えき
昔、友人から聞いた話。
ある日、飲み会に参加し、帰宅が遅くなった友人(仮にTとする)は、とある駅の最終電車に乗車した。
その日は平日。
最終電車であるせいか、乗客もまばらだ。
Tが乗った車両には、他に二人しか乗客はいなかったという。
そして、二人共居眠りをしていた。
さては酔客か、と思ったT。
まあ、彼自身も酔っていたし、電車の揺れは心地よいもので、ともすればたちまち睡魔に襲われる。
実際、Tもややもすると船をこぎはじめてしまった。
そうして、しばらくたった時。
ふと目が覚めて、慌てて周囲を見回すT。
寝過ごして、降車駅を乗り過ごしたかと思ったが、まだ到着していないようだ。
どうやら、次が降車駅みたいで、まさにちょうどよいタイミングで目が覚めたという。
二人居た乗客はいずれも姿がなかった。
おそらく、途中で先に下車したのだろう。
そう思った時、Tはあるものを目にした。
それは染みだった。
電車の緑の座席シートに、ベッタリと黒い染みが広がっていた。
それを見たTは、誰かがコーヒーなどの飲み物でもこぼした跡だろうと思ったという。
まったくマナーのなっていない奴もいたものである。
胸の中でそう毒づいていると、同じような染みがもう1つあるのに気付いた。
誰の仕業なのか、そちらの染みも黒く、座席シートを汚している。
あの汚れを落とすのは一苦労だろうと、駅員に同情した時だった。
ボトッ
ふと、何かが天井から滴るような音がした。
同時に、鉄臭いにおいも漂ってくる。
その臭さに、もう一度眠ろうとしていたTの眠気がクリアになった。
どうも尋常ではない。
こんな臭気は、嗅いだことがなかった。
薬品とか汚物のにおいではない。
もっと、生物的で嫌悪感を抱くにおいだ。
ボトッ
もう一度、音がした。
その音は、例の染みが広がっている所からしているようだ。
ボトッ
三度、音がした。
今度は間違いない。
やはり、染みの上から音がしているようだ。
それに気付いたTは、音の源を探るべく、天井へと目をやった。
すると。
そこには何かが張り付いていた。
最初は虫かと思った。
小さくて、わちゃわちゃ蠢いていたし、微かに「キー、キー」と鳴くような声もしたからだ。
だが、何かがおかしい。
虫のように小さいが、手足は人のようで、頭もある。
それは蠢きながら、天井に広がった赤黒い何かにビッシリ張り付いていた。
最初は気色悪さに声を飲んでいたT。
しかし、よく観察していると、その赤黒いものから見える何かに気付いた。
それは手だった。
まぎれもない人間の手が、虫の群れから覗き、細かく痙攣しているではないか。
それに気付いたTは、驚きのあまり、思わず座席シートから飛び退き、床に尻餅をついた。
その音に、天井の虫の群れが、一斉にピタリと止まる。
鳴き声も途絶え、しんとなる車内。
声も出せず、身動きできないTに、虫逹が一斉に顔を向けた。
その瞬間、Tは絶叫した。
信じられないことに、虫かと思っていたそれは、醜い顔をした鬼だった。
いや、Tも結局はそいつらの正体はよく分からなかったという。
とにかく鬼みたいに角を生やし、濁った赤黒い目と鷲鼻、黒っぽい肌と疣だらけの肌をした奇怪な生物が、何匹もTを見ていたらしい。
しかもおぞましいことに、連中は口で生肉みたいなものを咀嚼し、それを飲み込むと、天井の赤黒い何かに食らいついていた。
それは、まぎれもなく人間の死体だ。
どのような仕業なのか、先程乗っていた乗客が二人が天井に磔にされていて、無惨に食い散らかされているではないか。
座席シートに滴っていた赤黒い染みは、そこから落ちた血だったのだ。
それは、吐き気も忘れる程にあまりに非現実的な光景だったという。
しかも、Tに気付いた鬼逹が、わちゃわちゃと動き出し、吊革を伝い、Tへと近付こうとしているではないか。
悲鳴を上げつつ、慌ててその車両から逃げ出したT。
隣の車両に移ると、そこには誰もいない。
そして、車内アナウンスが普通に流れ、電車はTの降車駅で停車した。
咄嗟に下車するT。
さほど大きくもなく、最終電車のせいか、T以外に下車する人は居なかった。
急に現実に返り、一息を吐くT。
いつもと変わらない日常の風景に、少し我に返る。
あれは夢だったのか…と思い、Tは自分が乗っていた車両を見た。
そこでTはギョッとなった。
外見は普通の車両だ。
しかし、その窓にビッシリと先程の鬼が張り付き、Tを見ているではないか。
鳥肌がたったTは、恐怖のあまり、後も見ずに一目散に改札へ向かった。
そんな様子に、自動改札の窓口にいた駅員が気付いて声を掛けてきたという。
「お客様、どうなされなした?」
その駅員に、躊躇いながらも自分が見てきたことを話すT。
それを聞いた駅員は、何事かと寄ってきたもう一人の年配の駅員と話し始めた。
「鬼って本当ですかね?」
「…うん。まあ、な」
「こちらの方がみた夢の話じゃないんですか?」
そういう駅員に、年配の駅員が辺りをはばかるように、ボソボソと言ったという。
「じいさんから聞いた話がある。昔な、この土地には酷い飢饉があったんだ。たくさんの人が飢えて、死体まで食べたって話が残ってる」
後にTはこう語る。
「信じられないくらいリアルだったけど、あれは夢だったと思う。たぶん、俺はその飢饉の時代の記憶みたいなのを、何かの拍子で見ちまったんだろうな」
彼が何故そんな昔の記憶を受信したのか。
また、食われた乗客も夢だったのか。
それは分からない。
そして何故、電車でそんな夢をみたのか。
Tの話を聞いた後、私は鬼と列車のある接点に気付いた。
これは仮説だから、どうか気を悪くしないで欲しいのだが…
「駅」という単語がある。
これを「えき」と読むのは、中国の読み方らしい。
この「えき」を別の字で当てると…
「穢鬼」…穢れた鬼とも読めるのだ。