軋轢
「あの…始めに申しますが、燈子様から何か申されたのではありませぬ。こちらから無理にお伺いして。」維月はそこは言っておかないと、燈子がやつ当たられてもと、先に言った。「我が気付いて。香合わせの時ですわ。あの、あの通り燈子様には何事にも優れていらして、香合わせも申し分なく。我が正月の慰めにといろいろ考えて香をお持ち頂けたらとお知らせした時にも、とても快くお返事をくださいました。ですが…楽に引き続き香のことに関しましても、高湊様にはお気に入られないようで。高瑞様がいらしたら何もおっしゃらないようですが、お目につかないようにご不在の時に合わせていても、嗜められて大変に肩身の狭い思いをなさったようで。そんなご様子なので、御父君の宇州様がお持たせになられたもののほかに、香の材料は手にできそうになくて、その中で何とかしようとしていらしたようですわ。そこに、香にも造詣が深い高瑞様が気付かれて、宮の物を分けて頂けて、あのように見事な物を合わせて来られたようで。そんな中でもああして合わせて来られるのですから、燈子様には大変に優れたかたなのですわ。」
それには、志心が眉を潜めた。
「あれほどに素晴らしい物を作れるのに。何としたことか。己ができぬからと、やっかんでおるのか。小さな奴よ。」
高瑞も、それにはむっつりと頷いた。
「知らなんだ。我の前ではそんな素振りもなく。なので、燈子には我の合わせた香も見せてやったりと、宮に行った時には目を掛けておったのだ。何しろ、高湊が何もできぬのは知っておったからの。あれはそれすら面倒に思うておったということよな。」
炎嘉が、深刻な顔をした。
「それでは燈子が哀れよ。あやつは王であるのに己が不甲斐ないのを妃にやつ当たるなど、何をやっておるのだ。それで維心に叱責されたのに、懲りておらぬようよな。」
維心は、ため息をついた。
「そのようではまた、何かしでかしてもおかしくはない。高瑞、ようよう見ておかねばならぬぞ。問題になるようなら、百年待たずでも高彰を王座につけても良いから。あれは高彰の母であるし、悪いようにはならぬだろう。誠に厄介な…此度蒼に言うて呼ばねば良かったか。」
箔炎が言った。
「それは宮の関係があるゆえできぬこと。とにかくは高湊の気性を何とかせねば。我も気になっておったのだ。何しろ舞いをやろうという話になった時には、燈子と機嫌良く話しておったのに、炎嘉と我らが舞って、維心が舞った辺りでもう、顔色が変わっておった。恐らく己では敵わぬとか思うておったのではないか。」
「あれは舞いだけは好きであってよう我から学んで…」そこまで話して、高瑞は、ハッとした。そうだ、我には敵わぬと。早う追い付きたいとか…。「…そうか。そちらの回廊で行き合っての。その折我も舞おうかと気軽に言うたのだ。もしかしたら、だからではないかの。あれは確かに舞いはそこそこだが、まだ名手といえるまでは行かぬでな。それを、主らの舞いを見て悟っておったところに、我までとなると比べられると逃げたのではないか。」
「だから戻ると言うておったのにそのように。」焔は、合点がいった顔をした。「だが…維月の話からも燈子は大丈夫なのか。碧黎の気は体に良いから、恐らくその時は気を失っても今頃気付いておるのでは。もしやまた、やつ当たられておるのでは?」
維月も、それは思った。
倒れたりするから舞えなくなったとか、理不尽なことを言って責めているような気がする。
だが、いくら月で見えるとはいえ、私室の中を覗くのは気が引けた。
だが、そんなことは気にしない同族はこちらには山ほど居る。
《おい!》十六夜の声が割り込んだ。《ちょっと何とかしてやれ!燈子が襦袢姿で庭に放り出されてるぞ!》
「ええ?!」
皆が叫んだ。
維月は、堪らず立ち上がった。
「行くわ!」と、維心を見た。「維心様、御前失礼致します。」
維心が頷こうとした時には、もう維月はパッと消えてそこには居なかった。
「まあああ…!」
綾は、呆れるというよりは感嘆の眼差しでそれを見ている。
そうか、維月も本気になればパッと消えてパッと出るわな。
維心は苦笑したが、炎嘉が呆れたように言った。
「なんぞ、せっかくこれまで模範的にやっておったのに。あれもやはり月の眷属よな。」
維心は、頷いた。
「それだけ怒ったということぞ。」と、大きな窓から見える、月を見上げた。「どうよ?維月は行ったか。」
十六夜は頷いた。
《ああ、無事に。あいつ慣れてねぇから、滅多にやらねぇし肝を冷やしたよ。まずいんだよ、いくらオレらでも。蒼は絶対やらねぇだろ?最悪バラバラになっちまうから。》
誠か。
維心は、顔色を青くした。
しかし、天媛が言った。
「大丈夫、我が手助けしましたゆえ。」驚いてそちらを見ると、天媛は困ったように言った。「鍛練すればいつかできることですし良いかと。誠なら十六夜が案じたように、なかなか出現できぬで霧のように漂うばかりになっておりました。あれの心地は分かるし、つい。」
維心は、何度も頷いた。
「世話を掛けたの、天媛よ。また戻ったら何か贈るゆえ。何でも申してくれたら良いぞ。誠に助かった。」
天媛は、苦笑して首を振った。
「良いのですよ、維心。維月には我とてよう庇ってもろうたし、助けねばと思いますゆえ。我は天黎とは違いまする。」
確かに天黎は、あれだけ庇ってもらっておきながら、どこまでも傍観者なのだ。
高瑞が、天媛の肩を抱いた。
「誠に主が情深いゆえ助かるものよ。すまぬな。」
十六夜が、言った。
《ああ、維月が自分の袿を燈子に着せて、話してる。そのうち戻って来るだろう。》
維心は、とりあえずホッとして、維月が戻るのを待つことにしたのだった。
一方、維月は消えるのは消えたものの、見るのとやるのとはえらい違いで目標が定まらず、どうやって出現したらいいのか分からずパニックになりそうになったが、そうしたら勝手に体がスーッと実体化して、庭の燈子の前へとパッと現れることができた。
自分でも驚いたのだが、何とか元に戻れたことに安堵して、慌てて目の前で必死に窓を叩いて、中へ入れて欲しいと泣きながら懇願する燈子の背へと駆け寄った。
「燈子様!」
燈子は、ハッとして振り返る。
すると、ガラス窓の向こうには、高湊がこちらを見て、舌打ちしたように見えた。
「燈子様、これを。」維月は、さっと上に着ている袿を、紐を解いて脱いだ。「これを着て。外は寒いのに、いくら気が使えるからとそのようでは体を壊してしまいますわ。」
すると、高湊が窓を開いた。
「維月殿、これは手違いで外へと出ておっただけ。そのように着物など貸して頂かなくとも良い。」と、燈子を睨んだ。「さあ、中へ入れ。」
燈子は、ビクッとしておずおずとそれに従おうとした。
だが、維月はそんな燈子をぐいと引っ張って自分の背後へと隠すようにすると、高湊を睨みつけた。
「お控えなさいませ高湊様。我の眼前で何をなさっておるのです。我が月であり地であることを、まさか知らぬと申しませぬわね。」と、空を指差した。「あれは我であるのですよ?」
高湊は、ハッと空を見た。
そこには、大きな月が浮かんでいた。
…見ていたのか。
高湊は、グッと眉を寄せた。
「…これは我が宮の事ぞ。いくら月であり龍王妃であっても、我の奥の事まで口出しなどさせぬ。こやつの躾がなっておらぬから、言うて聞かせておっただけぞ。」
維月は、ホホホと高らかに笑った。
「まあ!燈子様の何がそのように至らぬと申すものか。」と、高湊を睨んだ。何しろ、維月は心底怒っているのだ。「…ならば申しましょうぞ。あなた様は王であられながら、香も分からぬ楽も分からぬ、まして舞いとて我が王にも敵わぬであられて。ならばできる妃で幸運と燈子様に教われば良いものを、器の小さい者ほど何やら誇りがどうのと意地ばかりで愚かな行動をするようでありますこと。」
高湊は、それを聞いてみるみる顔を真っ赤にした。
燈子は、その姿を見て恐れ慄いている。
「言わせておけば!」と、高湊は手を上げた。「そのような口、叩けぬようにしてくれる!」
維月も、それを見て手を上げた。
すると、十六夜の人型がいつの間にか空に浮いていて、維月と共にその力を高湊へと向けた。
「うお…?!」
高湊は、何が起こったのか分からずでじたばたとしたが、全く太刀打ちできない何やら心許ないような膜が自分を包んでいて、何をやっても纏わりついて、自分から離れることが無かった。
「…だからさあ、ここはオレんちなんだっての。」十六夜が、言った。「高湊、お前、妃を虐待するな。大概目障りなんでぇ。全部見えてんだからな。お前が宮で燈子に嫌がらせしてんのもよ。まさかここへ来てまでとは思ってなかったが、これ以上は見過ごせねぇなあ。ここじゃ、王であろうと何であろうと等しく同じ扱いを受けるんでぇ。悪ぃがそこに入ってな。しばらく何も聴こえねぇし気も通らねぇし、そうだな、見えなくしてもいいかな。」
維月が、険しい顔で頷いた。
「そうね。膜を真っ黒にしてもらいなさいよ。黄泉の獄と同じものを生きながら味わえるわよ?良かったこと。」
ちっとも良くないが、どうやら二人の声は、念によって膜の中の高湊には聴こえているようだった。
高湊は、中でブンブンと首を振っている。
口がパクパクしていて、何か言っているのは分かったが、それでもそれを聞いてやろうとは思わなかった。
「何かしら?」維月は、わざと耳に手を当てて聴こえない、とジェスチャーした。そして、フンと鼻で笑った。「燈子様の恐怖を味わえばよろしいわ。ではね。」
維月は、高湊に背を向けた。
燈子が、気遣わし気に高湊を見たが、高湊はこちらへ来ようとしても、そのわけの分からない膜の中で身動きが取れず、押し返されて膜の中で尻餅をつくだけだった。
燈子は、そんな高湊からスッと視線を外すと、維月に促されて、庭を歩いて宮の中へと向かって行った。
十六夜は、そんな高湊を置いて、空へと戻って行ったのだった。




