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その頃、維月は綾と椿と一緒に、広い畳の間の茶会の席へと到着して、そこで三人並んで庭を見て座りながら、暗い顔をしていた。
目の前には茶と茶菓子が置いてあったが、維月が一度口をつけたのを見て皆それに倣っただけで、今は誰も手を付けようとしない。
あれほどに菓子が好物の綾ですら、深刻な顔をしてそれに手を伸ばそうとしなかった。
維月は、あまりにも重い空気に、言った。
「…誠に、お正月からこのようで申し訳もありませぬ。あの…燈子様のご様子を見てしもうたので。」と、眉を寄せて袖で口元を押えた。「…誠に…腹だたしい心地でありまして。」
綾も、隣りで何度も頷いた。
「維月様からお話を聞いて、我だって心底憤りましたわ。あの焔様ですら、桜様の事は自由にさせておられましたの。楽だって、やりたいと言えば琴を与えられて。何でもやらせておりました。そう思うと、焔様が何やら酷い夫でも無かったような心地になって参るのが不思議でありますけれど。」
それには、椿も頷く。
「誠にそのように。そのように酷い王が居ったなんて。いくら我らがお仕えしておるとはいえ、妃を守るべき王がそのようでは、何を信じて良いか分からぬではありませぬか。」
本当にそう。
維月は、思った。
神世では、愛情がなくても守ってもらうために、嫁ぐということが未だに多いのだ。
それなのに、その守ってくれるべき王が、己を日常的に攻撃して来るとなると、何を信じて生きて行けば良いのか分からない。
維月は、深いため息をついた。
「…十六夜は、とても大きな心の持ち主で、我の方が短気なほどですのに。その十六夜が、大変に怒っておるのを今もひしひしと感じておりまする。あの、気で小突いて転がして、倒れて起き上がろうとしては小突きを繰り返し繰り返し、王の前で何を寝ておるとか申して…起き上がろうとしても、転がすのは己であるのに。それでも必死に起き上がろうとする燈子様を、薄っすら笑みを浮かべて見ておったそうですわ。そして、最後には着物を剥いで庭へと放り出したのだとか。我には考えられぬような悪行でありまして…。」
言っていて腹が立って来たのだが、十六夜はそう、維心達に説明していた。
それは、維月がこちらへ歩いて来る間もしっかりと月から聞いていたので確かだった。
綾が、卒倒するのではないかというほど、顔を赤くして言った。
「まあ!何と言うことを!」と、扇も降ろしてしまって、髪を振り乱して怒って言った。「月の獄とおっしゃっておられましたけど、そんなものではぬるいですわ!燈子様が感じた恐怖を、同じように感じて頂かないと気が済みませぬ!我らの友でありますのに!」
維月も、それは思った。
皆で楽しく風呂で裸で笑い合って、それはそれは打ち解けたところだったのだ。
それを、燈子がそんな虐待を受けたとなれば、誰も許すことなどできないだろう。
維月は、頷いた。
「…ええ。我とて、考えておりますわ。ここは月の宮、我の里。我が父に、神がどんな罰が一番に苦しいのか、聞いてみたいと思うております。いくら残虐だと言われても、燈子様の恐怖に比べたら。絶対に許せぬ心地でありますもの。」
椿が、何度も頷いた。
「その通りですわ!誠に思い知らせてやりたいもの。いくら何でも、そんな所業が許されておったら、皆安く過ごすことができませぬもの!」
維月が同意して一つ、頷くと、目の前の庭にパッと碧黎が現れた。
「我に用か。」
維月は、いつものことなので驚くことはなかったが、綾と椿が仰天した顔をした。
こうして目の前に現れるのは二度目とはいえ、まずい。
維月は、慌てて言った。
「ま、まあお父様!少しお待ちくださいませ、ベールを。」
侍女達が、慌ててわらわらと後ろから走って来て、椿と綾に大きなベールを被せた。
そうして、二人共上位の宮の妃の嗜みとして、その中で高々と扇を上げて顔の半分以上を隠すと、碧黎は窓を開いて、中へと入って来た。
そして、維月の前に座ると、言った。
「いちいち面倒なのは神世の事であるからこの際良いが、主ら余程腹が立ったのだの。獄に放り込んだか。」
維月は、むっつりと頷いた。
「はい。だってお父様、あまりにも酷い仕打ちでありますわ。」
碧黎は、ため息をついた。
「分かっておる。見ておった。」と、庭を振り返った。「…炎嘉と高瑞が参っておるが、声が通らぬゆえ十六夜が通訳しておるな。確かに主らが怒っても仕方のない様子ではあった…あれは、己の中に何やら暗い物を持っておる。黄泉から来る時に持って来たというのではないようなので、母から何か、腹に居る時に善しない気をもらっておったのやもしれぬな。確かにあれの母は最後には狂っておった。ゆえ、それが今になって漏れておるのやもしれぬ。それはあれのせいではないが、まともな神ならそんな己の中の暗いものは律して真っ当に生きるもの。あれは少し、甘え過ぎておったの。」
確かに一年腹に居る間、高湊の母は獄に繋がれていただろう。
生まれるまでは生かしてもらえるが、産んだ後はきっと殺される、と恐怖に苛まれながらの一年であったはずだった。
それだけの事をしたのだから仕方がないが、それでもその暗い気を受け続けて育った高湊が、まともでいられるかと言われたら、そうではないだろうと思われた。
「お父様は、何が一番だとお考えであられますか?我は、燈子様のお気持ちを思うと、とてもあれぐらいでは許せぬ心地でありますの。同じだけの恐怖を味わけば良いのに、と思うてしまいまする。」
碧黎は、苦笑した。
「主、分かっておったはずであろう。先ほどの維心の舞いといい、主らの演奏といい、我には大変に心地よくて思わず我を忘れて気を放ってしもうた。主らの命を大変に育っておって、見ておっても美しいと感じるほどであったのに、この僅かの間に暗くまるで墨でも落としたようになっておるぞ。分かっておろう、誰かを罰するのは、その資格がある者がする。この場合、地上を治める任に就いておる維心か、それとも地自身である我ぞ。その他があれを罰しようとすると、穢れる。僅かではあるがの。そんな穢れを受けてまで、主はあやつを禊いでやりたいと思うのか。放置して、黄泉で裁かれるのを待つでも良い。とにかく、主や十六夜ではあれを罰しては損ぞ。やめておけと申す。」
綾と椿は、それを黙って聞いている。
維月は、言った。
「では…燈子様をこのまま放置すると仰るのですか?高湊様は、死ぬまでは好き勝手しても良いと?」
碧黎は、ため息をついて首を振った。
「そうではない。月の任ではないと申しておるのだ。主らの憤りは我とて見ておって知っておるが、主らがやるのは損であるから、維心に任せておけと言うのよ。燈子が不憫だというのは、何も主らだけの心地ではない。あちらに居った王達は、皆軒並みそのように申しておったわ。ゆえの、主は黙って見ておるが良い。恐らく、納得することになろうぞ。十六夜にも同じことを申すつもりでおる。獄は消すが良い。」
維月は、顔をしかめた。
碧黎が言うことは分かるのだが、心がついて行かないのだ。
だが、苦渋の顔で、頷いた。
「…分かりました。我らには、身に過ぎた事と言うことですわね。」
碧黎は、頷き返した。
「その通りよ。見ておるが良いぞ。何事も、定在適所というものがある。維心がどう決断するのか、見ておるが良い。我はあれに任せておるから、あれの決断で良いと思うておるが、あれが我を呼ぶなら知恵を与えてよいとも思うておる。とにかくは、今は燈子は治癒の対で守られておるし、問題ない。しばし落ち着いて、また風呂にでも入って来たら良いのではないのか。ゆっくりするが良いぞ。」
維月は、下を向いた。
いくらなんでも、今から風呂に入ろうという気持ちには、もうなれないのだ。
「…では、私からはもう何も。十六夜も納得しましたら、あれは消しましょうほどに。」
碧黎は、苦笑した。
「ではそれで。」と、維月の頭を撫でた。「そのような顔をするでない、我が何とかするゆえ。このままではの、主らの獄の中では方向も分からぬようになるし、見えぬし聴こえぬから、あれが狂うのよ。もっと面倒が起こってはならぬから。分かったの。」
維月は黙って頷いて、それを見た碧黎は、またスッと消えて行った。
それを見送ってから、綾が横から、おずおずと言った。
「まあ維月様…相変わらず御父君は大変に美しいかたですわね。我もお話を聞きながらお姿を眺めておったら、何やら憑き物が落ちたような心地になって参って。」
そうなのか、と維月は驚いた顔をした。
思えば、碧黎は地であって安心する存在だ。
その地が穏やかに諭すのに、普通の神なら落ち着いて、ウンウンと聞いてしまうものだろう。
「…そのように申して頂いて嬉しゅうございますけれど、我は何やらもやもやして。分かっておるのですけれど、燈子様が友であるからこそ、高湊様を許せぬ心地が抜けませぬの。」
椿が、反対側の隣りから言った。
「分かりますけれど、ここは碧黎様が仰る通りに。我らでは、確かに何を申しても王達のご判断には逆らえぬのですから。それより、碧黎様が仰っておったように、お風呂にでも参りますか?」
綾が、頷いた。
「そうですわ。気分を変えて参りましょう。維月様の普段は清浄な気が、今は何やら暗くて案じられますから。スッキリして参りましょう。」
そんな気持ちでは無いのだが、しかし二人があまりにもこちらを気遣って何度も言うので、維月は仕方なく立ち上がって、またあの湯殿がある宮へと、三人で渡って行ったのだった。




