地の音
「お…!」炎嘉が、急に始まった音に、振り返った。「何ぞこの音は…凄まじい大きさを感じる。」
月を愛でる曲。
維心は、維月の琴の音をその中に感じ取ったが、それはまるでシンクロしているように、ぴったりと別の音と重なって聴こえて来て、まるで一心同体の、双子のような感じを受ける。
「…十六夜か…?維月の音に重なっておって…。」
だが、聞いた事がない。
維心は、耳をそばだてた。十六夜の音はもっと快活であっけらかんと明るい感じがするのに、これはもっと深く、もっと重みを感じる、しかし癒しの音だ。
すると、こちらに力を与えるようなその音を追うように、他の琴も一斉にかき鳴らせ始めた。
主旋律は全くぶれることなく、一直線に重なっていて、離れる事は無い音で、二つの音は完全に重なっていながらも、お互いを想い合うような、艶のある色を含みながら、やはり二つの音だった。
「…綾が弾いておるな。」
焔が言うと、箔炎も微笑しながら頷いた。
「椿も、菖もぞ。これは良い、あの人数でこの演奏が出来るとはの。」
間違いなく、維月が引っ張っているのだが、それとあと一人は、誰ぞ。
維心は、眉を寄せてじっと聞いた。天媛ではない。天媛の音も聞き分けられるが、高瑞に似ていて分かりやすい。
だがこの、とてつもなく大きく感じる誰かの事が、全く分からないのだ。
すると、蒼が、ふと、言った。
「…碧黎様?」
維心は、え、と蒼を振り返った。
「碧黎は、琴を弾くのか。」
蒼は、驚いた顔のまま、頷いた。
「天黎様が教えてほしいと言って。一度だけ、聞いたことがあります。多分これは、碧黎様だ。」
あれは、琴も弾くか。
あの眷属に出来ない事など無いのだから、それはそうかもしれない。
だが、いつまでも維月と重なるこの音が、碧黎の音だと思うと、なぜだが落ち着かなかった。
そうして、こちらの桟敷の皆が息を詰めて惜しむようにそれを聞いている中、その月を愛でる曲は名残惜し気に終わった。
「…見て参る。」
維心が、立ち上がる。
炎嘉は、その袖を引いて止めた。
「こら。あちらは他の妃も皇女も居る、行くなら準備の時を与えてからにするが良い。いきなり押し掛けるでないぞ。」
維心は、炎嘉を睨んだ。
「碧黎は居るのにか?我が参っても大丈夫ぞ。」
だが、蒼が慌てて言った。
「お待ちください、すぐに準備させますので。」と、傍の侍女に頷きかけた。「碧黎様は維月の父で天媛様の子なので、一緒くたになっても几帳さえあったら大丈夫なんですけど、維心様はあの中では維月しか傍に行けないので。今、あちらの場を空けさせますから。」
志心が、呆れて言った。
「こら。押し掛けるとか言うでない。どうせ終わったら控えで会うのだからの。良いものを聞かせてもろうたものよ…誠にの。」
炎嘉も、何度も頷いた。
「誠に良い演奏であったわ。ほら維心、無理を申すな。誰だって今の演奏を聴いたら覗いてみたくなる場であるが、それは無粋というものぞ。そんなに維月の側に行きたいのなら、ここへ呼べ。維月だけ来させたら良いではないか。己が女の只中へ行くとか言うでないわ。」
言われて、維心はそうだった、と仕方なく座り込んだ。
しかし、維月を呼ぶにも着物が幅を取るので、今楽器でとり散らかっているここに、座る場所がない。
あの几帳と御簾の中で何が起こっているのか気になって仕方がなかったが、それでも公の立場もあるので、維心はただ、蒼の侍女達が、自分があちらへ行けるように準備を終えるのを、待った。
維月は、碧黎との演奏を終えて、顔を上気させて言った。
「素晴らしいわ。お父様、本当に素晴らしい音でありました。これほどしっくりと合わせられるなんて思いもしませんでしたこと。」
碧黎は、微笑んで頷いた。
「案外に上手く行ったの。主が今、陰の地であるから合わせやすかったのよ。対であるから、一心同体であるしの。」
言われてみたらそうだった。
維月は、今日は地になっていたのだったと思い当たった。ならば、あれほどに音が重なっていたのも道理だ。
維月は、フフと笑って言った。
「とても楽しかったですわ。お父様がこんなにお上手であるなんて、全く知りませんでしたから。次の里帰りの時は、楽器で遊びましょう。」
碧黎は、維月の肩を抱いて、頷いた。
「では、それで。」と、額に口づけると、立ち上がった。「…維心がうるさいゆえ、戻るわ。何やらごねて、蒼が困っておる。」
碧黎が言ったかと思うと、蒼の侍女がわらわらとやって来て、自分と天媛の間にも几帳を立て掛け始めた。
そして、維月の席をグイグイと押して、端へと持って来ようとしている。
…もしかして、維心様がこちらへ来るとか言ってるの?!
この、女ばかりの場所に。
維月は、顔をしかめた。ちょっと碧黎と琴を弾いただけで、そんな無理を言い出しているのだ。
「困りましたわ。維心様はこちらへ来ようとなさっておるのですわね。」
碧黎は、頷いて言った。
「ではの。」
そして、パッと消えた。
維月は、大きなため息をついて、侍女達に言った。
「父はもう戻ったので、維心様にはそちらでお楽しみくださいませと伝えてくれませぬか。こちらは手狭で、女ばかりでありますので…と。」
侍女は、それを聞いて驚いた顔をしたが、維月に頭を下げると、几帳を立てる手を止めて急いで出て行った。
天媛が、様子を見ていて、息をついた。
「…我も他神には何も言えぬけれど、維心は少し、神経質であるわね。妃の父親に、挨拶をしようと考えたわけでもないでしょうに。我だって、礼儀はもう弁えておって分かりますよ。これは、かなり無粋な事ですわね?」
言われて、維月はバツが悪そうな顔をしながら、頷いた。
「はい、天媛様。多分、お父様と私の合奏の音を聴いて、お父様が私と心を通わせているとか、そんな事を想われてこちらへ来ようとなさっておるのではないかと思うのですけれど。それにしても、こんな女ばかりの所へ押し入るのは、大変に無粋なことでありますわ。」
天媛は、大きなため息をついた。
「困った神だこと。これさえ無ければ、あれは大変に出来た王であるのに。天黎にも、そんな維心の様子が主のせいだと思うて、昔黄泉へと送ろうとしたわけですし。少しは分かっておるかと思うたのに。」
するとそこへ、今度は天黎がパッと出て来た。
「…誠に困ったヤツよ。」と、そこへ座り込んだ。「維月、先ほど言うておったな。琴は、男性が弾くと女性を誘うような面がある、と。碧黎の音には、主を誘うような色があったぞ。ゆえ、あれは落ち着かぬのだろうな。」
維月は、驚いて声を落として言った。
「天黎様、こちらには他の宮の方々もいらっしゃるのですから、そのようにおっしゃらないでくださいませ。」
天黎は、クックと笑うと、傍の維月が弾いていた、和琴を引っ張った。
「我も弾く。主が我を誘わぬから、では我が誘うてみようかの。」
維月は、びっくりした顔をした。
「え、え、ちょっとお待ちくださいませ。」
またややこしい事になるのでは。
すると、天媛が言った。
「お待ちなさいな、天黎。なりませぬよ、維月から誘うのを待つと言うておったではありませぬか。確かに幸福な感覚であって、主がそれをまた体験してみたいと思うのも分かりますけれど、今はなりませぬ。他の神も居るのですから。」
維月がドキマギしていると、天黎は天媛を軽く睨んだ。
「己が高瑞と毎夜満たされておるからと。ま、良い。主が言う通りよ。」と、あっさり天黎は立ち上がった。「またにする。ではの。」
そうして、パッと消えて行った。
…今、誘うのを待つと言っていたのでは、と天媛は言ったわね。
維月は、どうしよう、と困った顔をした。もしかして、天黎はあの時の経験が忘れられなくて、またしたいと思っているのではないだろうか。そしてそれを、天媛は知っているのではないだろうか。
侍女が几帳を中途半端に置き去りにして、取り散らかった落ち着かない場で、維月は天媛に小声で言った。
「あの…天黎様は私が誘うのを待つとおっしゃっておるのですか。」
天媛は、あっさり頷いた。
「ええ。天黎はあのような幸福を感じたことがなかったので、出来たらもう一度と思うておるが、碧黎や維心の事もあるから、維月から誘った時に応じる形で、と申しておったのよ。なのに、演奏を聞いて、あれも心が沸き立ったのかしらね。最近は、我が高瑞様と幸福にしておるので、やっかんでおるのですわ。」
維月は、それは大変だ、と思った。
確かに天黎は強引な命ではないが、どうしてもとなると誰も抗えないのだ。
維心が知ったら面倒なので、維月は聞かなかった事にしよう、と思い、落ち着かない場をなんとかする方へ意識を向けたのだった。




