散策
高瑞と奈河は、ぶらぶらと赤く染まる道を歩いて、湖の方へと向かった。
皆、散策というとこちらの湖の方へと向かうか、反対側の川の方へと向かうかのどちらかで、その道はぐるりと月の宮の領地内を周遊できるように敷かれていた。
しばらく無言で歩いていた二人だったが、高瑞が、言った。
「…奈河、主、楽の宴に出るのは気が重いのではないのか。」
奈河は、驚いて高瑞を見た。高瑞は、本当に案じているようで、こちらを見ている。
奈河は、首を振った。
「いえ、龍の宮など晴れがましい場所の宴に出るなど、誠に光栄なことでありますし…王の御為ならば。我の笛などで役に立つとおっしゃるし、特にそんなわけではないのです。」
高瑞は、顔をしかめた。
「ならばなぜにそのように暗い気を放っておるのよ。」と、立ち止った。「ここのところずっとぞ。我と共に宮へと帰った時にはそんな事は無かったのに。段々に荷が重くなっておるのではないかと思うての。もし否ならば、我が蒼に頼んでやるゆえ。気を遣うでない。それでなくとも、こちらへ来たばかりで気を張っておるのだろう。無理をするでないぞ。」
奈河は、どこまでも自分を気遣ってくれる高瑞に、遂に堪え切れずに涙を流した。
どうして、こんなに良い神が長い間苦しまねばならないんだろう。
そう思うと、その理不尽さに胸が詰まって仕方が無かったのだ。
高瑞は、急に泣きだした奈河に驚いて、慌てて胸から懐紙を引っ張り出した。
「何を泣いておるのだ、子供のように。そら、涙を拭かぬか。」
奈河は、その懐紙がとても美しいのでこんなもので顔を拭いて良いのだろうかと思ったが、しかしここでは何もかもが美しいのだ。
きっと良いのだろうと、それで鼻を噛んで、涙を拭いた。
「高瑞様…。」奈河は、黙っていられない、と高瑞を見上げた。「我は、申し上げねばならない事があるのです。」
高瑞は、奈河の背をさすりながら頷いた。
「何ぞ?なんでも良い、申せ。」
奈河は、頷いて言った。
「実は、我は高瑞様が幼い頃に虐待を受けたと聞いておりまする。」高瑞が、一瞬表情を硬くしたのが分かる。奈河は続けた。「我は知らなんだのですが…ここへ来て、我の父が高瑞様の軍神だと分かったと妻に話した時に、妻の八重は己も高瑞様の宮に居た母を持つと。あれの叔母が罪を犯し、それによって幼かった八重の母は家族と共に結界内から追われたのだと聞かされました。後に育った八重の母は、はぐれの神との間に八重を産み、死んだ。我はその時偶然に八重が襲われていたのを見つけて助け、そのうちに守る事と引き換えに、関係を持つことに。それが妻というのだと、後に知りました。ここへもなので一緒に参りましたし、あれが悪くないのは知っておるのですが…それを知ってしもうてから、我は、どうしても八重とまともに顔を合わせることもできなくて。」
高瑞は、愕然とした。
あの女の、血筋が繋がっているのか。
そして、その一人がここに来ておると。
「…それは…誠か。」
何とか、やっとそう言うと、奈河は頷いた。
「はい。誰にも打ち明けることができずで。王にも高瑞様にも顔向けできぬし、家に帰っても八重とも顔を合わせたくないし、どうしたら良いのかも分からずで。毎日、苦悩しておりました。」
高瑞は、一歩二歩と後ろへと下がり、今聞いた事実をどうしたら良いかと混乱する頭で考えた。
確かに奈河が言う通り、八重は何も悪くはないのだ。子ですらなく、ただあの女の姪なのだろう。
だが、高瑞にとってあの女だけは許せなかった。死して尚自分をここまで苦しめて来た、あの女だけは末代まで消し去っても余りある恨みがあった。
「…すまぬ。」高瑞は、何とか言った。「許すとは言えぬ。主の妻という女、我がこの世の誰よりも疎む存在ぞ。死して尚我はあれを許してはおらぬ。そんな女の血族というだけで、我には無理なのだ。我が王であったら全て親族含めて処刑しておった。ゆえ…我は、主と接するのも難しくなる。」
奈河は、言った。
「ならば我は別に暮らしまする。」高瑞が視線を奈河へと向けると、奈河は続けた。「序列を付けてくださったので、我には軍に宿舎がございますゆえ。そこに住んで、子を引き取ります。あの子は我の子なので…男であるし、我に似ておるのです。もし目につくことがあっても、問題ありませぬ。御不快なら目につかぬように致しますゆえ。」
高瑞は、さすがに首を振った。
「そのような。主は妻と子と共に住んで、幸福であるのだろう。」
奈河は、首を振り返した。
「今も申したように、我らは利害関係が一致していたから共に居ました。これからも、あれを養う事はします。それが神世の理だと習ったので。でも、もう苦痛なのです。あれも、我に気を遣うのに疲れておるようでした。なので、それで良いと思います。」
高瑞は、奈河の真っ直ぐな瞳に建前でこんなことを言い出したのではなく、本気でそう思っているのだ、と感じた。
はぐれの神として育つのがどういった事なのか、詳しい事は高瑞には分からなかったが、それでも奈河は、嘘は言っていないのだ。
「…主の選択ぞ。我には、何某か言う権利はない。ただ、我はその八重という女とは絶対に会うわけには行かぬし、そこに生きておると思うだけで苦痛ぞ。それは正直な心地。…我は、しばらく、月の宮を離れた方が良いのやもしれぬ。」
奈河は、慌てて首を振った。
「そのような!どうか、お待ちくださいませ。王に、ご相談しますから。」
高瑞は、首を振った。
「我が蒼に話す。大丈夫ぞ、我の宮は本来あちら。こちらには、居候でしかないのだから。」
そうは言っても、やっと回復されたのだと聞いているのに。
奈河が案じる中、高瑞はそのまま浮き上がって、宮の方へと飛んで行ってしまったのだった。
蒼が十六夜と話して奥へと引っ込んで横になろうとしていると、侍女の先触れも何もなく、居間に何かが入って来た気配がした。
その気に高瑞だと分かった蒼は、こんな夜になってから何だと慌てて袿を引っかけると、居間へと出て来た。
高瑞は、ここ最近では見たこともないほど取り乱した様子で、何事かと言った。
「高瑞?どうしたんだ、急に。何かあったか?」
高瑞は、狼狽えた様子で言った。
「先触れもなくいきなりすまぬ。我は…聞いてしもうて。あの、我がここに居る元凶の女の筋が、奈河の妻であったと…知ってしもうて。」
蒼は、それか、と顔をしかめた。
奈河が思い詰めた様子だったし、恐らく高瑞に黙っていられず話したのだろう。
「落ち着いて。とにかく、座って。」蒼は、高瑞を椅子へと座らせて、側の水差しからコップに水を汲んで高瑞の手に握らせた。「どういうことだ?奈河の妻というと、八重か。あれが、その女の筋であったと?」
高瑞は、頷いた。
「奈河は誰にも言えずと言っていた。我は、あれが何やら思い詰めた様子だったので、それほどに気に病むのなら宴には出さぬでおこうとあれを訪ねたのだ。そうしたら…あれは、宴のことを案じていたのではないと。八重から、罪人の筋であると、それが我絡みであるとここへ来てから聞いたらしゅうて。黙っておるのが辛かったらしく、そのように。八重に罪はないのは知っておるが、我には…どうしようもなくて。」
高瑞は、顔を伏せた。本当に混乱していて、どうしたら良いのか分からずでいるらしい。
蒼は、ため息をついた。
「いずれはもしかしてと思っていたことなんだ。何しろここでは、はぐれの神を拾って世話しているのだし。直接ではなくとも、その筋の誰かはここに居るのではと思ったこともあった。だが、最悪なことだな。」
高瑞は、頷いた。
「奈河は、奈津の子であるし我としては幸福にしてやりたいと思うておった。だが、あの女だけは…。本人でないのは知っておる。まだ顔を見たわけでもないし、全く似ておらぬのやもしれぬ。それでも、我の中の感情が、ついて参らぬのよ。蒼、我は己の宮に帰った方が良いのやもしれぬ。」
蒼は、そこまでか、と高瑞の背を撫でた。
確かにこれほどに賢い高瑞の心の奥深くに巣くい、狂わせたほどの傷を与えた女なのだ。
高瑞からすれば、全て血筋まで憎いというのは偽りのない事実なのだろう。
だが、放り出せとも言えず、己が離れようと言うのだ。
「…主はまだ回復してはいても全て克服したわけではない。ここに居るから、こうして無事であるが、また宮へ戻って通常の気に晒されて生きていたら、こうして苦しくなる時があるやも知れぬ。それに、主が居らぬようになるとオレだって困るしな。ずっと政務を手伝ってもらっているし。」
高瑞は、少し落ち着いて来て、言った。
「それでも…いくら月の浄化を受けていても、あの女を思い出すものが側に居るとなると己を抑えきれぬようになるやも知れぬ。我は、奈河からあれの屋敷にそれが居ると聞いて、すぐにでも行って消し去りたい衝動に駆られたのだ。主の言うようにまだ我の中には狂気がある。ならば、離れて居るよりない。奈河はあれを愛して側に置いているのではなく、利害関係が一致したから共に居ただけなので、己は子と共に宿舎に移ると申したが、それでも八重がそこに存在する事は変わらぬのだ。いつ我を失って…あれを殺しに参らぬかと己が恐ろしいのよ。」
罪人は死んだのに、まだこれほどに高瑞を苦しめるのか。
蒼は、どうしたら良いのかと苦悩して月を見上げた。
十六夜は、聞いているのだろうに何も返さなかった。




