まずい事態
維心は、もうとっくに起きていた。
だが、どうしても応接間に行く気になれず、じっと居間に座っていたのだ。
そこへ、侍女がやって来て炎嘉がどうしていると言っている、というので、仕方なく出て行くことにした。
維月は、いつもの事だがまだ寝ている。
なので、さっさと自分で着替えると、内宮へ向けて歩き出した。
維心が応接間へと足を踏み入れると、そこには炎嘉、箔炎、志心、公明、翠明、高湊、駿、匡儀が揃っていた。
渋い顔をしながら空いている椅子へと歩いて行くと、炎嘉が言った。
「なんだ維心、ゆっくりだったの。蒼と焔は恐らく来ぬ。蒼はいつもの通りで、焔は二日酔いぞ。」
匡儀も、言った。
「うちの方も彰炎がぶっ倒れて英鳳と頼煇に担がれて先に帰ったわ。宇洲と誓心もそれと共に出発したゆえ、残っておるのは我だけぞ。」
維心は頷いて、椅子にどっかりと座った。志心が、言った。
「どうした?何やら不機嫌のような。あれから碧黎と話したのか。」
言われて、維心は盛大に眉を寄せた。
どうやら、聞いて欲しくなかったらしい。
だが、炎嘉も皆も黙って答えを待っているので、仕方なく言った。
「…実は志心に言われたのに、昨夜つい、強めに維月から離してしもうて。ちょっと言うただけだったのだが…うるさいと怒って帰ってしもうて。我の今の、体の状態を詳しく聞くことができなんだ。」
それには、炎嘉が困惑したように言った。
「だから言うたのに。やはり主は、感情の制御が難しくなっておるのか。」
維心は、頷いた。
「少し。分かっておるのに碧黎と維月のことには気が騒いでならぬで。前はこうではなかったし、理解して全くとは言えぬが気にならなんだのに。感情がついて参らぬ感じぞ。昨夜も特に何か言うたわけではなかったのだが、恐らく碧黎が我の心地を気取って面倒に思うたようで、怒って帰った。取り決めを破るとまだ思うておるのが我慢ならぬと。」
皆は、顔をしかめた。
すると匡儀が、不思議そうに言った。
「何の話ぞ?主は引っ込む前に何かあったのか?」
それを聞いて、炎嘉はハッとした。
そうだった、北西には何も知らせていなかった。
なので、炎嘉は言った。
「…引っ込んでおる間に体を壊しておってな。脳の病というか、少し具合がようなかった。ゆえ、我と諍いがあると言うてしばらく引っ込んでいたのだ。こちらの気の流れが、地のせいでおかしくなっておったのが原因ぞ。今は大丈夫であるから、こうして維心が復活した祝いをしておるのだが、まだ本調子でないようで。」
匡儀は、それを聞いて神妙な顔をした。
「知らなんだ。すまぬな、何も知らぬで見舞いもなく。」
維心は、首を振った。
「良いのだ。来てもらっても会えなんだ。」
公明が言った。
「我も長く脳の病で引っ込んでおったから、分かるつもりよ。最近になって良うなったが、最中はまともに話す事もできぬが、宮のために臣下は外に漏らしておらぬで。神世からは、我がいきなり引きこもったと思われて、警戒されておったほど。」
匡儀は、それを聞いておののいた。
「待て、こちらでは脳の病が流行っておるのか?勘弁してもらいたいのだが。」
志心が、苦笑して首を振った。
「いや、だから地の影響でな。今は元に戻っておるから問題ない。しかし維心は後遺症があるので、全回復までには時が要るだけぞ。移るわけではないゆえ、案じるな。」
匡儀は、それを聞いてホッとした顔をした。
「ならば良かった。黎貴に譲位せねばならぬかと思うたわ。まだあれでは心許ないゆえなあ。」
何も知らない匡儀からしたらそうだろう。
だが実際は、あの維心の体は匡儀の孫になるのだ。
夕貴が生んだものだからだ。
維心は、言った。
「…とにかくは今は、我の感情は赤子のようなもの。このまま満ちて来て二百年ほどはもっと激しくなろうし。どうしたものか。」
つまりは、今はこの程度だがこれからどうしたら良いのかと言っているのだ。
炎嘉は、困ったなと思っていた。
何しろ維心はこれぞ龍といった激しい性質で、それを抑える事で落ち着いて君臨していた。
段々に激しくなるのなら、回りが抑えきれるのだろうか。
「…これからの様子を見ておるしかなかろう。」志心が言う。「もしかしてそれほど案じるほどではないのやも知れぬしな。今は、努力するしかない。我らも補佐するゆえ。」
そうは言っても維心を抑えるなど皆で寄ってたかっても難しいだろう。
それでも、それしか方法はなかった。
「天黎様に聞いてみますか?」そこに、声が割り込んだ。見ると、蒼が入って来ていた。「きっと何もしてはくれないけど、教えてはくれますから。」
高瑞が驚いた顔をして振り返った。
「蒼!主、起きたのか。」
蒼は、苦笑した。
「オレだってその気になれば起きるよ。それより、維心様のことだろう?」
炎嘉が、言った。
「天黎か。確かにそれが一番だが、我らはそこまで気安うないゆえ。主が聞いてくれるか。」
蒼は頷いた。
「月の宮ならどこで呼んでも出て来てくださるので。聞いておきますよ。」
匡儀が、顔をしかめた。
「また知らぬ名よ。天黎とは誰ぞ?」
そうか、北西にはそれも知らせてなかった。
維心が答えた。
「主らには知らぬ方が良い存在ぞ。碧黎の親だと思うてくれたら良い。何でもできるが、何もしない。力がありすぎるからの。」
蒼は、頷いて匡儀を見た。
「知ると関わらないといけなくなるので、基本あまり公表しない事になっているのだ。とんでもなく面倒なことになったこともあるから、主は知らない方がいいと思う。」
匡儀は、月の眷属か、と何度も頷いた。
「そうか、面倒は懲り懲りであるからな。一応そんな存在が居ることだけは頭に置いておくことにする。」
月の眷属に深く関わると面倒なのは知っている。
なので、匡儀はそれで黙った。
炎嘉は、ぽんと膝を叩いた。
「では、維心のことは蒼に任せるということで。とりあえず碧黎の機嫌が悪いのなら月の宮に寄る事もできぬし、今日のところは宮へ帰るか。そろそろ皆も飛び立って行くようぞ。我らも帰ろう。」
箔炎は、隣りで頷いた。
「そうするか。椿に公明と桜のことを話さねばならぬしな。何にしろめでたいのだし、後の懸念はまた、後のことぞ。」
そうして、皆は控えへと戻り、飛び立つ準備を始めた。
維心は懸念は抜けないが、とりあえず蒼に任せて、返答を待とう、と居間へ帰って行ったのだった。
控えの間に帰って帰還の準備をしていた蒼が、高瑞と居間で落ち合うと、嘉韻がやって来て膝をついた。
「王。輿の準備が整っております。」
蒼は、頷いた。
「そうか。じゃあ行くよ。」
蒼と高瑞が嘉韻について扉を出ようと歩き出した時、全く何の前触れもなく、天黎が蒼の目の前に現れた。
蒼が、突然のことに足を止めるのが間に合わなくて後ろへつんのめった形になり、後ろの高瑞が慌てて蒼を支えた。
「こら!」高瑞が、蒼を立て直しながら言う。「こんなところにいきなり出るでない!危ないではないか!」
嘉韻も、呆然としている。
天黎は、言った。
「我に聞きたい事があると言うておったではないか。わざわざ来てやったのに。」
蒼は、何とか踏ん張って立つと、言った。
「だから呼んでから来てください!ぶつかるところじゃないですか!」
天黎は、ムスッとした顔をした。
「なんぞ、気をきかせてやったのに。維心の体のことであろう?」
蒼は、確かに今聞いた方がすぐに知らせに行けると気持ちを立て直して、言った。
「…はい。あの、維心様は赤子ですか?」
天黎は、頷いた。
「そう。あれはまだ生まれて一年ほどの体よ。気は満ちておるが、それでも前の維心よりいくらか少ないであろう?とりあえず、体を無理やり大きくしただけなので、言うなれば主が老いた体に化けるようなもの。姿は老いているが、中身は若いであろう?そういうことぞ。」
高瑞が、言った。
「ということは、中身は赤子だが体が大人ということか?」
天黎は頷く。
「少し違う。体は大人に見せているだけで本来赤子。中身は記憶があるゆえ大人だが、感情など器に引きずられるゆえ赤子のままよ。何しろ体が赤子であるから、大きな気を発する事ができぬ。とはいえ維心は赤子でいてさえ大きな気であったゆえ、他に気取られる事もないだろうし、戦でもそこそこやれる。これまでのような圧倒的な力を発することができぬだけ。」
高瑞と蒼は、顔を見合わせた。
戦の懸念は今は無いし、そうなっても他の王達が居るので何とかなりそうだったが、感情が赤子というのは困る。
「あの…感情が赤子ということは、これから成長してやはりもっと激しく?」
蒼がおずおずと言うと、天黎は、また頷いた。
「その通りよ。今は赤子であるしあの程度であるが、龍は本来激しい性質であるからの。そうなろうな。」
蒼は、訴えた。
「それでは困るんです!ってことは二百年は成人しないから、維心様は感情に振り回されるんでしょう?長過ぎます!」
高瑞も、横から言った。
「どうにかならぬのか。こうなったのも己のせいだと申しておったの。世が乱れると困るのだ。碧黎と某か軋轢が起こるのも見過ごせぬ。この際、一気に二百年維心殿の体だけ時を進めることは。」
天黎は、首を振った。
「もう手を出さぬと決めておる。維心自身が乗り越えるしかないのよ。」
蒼は、そんな理不尽な、と思わず言った。
「そんな!どうやって乗り越えるって言うんですか!世を守ってる王なんですよ?!だからこんな無理な戻って来方をしたのに!そもそも死んだりしなければ、こんなことにはならなかったのに!」
天黎は、グッと眉を寄せた。
高瑞が、まずい、と脇から蒼の袖を引いた。
「蒼、もう良い。どうせ言うても通じぬ命ぞ。とりあえず、聞いた事を維心殿に知らせよう。対策は皆で考えるよりない。」
蒼は、じっと天黎を睨んでいたが、ふいと横を向いて、頷いた。
高瑞は、深いため息をつくと、嘉韻に言って先触れを出させると、怒ったままの蒼を連れて、龍の宮の奥宮へと向かった。
天黎は、それを見送ってまた、何も言わずにスッと消えて行ったのだった。




