三日目
次の日、誰もが高湊の事は無かったことのように、何も言わなかった。
それが暗黙の了解となっているので、蒼も気を遣って、何か変わった事をと考えたようで、今日は庭の奥にある、滝の場所までやって来た。
その辺りは、魚も多く居て、釣りをするにはもって来いの場所なのだ。
何か競争させていたら、神達は基本必死に高みを目指すので、きっとその方が気が紛れると思ったのだ。
神は、別に釣りなどしなくても捕まえたければ気で掴めばいいし、そもそも何も食べなくても平気なので、魚を獲る必要もない。
なので基本、釣りなどしないのだが、しかし人がそんなことをするのは知っていて、見ていてたまに真似たりする神も居るのは確かだった。
そんなわけで、今日は気を使わずに、釣り竿一本で誰が一番大物を釣り上げるのかと、競う事になったのだ。
もちろん、終わった後はリリースしたり、よく太った魚なら、月の宮の料理人が調理して酒の肴にしてくれる予定だった。
全員が竿を持たされ、つまり妃達も竿を持って、滝つぼの縁へと腰かけて、侍従達に餌を着けてもらいながら、釣りを始める事になった。
綾が、ベールの中から言った。
「誠、このような事は初めてで。」と、珍し気に竿をしげしげと眺めた。「この細い糸の先に、魚が食いつくということなのですわね。誠に面白いこと。」
維月は、少しでも釣れるポイントは無いかと竿を手にウロウロしている王達を横目に見ながら、まとまって座っている妃達に小声で言った。
「…実は、我はここが里なので、何度も釣りをしておるのですわ。皆様ポイント探しておられるようですけれど、そんな事より竿の動かし方ですの。」と、維月は手首をクックと上げた。「ほら、このように。魚が誠に水に落ちて来た虫だと思うて食いつくのを促すのです。そうしたら、あちらからやって来ますわ。そもそもがこちらは大変に魚が多くて、本来入れ食いですの。」
言ったハナから維月の竿がグイグイとしなり、維月は慌ててリールを巻いた。
蒼が人世から買って来て臣下に貸し出しているリールで、メンテナンスは臣下達が完璧にしている。スルスルと糸を巻き取って糸の先が上がって来た。
そして、その先にはそれほど大きな魚ではないが、吊り下がってぴちぴちしているのが見えた。
「ほら、このように。」
妃達が茫然と見つめる中、維月がぐるりと竿を回して後ろへと向けると、待ち構えていた侍従が先の魚を器用に外して、後ろの桶の水の中へと泳がせた。
綾が、感心したように言った。
「まああああ!案外に簡単ですこと。」と、真剣な目になって、クイクイと維月に倣って竿を動かした。「これで良いのかしら。」
すると、入れ食いと言っていた通りに、綾の竿もグーッとしなって糸が瞬く間に引っ張られて行った。
「まあ!」維月は、思わず腰を浮かせた。「綾様、大物ですわよ!この引き、これは絶対に大物ですわ!」
綾は、真剣な顔で必死に維月がやっていたようにリールを巻き取る。
「あら、まあ、これで良いのかしら。何やら硬い…あ!」と魚が水面から飛び出した。「まあ!何と大きな!」
侍従が、必死に網を手に落としてはとそれをすくいに掛かった。
あちらでウロウロするだけだった王達が、足を止めて茫然とこちらを見ている。
綾の釣りあげた魚は、とても桶には入りきらなかったので、網に入れたまま滝つぼの中に漬けておかれることになった。
「まあ凄いわ!あれをしのぐ大きさの魚は、なかなか居らぬやもしれませぬわよ、綾様。夜はお酒を共に飲みましょうか。良い肴になりますのよ。」
綾は、興奮したように目を潤ませた。
「何と楽しいこと!釣りと申すのはなかなかに面白いものですわ。」
維月は、何度も頷いた。
「そうでありましょう。我も…ただ、一度何も知らぬで錦鯉を釣り上げてしもうて。その時は王が驚かれて針を抜いて池へ返された事がありましたわ。もう何百年も前のことでありますけれど。」
さすがにそれには、椿も綾も玉貴も仰天した顔をした。
よくそんなことをして、王が叱らなかったなと肝を冷やしたのだ。
「ま、まあ…錦鯉を。」
玉貴が、竿を手に目を丸くして言う。
すると、隣りの椿の竿がぐ、としなった。
「あ!維月様来ましたわ!」
「巻いてくださいませ!」
皆が、回りでまたどんな魚がと構えて見つめる。
そんな様に、王達はむっつりと小声でそちらへ聴こえないように気を遣いながら、言った。
「…あちらはどんどん釣りあげておるぞ。そろそろどこかへ糸を下ろさねば、妃にも負けるという体たらくなことに。」
箔炎がそう言うのに、炎嘉が顔をしかめた。
「ではこの辺りで良いかの。」と、ぴょんぴょんと岩を飛び移って行く維心を見た。「維心!主そっちへ行くのか。」
維心は、頷いた。
「一か所に固まっておってもの。我はこちらで釣る。」
義心が、サッサと桶を手に飛んでついて行って、維心の糸の先にせっせと餌を着けて準備をする。
維心は、義心が準備した糸を、誰にも教わらないのに綺麗に振って、ぽちゃんと水面へと落とした。
「…む。あやつ、慣れておるぞ。」
焔が言うと、炎嘉が糸を垂らしながら、言った。
「そう言えば前世に維月が宮の池で知らぬで鯉を釣るのだと愚痴っておった時があった。あの頃は目を離したら何をするか分からぬ状態であったからのう。何しろ、まだ人が抜けきっておらぬで。我もそれを聞いて、ようそんなものを妃にしたのと驚いたものだったわ。その折、やり方を学んでおるのやもしれぬぞ。」
維心は、それを聞いてフフと口元を緩めた。
何しろ、今生の維心は月の宮で育った。
維月が居て、もちろん釣りだって教わったし釣りかたなど心得ている。
炎嘉は、こちらでそれを見て、む、と眉を寄せた。
「そういえば…あやつ、今生こちらで育っておったの。まさか釣り慣れておるのではないのか。」と、小声で言っている目の前で、維心の竿がしなった。「やはり!あやつは慣れておるぞ!」
見ると、維心はグイグイしなる竿を事も無げに操ってリールを巻いている。
しかも、少し巻いては様子を見て、また手加減して巻くを繰り返して明らかに手慣れていた。
義心が、獲物の大きさをそのしなりで判断したらしく、網を持って水面の上に浮き、構えていた。
維月が、対岸で言った。
「あれはかなり大きいですわ!」と、水面に出た魚の背を見た。「ほら!」
確かに、サメなのではと思うほど大きい。
蒼は、言った。
「それ、主ですよ!維心様、大きさを測ったらすぐにリリースしてください!」
維心は頷いて、義心を見た。
義心は頭を下げて、網で捕らえてから、蒼に渡されたメジャーで大きさを測り、言った。
「…160センチメートルです!」
でか!
維月は、思った。
間違いなくあれはここの主だ。
義心がさっさと針を抜き取り、網から出すとその魚は水面から顔を出し、維心を見上げたように見えた。
その後、魚は滝壺深くに潜って行った。
「…維心様、主を釣り上げるのは何度目ですか。」蒼が、竿を手に言った。「確か維月とよくこちらへ来ておりましたけど、一度釣り上げたと聞いてから何度もありましたよね。」
維心は、ため息をついた。
「あれはのう、愚かなのだ。一度釣り上げた時、これ以上はないなと喜んでリリースしたが、次の日またかかっての。いくらなんでもと、少しは賢くならぬかと説教したのだ。でも、それからもちょくちょくかかってなあ。その度に怪我をするし、傷を治してやるのだが、あまりに哀れだし釣り自体をせぬようになった。」
維月は、それを覚えていた。
小さな維心が何度も掛かる主に、主な、もっと学ばぬか、ようそれでここまで生き残ったの、と主に説教していたのだ。
それを思い出して笑えて来たのだが、隣りの綾が言った。
「龍王様とこちらで釣りを?」
維月は、ハッとして慌てて頷いた。
「はい、我がお里帰りの時に、共に来てくださいまして。最近ではありませんでしたけれど。」
大人の維心と釣りをした記憶はない。
だが、綾達はそんなことは知らないのでそう答えるしかないのだ。
焔が意地になって来たのか、言った。
「なにやら釣れぬぞ。」
言われて見たら、何度も妃達が釣り上げていたのに、こちらはシンとしている。
それに、妃達の方も当たりが無くなって止まっていた。
「…主が釣られたので。恐らく警戒されておるのでしょう。」
炎嘉が、むっつりと唸った。
「初っぱなから余計な事をしおってからに。」
しかし、維心は顔をしかめて言った。
「あやつ、まだ学んでおらぬのか。安易に釣り上げられるでないというに。」
しかし、義心は首を振った。
「どうもわざとなのではないかと。」維心が驚いていると、義心は続けた。「王のお顔を見ておりました。あれは王の気配を感じて、底からわざわざ出て参ったのでは。」
言われて見たら、小さな維心に対しても、ここの主はそうだった。
釣られるなと言ったら、わざわざ水面まで浮いて来て背びれを見せ、ここに居るとこちらにアピールしたりしていたこともある。
維月と一緒にその背を手で撫でた記憶があるのだ。
「…全く。困ったやつよな。」と維心は苦笑した。「ならば他に釣り上げられることはあるまい。まあ良い、おっとり待つわ。」
すると、焔の竿がぐぐっとしなった。
「お!来た!」
隣りの炎嘉が慌てたように言った。
「巻け!早う!」
焔がそこそこの大きさの魚を釣り上げて喜ぶのを横目に見ながら、維心はゆっくり糸を垂らして座っていたのだった。
王とは違い、岸からおっとりと並んで座って糸を垂らしていた妃達は、当たりもないので竿を手に話していた。
椿が、言った。
「それにしても…脳の病とお聞きしました。高湊様にはお気の毒な。あれから部屋で倒れておられたのだとか。」
綾や、玉貴、杏奈、桜もしんみりとした顔をした。
維月は、頷いた。
「はい…まさかそんなことであったなんて存じ上げなかったので。月の獄に繋いだりして、申し訳なかったですわ。」
綾が、頷いた。
「ご存知なかったのですから。それにしても、我の侍女が燈子様の侍女から聞いたことですけれど、治癒の対で見た高湊様は、お目を覚まされた後はまるで赤子であられたのだとか。言葉も分からず…ただ怯えるばかりで、高彰様が眠らせて帰ろうとまた、術で眠らせたのだと聞いております。」
桜が言った。
「我が王も、病の時には覚えていないが相当に暴れたのだとか。それでも正気に戻る時もあったらしいのに、恐らく高湊様はそれ以上の重い病のようで…回復は望めないのではないかとおっしゃっておりましたわ。」
公明も脳の病と言われていたが、あの時は本当は将維が地の気の調整を間違えていたからだった。
今は将維は月の宮に籠り、未だに後悔して必死に精進しているらしい。
こうして里帰りしていても、まだ維月は顔を見ていないほどだった。
「…どちらもいろいろ心に重い物をお持ちであられて、そのせいではないかと思いますわ。やはり我らが王をしっかり補佐して癒して差し上げないと、重い責務を負われているのですから。」
それには、皆ハッキリと頷いた。
「はい。誠にそのように。」
「ああ!でかいぞ!蒼、網はどこぞ?!」
炎嘉が叫んでいる。
その近くでは、駿が竿を手に右往左往していた。
どうやら駿がそこそこの大きさの魚を釣り上げようとしているらしい。
維月は、どうかこのまま何事もなく平穏にと、そんな様を眺めながら思っていた。




