楽の音
「…素晴らしいわ…。」
天媛が、ため息と共にそう漏らした。
その合奏の音は、本当に美しかった。
天媛の他は、息をするのも忘れて聞きいっていて、とても声を漏らせる状態ではない。
思った通り、地の底から碧黎の気が這い上がって来て、苦しいほどに回りを満たして皆を幸福な心地にさせる。
体が熱くなってきて、それが地の気によるものか、合奏によるものか誰にも判断出来なかった。
そうして合奏は、最高潮に盛り上がって、スッと終わった。
皆がそのまま、声を出す事も出来ずにいると、炎嘉が熱を冷まそうと、扇を懐から引っ張り出して扇ぎ出した。
「誠に良い音であったわ!やはり、この宮でやるからであるのか碧黎の気がいつもより多かった気がするの。是非あれの感想を聞きたいものよ。」
すると、声がした。
《良いものを聴かせてもろうたわ。》まさか本当に声が返ってくるとは思わなかった皆が驚いていると、声は続けた。《聞き応えのあるものであった。なので、いつもより多く気を送ったのよ。我を讃える、主らへの労いぞ。》
そうか、これは地を讃える事になるのか。
皆が思っていると、維心が言った。
「あまりに濃い気で逆に苦しゅうなったわ。加減をせぬか、碧黎よ。」
碧黎の声が笑った。
《我を忘れての。しかし、良い音だった。ようやったと褒めてやろうぞ。》
維心は、ついぞ上から目線でものを言われたことがなかったので、答えに窮して黙る。
志心が、ハッハと笑った。
「地に掛かると主も形無しだの。」と、琴を翠明に押しやった。「主、良い音を出すようになったの。こちらも弾いてみよ、筝より主に合うやも知れぬ。」
翠明は、驚いて首を振った。
「箔炎に教わってやっとこれを弾きこなせるようになったばかりぞ。十七弦は弾いたことがないのだ。」
焔が、ハッハと笑った。
「いくらも変わらぬわ。主の腕なら弾けようぞ。どれ、我が教えてやろう。」
焔は、志心の琴を引っ張って、軽く弾き始めた。
蒼が、それを見て合奏が無事に終わったのにホッとしながら、言った。
「では、皆様も酒など飲みながら、好きに弾いてみたりと楽しみましょうか。酒の肴もご用意しておるので、ゆっくりしてください。」
炎嘉が、運ばれて来る酒瓶を見て、笑って頷いた。
「おお良いの。良い感じに月も昇って来ておるし、楽しもうぞ。」
そうして、皆が皆、誰かが弾く楽器に耳を傾けたり、興が乗ったら共にあわせてみたりと弾き散らして、楽しみ始めたのだった。
天媛が、言った。
「誠に維心はどうやって弾いておるのか。良い音を出しますこと。主はあれに教わったのですか、維月。」
維月は、まだ合奏を聞いた熱が冷めないままに、頷いた。
「はい、天媛様。維心様には、本気になられたら皆聞き惚れてしもうて宮でも務めがおろそかになってしまうと、夜しか聞かせてもらえなかったほどですの。我が王は、何事にもそつのないかたで。」
維月は、そんな維心が誇らしかった。何でも出来るのだが、何でもするわけではない。だが、維月が頼めば、苦笑しながらも聞かせてくれる。
そんな時、自分はなんて幸運な女なのだろうと、いつも思った。
「また、ご合奏などしてみたいもの。」椿が、横から微笑んで言った。「以前に鳥の宮での合奏の折は、母も壮健で弾いておったと聞いておりますのに、我はあの頃はまだ弾けずで加わることが出来ませんでした。今なら、簡単な曲ならご一緒出来るのにと口惜しいのですわ。」
維月は、微笑んで頷いた。
「そうですわね。では、少し弾いてみても良いかもしれませぬよ。」と、侍女に頷きかける。「月の宮の、我の琴など持って参りましょうほどに。天媛様にも、お持ちの楽器をこちらへ持って来させてもらえませぬか?」
天媛は、頷いて自分の侍女に頷きかけた。侍女は、同じようにサッとそこから離れて行った。
「面白いこと。我は合奏というと、高瑞様としかしたことがないのですわ。お教えくださったのも、高瑞様であるので。」
維月は、笑って言った。
「高瑞様のお琴も、お優しい穏やかな気質が漏れるような良い音でしたわ。」と、まだじっと向こうの桟敷の方を見ている、綾の背に言った。「綾殿?あなたもどうですか。」
声をかけてから顔を見て、維月は驚いた。
綾は、大量の涙を流していたのだ。
「まあ…」維月は、慌てて胸から懐紙を引っ張り出した。「王達のご合奏を聴くのは初めてでいらっしゃいますものね。あのように素晴らしい演奏を聴いたら、胸がいっぱいになるものですわ。」
椿も、菖も慌てて膝を進めて綾をいたわるように寄って来た。
「誠に、感動的な演奏でしたもの。分かりますわ。」
綾は、維月から受け取った懐紙で顔を覆いながら、頷いて、言った。
「…どうしたわけか、涙が止まりませぬの。」綾は、嗚咽を漏らしながら、言った。「誠に…幸福で…そう、懐かしくて。王がこの曲を宮で弾いておられるのを聞いたことはありませんでした。ですのに、これを聞くと胸が締め付けられるようで…ただ、幸福であるのに、寂しいような、懐かしいような、そんな感情で涙が溢れてしもうて。己でも、どうしてこんなにと、不思議なほどで…。」
やはり、綾なのでは。
維月は、それを聞いて思っていた。
綾と、最後の時に焔と維心と、綾と維月でこの曲を合奏して時を過ごした。
綾は、あれだけ寝付いていたにも関わらず、あの時だけは起き出して、一緒に弾くことが出来たのだ。
それを最後に、枕も上がらぬようになって、綾はこの世を去って逝った。
維月は、己も涙が溢れて来そうになったが、必死に留めて、頷いた。
「命が覚えておることもあると申します。きっと思い入れのある曲であるのでしょう。さあ、涙を拭いて。」と、侍女達がわらわらと運んで来た、琴を振り返って、言う。「皆で合奏など致しませんか。本日は月見の宴でありますし、月を想うというよりも、月を愛でる曲など弾いてみましょうか。」
天媛は、微笑んで自分の筝を引き寄せた。
「良いわね。それなら我も知っておるわよ。ならば維月、主が和琴を。皆を先導してくださいませ。」
維月は、爪を付けながら綾を見た。
「綾殿、弾けまするか?聞いておるだけでも良いのよ。」
綾は、まだ涙を流していたが、グッと涙を拭くと、首を振った。
「我も弾きますわ、維月様。そちらの筝をお貸し頂いてよろしいでしょうか。」
維月は、頷いて侍女にそれを移動させるように促した。
椿も、菖もそれぞれに琴を引き寄せて、糸の調子などを見ている。
皆が準備を終えるのを待っていると、すぐ脇から声がした。
《…我も弾くか。》
維月は、びっくりして顔を上げた。
姿は見えないが、碧黎の声が間近でしたのだ。
「お父様?お弾きになられますの?」
碧黎の声は、頷いたようだった。
《あれらの合奏が思いのほか良かったからの。我も弾く。準備せよ。》
言われて、維月は慌てて侍女に命じて几帳を移動させた。維月は父親なので姿が見えても構わないが、他綾や椿、菖は見せてはならないと思うだろうからだ。
天媛が、困ったように言った。
「まあ。碧黎ったら珍しく興が乗って。我が弾けるのですから、天黎だって弾けるのでしょうけど、あれは弾かぬのでしょうね。」
維月は、微笑んで同じ几帳の中に居る、天媛を見た。
「誠に。男性が弾くと女性を誘うような面があるので、天黎様には自然必要ないと感じられるのかもしれませぬ。」と、几帳がぴっちりと椿達と自分達を分けたのを見て、維月は言った。「お父様。よろしいですわよ。」
碧黎は、パッと現れて維月の横に座った。
「では、我が弾く。主と共にの。合わせようぞ。」
維月は、一緒に主旋律を弾くのね、と頷いた。
「はい、お父様。」と、几帳の向こうの皆に言った。「我が父と共に始めましたら、皆様もついていらしてくださいませ。」
几帳越しに、影が動いて頷いたのが見える。
維月は、碧黎と視線を合わせて、そうして全く同時に、琴をつま弾き始めた。




