病
高湊は、これからどうなるのだろうとそれなりに不安ではあったが、たかが妃、一人を少々過度に罰していたからと、自分の宮や命などを差し出せとは、誰も言えないのは知っていた。
ただ、あの時龍王妃に罵倒されて、思わず掴みかかろうとした事実は消えない。
後でハッとしたが、実際には手を触れる間もなく月の二人にあの変な膜の中へと籠められてしまい、手を掛けたわけではないので、そこは高瑞にも炎嘉にも、特に何も言われることはなかった。
なので、上手く忘れられているのだろうと思われ、そこはホッとしていた。
あんな事実が維心に知れたら、妃を溺愛している龍王のことだ、恐らく一瞬で激昂して何をするか分からない。
何も言って来ないし、月の膜からも出されたので、とりあえずこのまま体調を崩したとか何とか言って、明日には帰るか、と考えていると、そこに月の宮の筆頭軍神、嘉韻がやって来た。
筆頭軍神がいったい、何の用ぞ…?
高湊は、慄いた。
何しろ、侍女が呼ぶことがあっても、わざわざ筆頭軍神を呼びにやる、王も居ないからだ。
なので、嘉韻が来たということは、何か自分を罰しようという動きに見えた。
だが、嘉韻は言った。
「高湊様。蒼様より、東応接間へとお連れするよう命を受けました。こちらへ。」
特に無理やり引っ立てようという感じは受けなかったが、それでも嘉韻からは有無を言わさぬ圧力を感じた。
気の大きさは、確かに高湊の方が大きいが、嘉韻は上位の宮の筆頭軍神にはあり勝ちな、大変に大きな気を持つ神で、しかも戦い慣れていて優秀だ。
そんな嘉韻にこんな風に言われて、抵抗でもしようものなら、恐らく当身でもくらわされてさっさと運ばれてしまう可能性があった。
なので、高湊は渋々、しかし表向きは平然と頷いて、嘉韻について廊下へと出た。
するとそこには、もう一人の軍神が立っていた。
その軍神は、月の宮の上位の者だけが着けられる甲冑を着ていて、否が応でもその能力の高さを感じ取ることができる。
「李心。参るぞ。」
嘉韻が言うと、李心と呼ばれたその軍神は、頭を下げた。
「は!」
そうして、嘉韻が前、李心が後ろについて、高湊は回廊を渡って行った。
まるで囚人の護送のような様に、高湊は内心、何を言われるのだろうと落ち着かなかった。
それでも、宮を存続させるには自分が必要なはず。
高湊は、命までは取られないと、自分を鼓舞して黙って嘉韻について歩いた。
…ここは、あの広間ではない。
高湊は、到着した扉の前で思った。
皆で遊んでいたあの広間とは、違う場所へと連れて来られたのだ。
嘉韻は、戸惑う高湊を振り返りもせず、言った。
「王。高湊様をお連れしました。」
すると閉じられた扉の向こうから声がした。
「入れ。」
嘉韻が扉を開くと、その向こうは応接間の設えで、王達が皆ぐるりと円を描くように座ってこちらを見ていた。
覚えのある気にふと目をやると、その中には、ここに居ないはずの高彰が険しい顔をして座っているのが見えた。
「高彰…?主、こんなところで何をしておる。」
宮を見ておくように命じて来たはず。
炎嘉が、口を開いた。
「我らがここへ呼んだのよ。」驚く高湊に構わず、炎嘉は険しい顔のまま空いた椅子を示した。「座るがよい。」
全員が、何やらむっつりと黙っている。
やはり、皆には自分がやった事が知らされているようだった。
高湊が、嘉韻に後ろから無言で気で圧力をかけられて椅子へと座ると、嘉韻は蒼の隣りに膝をついて控えた。
炎嘉が、言った。
「…まあ、主が言うように我らは普段なら、余程のことがなければ宮の奥の事まで口出しせぬ。だが、此度は目に余る。ここに居る皆は、主がやったことを己の目で見た。高彰も然り。月からは丸見えであるからの。それは維心の記憶に残り、そして皆はその記憶を見て知った。これは神権問題であり、主が躾と言うのは通らぬと判断された。あからさまな虐待ぞ。宇州がこれを知れば今度こそ攻めて来よう。我らは主を庇う理由はないゆえ、そうなっても手助けはせぬことで一致しておる。そうなると、困るのは主の宮であるので、高彰を呼んだのだ。」
高湊は、確かにあれを知られたら、駿が瑶子を放置していただけで攻めて来ようとした宇州なのだ。
必ず激昂して攻め入って来るだろう。
そんなことまで考えてもおらず、そもそも誰もこんなことには口出ししないと思っていた高湊は、狼狽えた。
「そんな…ただ、行きすぎた躾だったやも知れぬが、度重なる無礼であったゆえ。ついあのようにしてしもうただけ。普段はこんなことはないのだ。」
無視したり嫌みを言ったりはあったが、ここまで傷をつけたりは、これまでしたことはなかった。
それは事実だった。
だが、炎嘉は首を振った。
「例えそうだとしても、やったことは事実ぞ。女に手をかけるなど、恥ずかしいと思わぬのか。我だって、前世妃を二人処刑したが、それは後宮を乱したからよ。嬲り殺したりはせず、一思いにの。それは明らかな罪に対する罰であり、宮のもの達も神世の王達も納得したものだった。だが、主のやったことは違う。我は、妃を殺すことを楽しんだ事はないぞ?主は明らかに楽しんでおったよの。あれは罪に対する罰というものではないし、燈子がそこまでの罪をおったと言うのなら、今ここでそれを申せ。納得したら、考えも変わるやも知れぬ。」
高湊は、何度も気を失って面倒をかけるからだ、と言おうとして、口をつぐんだ。
恐らくそれだけではぬるい…ならば宮で香合わせだ楽だと浮き足立っていたからと付け足したらどうだろう。
それでも、様子を見ていた高彰が居る手前、燈子が気遣っていたことも、宮の務めを疎かにしていなかった事も明らかにされてしまうだろう。
…どう答えたらいいのだ。
何しろ、高湊はあの時、ただムシャクシャしていただけだったのだ。
上位の王達に当たる事ができないので、無抵抗な燈子を嬲って憂さ晴らししていた。
それがバレてしまっているのだ。
黙り込む高湊に、高彰が口を開いた。
「…もう良い。」皆がそちらを見ると、高彰は続けた。「できたらこの体が成人してからと思うていたが、主はあまりにも愚かな上に性根が腐っておる。このままでは、ただでさえ地に落ちようとしておる我が宮の品位は取り返しがつかぬようになる。王座を降りるのです、父上。我が宮を立て直そうぞ。」
高湊は、まだ子供の顔をしている自分の皇子にそんなことを言われて、顔を真っ赤にした。
「何を偉そうに!高々百年少しの小童が!我に指示するでないわ!」
高彰は、それでも怯むことなく言った。
「これで済ませてやると申しておるのに。これまで何とか繋げたのは、主が及ばずながらも王座に就いたからぞ。それを評価してやろうと言うのだ。そうでなければ、今頃そこへ入って来た時点で主を斬って捨てておるわ。」
高彰にはそれができる。
何しろ何事にも優秀な高彰には、もうとっくに高湊は敵わないのだ。
まだ数十年そこそこで、いきなりに手練れになった息子相手に全く太刀打ちできず、高湊は訓練場にも出向かなくなっていたほどだった。
維心が、息をついた。
「ならば神世にはどう説明するつもりよ高彰。此度のことは知られるわけには行かぬぞ。我ら上位の王の品位も疑われるやも知れぬからの。」
高彰は、維心を見た。
「そちらに迷惑は掛けぬつもりでありまする。とりあえずはこれを病だと告知して、我が王座に就く。燈子は母であるから宮に留め置き、高湊は高司が隠居しておった離宮に籠める。」
維心や祖父にまで横柄な口をきく高彰に、高湊がショックを受けていると、全く気にしていないように維心は答えた。
「…良い考えだが、高瑞の二の舞にならぬか。またあの場所で瘴気がどうのとなれば、蒼に面倒が掛かる。それにここには高瑞が居る…恐らくあの様子では、ここに高湊が来たらあれはこれを殺すぞ。」
なぜに父上が…?!
高湊は、心の中で叫んだ。
表向きは兄だが、あれは父なのだと知っている。
宮に居た頃には疎まれてはいたが、それでも殺そうとまではしなかった。
それなのに、殺すと?
高彰は、頷いた。
「分かっております。」と、高湊を見た。「父上、主は知らずで燈子を嬲っておる時に、あの罪深い女の面影をその顔に映しておったのですよ。高瑞はそれを見て、あの女を思い出し今はここには居らぬ。主を殺してしまうと同席せなんだのだ。」
罪人の母か…!
高湊は、心底後悔した。
そんなつもりは全くなかったが、自分は知らずであれほど疎んじた母と同じことをしたのだ。
無抵抗な幼子に手を掛け、己の欲を満たそうとした女。
自分も無抵抗の妃を手に掛けて、己の欲を満たそうとしたのだ。
外から見たら、自分もその女と同列だということなのだ。
もはや高彰が無礼だとも言えずにショックで呆然とする高湊に、高彰は続けた。
「…そのまま生きるのは辛いでしょう。我は、身が育つのを、今か今かと待っていた。だが、もう待てぬ。主はあまりにも愚かであった。普通の神ならそれでも良いが、王では宮を滅ぼすことになる。王座を降りるのです、父上。」と、手を上げた。「誠に病になるが良い。とはいえ主は何も知らぬし、己が王であったことすら忘れるであろう。王族である事実も忘れて、新しくやり直すのだ。その方が幸福ぞ。」
高湊は、ハッと我に返って怯んだ。
「何を…何をするつもりよ!」
高彰は、答えた。
「記憶を消す。」と、手から光を発した。「脳の病と言われるだろうが、全てを始めから学び直すだけよ。もはや柵もなく、不幸とも感じぬ。まだ数百年生きるのだ、やり直すが良い。」
高彰から発しられた、光は高湊の頭を捉えた。
…確かに記憶が無ければ瘴気も湧かぬか。
皆が思ってみていると、高湊は逃れようと暴れた。
「そのような…!我が我で無くなってしまう…!」回りを見たが、誰もそれを止めようともせず、ただ黙って見つめているだけだった。「ああ…!それなら殺してくれたなら…!」
高湊は、そのままそこへバッタリと気を失って倒れた。
高彰の手の上には、テニスボール大の記憶の玉が浮いていた。
「…何もかも取った。」と、その手の上で着火した。すると一瞬のうちに、それはジュッと音を立てて消え去った。「これで終いぞ。」
蒼は、複雑な気持ちでそれを見守った。
今の今まで高湊ととして存在した意識が、この一瞬で消えたのだ。
炎嘉が、息をついた。
「…終わったの。とはいえこやつも哀れなものよ。だが、高彰はやり直す機を与えたのだ。燈子にはどう説明するのだ。」
高彰は、答えた。
「そのままぞ。脳の病だったと申します。臣下にもの。あんな狼藉を働いたのは、その前兆だったと説明すればあれも納得するだろうと。後は主らが漏らさねば良いのですよ。」
焔が、頷いた。
「誰にも漏らさぬ。こちらでいきなり倒れたのだと皆で口裏を合わせよう。それなら代替わりもおかしくはないからの。とにかくは、収まったのだと。」
蒼は、側に控える嘉韻に頷き掛けた。嘉韻は、頭を下げて気で高湊を持ち上げる。
「治癒の対に運ばせるよ。でも、あそこには燈子殿が居るから…。」
高彰は、頷いて立ち上がった。
「説明に参る。」と、皆を振り返った。「申し訳ない、皆で楽しんでおったのに。これを落ち着かせてから、宮へ戻る。叔父上には主らが説明してくれないでしょうか。また年明けの会合には参るから、その時に話しましょうぞ。」
炎嘉が、頷いた。
「わかった。主はそれまでに宮の中を何とかして参るが良い。」
そうして、高湊を浮かせて運ぶ嘉韻について、高彰は出て行った。
…とりあえず、我の記憶の事は言わない方が良かろうな。
高彰は、そう思いながら皆に背を向けて歩いた。
残された王達は、複雑な思いでそれを見送ったのだった。




