めさせたあの時を。我は…あちらであなた様のご様子を見て、案じて早う戻らねばと戻って参ったのです!」
翠明は、今聞いた事が、全く信じられずに、ただ呆けたようにまだ、子供のような顔付きの、綾を見つめて立ち尽くしていた。




