過去のこと
蒼は松が非番と言ったが、松は今夜は夜番だった。
それでも、王が気遣ってくれたのだから戻った方が良い、と夕と貴に言われて、松は二人に甘えて今夜は辞することにして、治癒の対へと比呂を迎えに向かった。
すると、治癒の対では奈々に代わって、麻実が子達の世話をしているところだった。
子達は、皆着替えさせられてあって、うきうきとはしゃいでいる。
松が、そうだった、楽を聴きにつれて参ると言っていた、と思っていると、麻実が振り返った。
「あら、松殿?今夜は夜番だったのでは。」
松は、渋い顔をした。
「王がお気遣いくださって、我を知る神が居られたので暇を戴きましたの。そういえば、子達は庭が間近に見える部屋を許されておったのでしたわね。」
麻実は、頷く。
「そうなのですわ。なので、先ほど奈々と二人で皆を着付けたところですの。でも、非番であられるならお手伝い頂こうかしら。共に子達と同行して頂けますか?奈々は昨日から働いておったので、今休憩に参りましたの。仮眠を取ってもらうので、数時間戻りませんわ。我一人では、子らをばらけさせずにつれて参るのが難しくて。」
確かに、生後数か月の赤子も居るのだ。
松は、二つ返事で頷いた。
「もちろんですわ。比呂も華やかな宴を見てみたいでしょうし、お邪魔にならないお部屋から見せて頂ける絶好の機会でありますもの。我もお手伝い致します。もう参るのですか?」
麻実は、首を振った。
「いえ、まだ皆様桟敷にも移っておられないでしょうから。日暮れの頃ですから、四時頃かしら。後一時間ほどですわね。」
松は、微笑んだ。
「ならばそれまで何かやる事はありますか?お手伝い致しますわ。」
麻実は、フフと笑った。
「もうお着替えも済みましたし。では、しばしお茶でも。子達もしばらくは遊んでおってくれるようですし、絵図の巻物の新しいのを図書館から持って参っておるので、退屈もせぬでしょう。」
松は、茶器へと手を伸ばした。
「では、茶をお淹れ致しますわ。しばしお話でも。」
そうして、松は麻実と二人で茶を飲みながら子達が遊ぶのを見守り、移動の時を待ったのだった。
夕刻が近付いて来て、宮の庭の篝火に火が入り、そろそろ臣下の家族も東北のゴザの敷かれたエリアへと、続々とやって来ていた。
もう午後四時を過ぎて、月の宮にはどこにでもある時計が指示する通りに、軍神達はあちこちに火を入れて、あちこちの警備にとついて行く。
きっちり分単位で予定が決まっている月の宮では、それ以上に働くとなると追加の賃金、つまりは報酬の物が増えるシステムになっているので、皆時間に正確だった。
さすがにタイムカードは無いが、各隊の隊長がきっちりシフト管理しているので、過ぎたらすぐに報告がなされ、記録されるようになっていた。
そんな中、雑煮を食べてお節料理を肴にビールや酒を飲み、楽しく歓談してすっかり機嫌良くなった王達は、蒼に先導されて、庭の準備されてある、桟敷の方へと移動して歩いた。
桟敷には几帳で囲まれてあるエリアもあり、妃達はそこに座るようになっているようだ。
王達はその前に並んで座ることになり、その王達の向こうに別の桟敷があって、どうやらそこで碧黎が演奏するようで、琴が一つ、ポツンと置かれてあった。
あちこちの篝火が段々と冴え冴えと見えるようになって来て、日がどんどんと暮れて来るのが分かる。
維心の後ろの几帳の中に座りながら、維月はワクワクと隣りの綾に話しかけた。
「綾様、誠に楽しみで仕方がありませんの。でも、ここからでははっきり見えませぬわね。王達の背が見えて、父の居場所がよく分かりませぬわ。」
綾は、隣りで頷いた。
「誠に。ですけれど、これだけ近ければ音は良く聴こえましょうし。ああ誠に我も楽しみですわ。」
さっきから、あちらの席でもいくらか話していたので、ここで改めて維月が皆に順番に話しかける必要もないので、維月はそれで黙って、必死に父はまだかと琴の方へと目を凝らしていた。
王達も明るい顔で話し合っていて、維心ですらうきうきとしているのが伝わって来るほどだ。
皆の期待をこれほどに背負って、碧黎も出て来づらいのでは、と蒼は案じていた。
一方、東北の方では、奈河が河玖を抱いて八重を後ろに歩いていた。
大層な着物を着てしまったので、八重は河玖を抱いてここまで来れなかったのだ。
奈河は、側で警備に立っている、同僚に話しかけた。
「基憲。どうだ、結構な人数だな。」
ゴザのエリアには、多くの神々が続々と入って来ていて、端の方から座る場所を探しては家族で集まって座っている。
基憲は答えた。
「奈河。あっちで信武が整理してるが、結構な数だな。今のところは皆、ここに収まるんじゃないかという話だ。」
奈河は、頷いた。
「嘉韻殿は?あちらか。」
基憲は頷く。
「王達が居る東へ入り込む輩が居てはならぬから、あちらの警備を統括していらっしゃる。マジで殺される勢いだから、あちらへ近寄らぬ方が良いぞ。我ら軍神の威信に関わると仰っておったからの。」
それはそうだろうな。
奈河は苦笑して、頷いた。
「我はここらで適当に聞いて、終わったら子も連れておるしすぐに帰るわ。」
基憲は頷いて、笑って手を振ると任務に戻って行った。
奈河は、ここでは皆訪問着の中で、場違いに派手な着物を身に付けた、八重が恥ずかしかった。
皆が見ているが、その視線が羨望ではないように思う。何しろ、まだ学校で侍女などの教育を受けたわけでもないので、はぐれの神の中では上品に見えたそれも、こうして宮の女達を見慣れた今では付け焼刃でしかないように見えるのに、豪華な着物を着て澄ましている様は、どこか滑稽だと奈河は思ったからだ。
…勝手に帰って来れるだろうし、少し離れておるか。
奈河は、どうしてこんなことにと思いながらも、河玖を連れてぶらぶらと皆のゴザの間を歩き回った。
一方、松は、麻実と共に子達を連れて、指定されていた小部屋へと到着していた。
小部屋といっても、ここは侍女の待機所なので広さは畳が八枚ほどあり、窓が庭に向けて開いているので外が良く見える。
赤子は畳の上に敷いた布団の上に並んで寝かせて、他の幼い子らと外を見て見ると、かがり火に照らされてそれは美しく、王達がこちらに背を向けて座っているのが見えた。
その後ろには几帳が立てられてあり、中に妃達だと思われる、影が見えていた。
「なんて美しいのでしょう。」比呂が、松に言った。「母上、ご覧ください。几帳の絹の色も、侍女達の着物の色も庭に映えてまるで絵図のようです。」
松は、比呂の頭を撫でながら頷いた。
「ええ、とても美しいわね。これからお琴が聴けるのですよ。滅多に聴けない碧黎様の演奏だとか。」
「あ!母上だ!」
浬が、声を上げる。
確かに夕が、妃達の几帳の中に出たり入ったりしながら、恐らく何か問題はないかと気遣っているのだと思われた。
「夕殿は、誠にお気がつくかたですから。お世話に励んでおられるのですわ。」
麻実が、言った。
「誠に美しいこと。我が子供の頃には考えもせぬような光景ですわ。我は、父に連れられてこちらへ入って…この子達のように、治癒の神達に面倒を見てもらいながら、父の帰りを待っていたものでした。はぐれの神の集落に居た時とは、考えられぬ厚待遇で。学んでこうしてお仕えできるようになりましたけれど、蒼様にはどれ程に感謝しておりますことか。父も、感謝してもしきれぬと、毎日励んでおりますもの。」
松は、麻実を見た。
「麻実殿のお父上とは、坂様でしたか?」
麻実は、微笑んで頷いた。
「はい。坂の上に住んでいたので皆にそう呼ばれて名になったのだとか。我の名は、蒼様から戴いたもので。父には字を教える親も居りませんでしたから。父は根っからのはぐれの神でありましたが、母が我を産んで亡くなった時に、我を不幸なままにはせぬと心根を入れ換えたのだと申しておりました。母は美しいかただったようで…ここに入っていたら、適切な手当てを受けて、死ぬこともなかっただろうと悔やんでおりましたわ。でも、我は今幸福でありますし。父にも幸福になって欲しいと思うております。」
松は、頷いた。
誠にこうして改めて聞いていると、蒼は数々の神を助けて幸福にしているのだ。
月はとても慈悲深く、松自身も十六夜が応えてくれなければ、ずっと今も父の宮の奥深くに籠められていたことだろう。
それに感謝しながら、はしゃぐ子達を落ち着かせて演奏が始まるのを待った。
空は暗くなり、月が昇り始めていた。




