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背中越しの恋  作者: 野本さとみ
7/19

唯の涙

嵐が去り、張り詰めた空気から解放される沈黙が広がった。

昇降口のドアから、じめじめした纏わりつく風が流れた。

湿気が多い空気に、さらに重苦しい雰囲気が増していた。

そんな沈黙を破ったのは、唯だった。


「あの…。助けていただいてありがとうございました。…お騒がせしてすみませんでした。」

深々と頭を下げると長い艶やかな髪はパサリと肩から落ちた。

揺れる髪が不安定な唯の心を表しているようで、長野はどう声をかければいいのか戸惑いながら

「いや、僕は何もしてないさ。」

長野は頭を下げ続ける唯をどうにか顔をあげさせようと、唯の両肩に手を伸ばそうとしたが、その手前でピタリと手を止め、目を見開いた。

唯の肩が小刻みに震えていたのだ。

こんなに苦しんでいる彼女が目の前にいるのに、何もできないなんて。

長野の伸ばしかけた手はさ迷いながら、空をつかんだ。

彼女にとって、宮川という存在がどれほど大きいのか、僕だって知っている。

そして、その宮川は人格的にも申し分ない男だということも十分承知していた。

同じテニス部内で大勢と濃密な時間を共にして、よくわかった。

彼女が、彼に惹かれる理由も。

だから、僕は悔しいながらもこの手を伸ばせずにずっといたのに。

「…水島さんは、大丈夫かい?」

長野は今にも壊れそうなひび割れた硝子玉を扱うように、優しく問いかけた。



視界を滲ませている涙を無理矢理押さえ込みながら、唯はゆっくりと顔を上げた。

顔にかかった長い髪を直すふりをしながら、気付かれないように目尻を拭う。

とんでもなく情けない顔をしているはずのこの顔をどうすれば普通に見せられるかを考えるが、良策など思い付くはずもなくただ俯くことしかできなかった。

いつもなら、ある程度の出来事が起こったとしても、周りには気づかれないほどの平静な顔を見せることができるはずなのに。

頭が混乱して、どうしてもうまくいかない。

こんなことで、動揺してどうするんだと言い聞かせながら唯は唇を噛んだ。

次に発する言葉を見つけれずにいると、長野がずれた眼鏡を直しながら

「立ち聞きするつもりはなかったんだけど、すまない。

このこと、宮川に伝えておこうか?」

少し困ったような顔を向けた。


亮の名前が出ると、唯は弾かれたように顔を上げた。

「彼には、言わないでください。」

少し強い口調になる唯に、長野は少し双眸を大きくして、困惑した顔を向けた。

「どうしてだい?」

「亮のせいではないので…。何て言うか…。亮は、別に何かやったという訳でもなくて。こういうのって、事故みたいなものだと思うんです。だから…。」


慎重に言葉を選びながら紡いでいく唯に、亮への思いやる気持ちが見え隠れしている気がして長野は口を閉じるしかなかった。

彼女の心の隙間に、出来ることなら入り込みたかったけれど、そんな場所は元よりないのだと悟る。

だが、宮川という存在で唯はいつもこうやって悩ませているのかと考えると、怒りが沸き立つのを感じていた。

長野は小さく息を吐いてわかったと頷くと、頭に浮かんでいた数々の言葉を飲み込んだ。

「とりあえず、僕は部活の方に戻らなきゃならないんだ。

二人とも気を付けて帰って。じゃ。」

長野は唯とあさみにそういうと、踵を返した。

「あの、本当にありがとうございました。」

唯は再度礼を述べて頭を下げると、長野は振り返り、手を上げて少し微笑むと背中を向けて部室へと足早に立ち去って行った。






唯は、後ろにいるあさみに向き直ると今度はあさみに頭を下げた。

「あさみも、変なことに巻き込んでごめんね。間に入ってくれて本当にありがとう。」

「こんなことで気にしないでよ。あのヒステリック女、次に会ったときは許さないんだから。

ほら、唯も顔上げて。」

あさみは努めて明るい声でそういうが、一向に顔を上げない唯。

下げ続ける唯の後頭部を見つめながら、彼女の心の傷の深さを知る。



あさみは、唯が宮川亮のことで『亮』ファンを名乗る主に年上女子にやっかみを受けていることをあさみは知っていた。

でも、心配はしていなかった。

何故なら、どんな嫌がらせが唯に迫ってもその後ろには必ず亮がいたからだ。


唯が上級生の女子から呼び出しされ、教室を出た後に亮がこっそり後方から付いていっている姿を。

下駄箱に怪しげな手紙が置かれていそうなときには、先回りしてその手紙を回収していることを。

そんな亮の行動をあさみは、幾度となく目撃していた。


ある日、相変わらずガサガサと唯の下駄箱を漁っていた亮を捕まえたことがあった。

「何してんの?」と聞きながら、亮の手元を見れば「死ね」だ「消えろ」だ、そんな罵詈雑言が大きくマジックで書かれたコピー用紙らしき紙を何枚も持っていた。

唯に対する嫌がらせの手紙を回収している最中のようだった。

「あなた、まるでストーカーみたいよ。

こそこそしないで、堂々と唯を助ければいいじゃない。」

あさみがそう言えば、亮は手に持っていた紙を自分の鞄に突っ込むと、頭を掻きながらどうしたもんかという顔をしていた。

「俺もそうしたいのは山々なんだけど、唯の奴『自分のことは自分でやるから放っておいて!』って逆ギレするわけだよ。…じゃあ、言われた通りそっとしておくか…って、そうはいかないだろ?元凶は…やっぱ俺なわけだからさ。放っておけないんだよ。」

それを聞いたとき、あさみの心に亮の言葉がストンと腑に落ちたのだった。

唯は自分に起きたことは自分で全部背負おうとする。

そのくせ人の荷物まで余計に持とうとする。

元々、他人よりずっと重い荷物を持っているのに。

そして、平気なふりをして、何も語らずに溜め込んでいく。

私はいつも、そんな彼女を見ていつか倒れてしまうのではないか、心配でならない時がある。

時には、頼ってほしい。何か話してほしい。

そう思って、聞き出そうとしても、いつも唯は「困ったことなんて、何にもないよ。」「全然大丈夫。」そういうだけ。

そんな時、やっぱり私じゃ無理か。と思う。

やっぱり、一番近くにいるこの男じゃなければ。

ちらりと亮を見れば、大きくため息をついて悩ましい顔をしていた。


そんな彼女を守るためには、確かに亮がやっていることは必要な行動なのかもしれない。

でもね、それができるのは、あくまで宮川くんの目の届く範囲内に限られるのよ。

思っている以上に、 女という生き物は、姑息で執念深く、ズル賢い。

失敗した女達は失敗を学習して、蛇のように狙った獲物を何度も襲ってくる。

今度は、邪魔物の目が届かないところで。

唯を傷つけていく。

じわじわと。

確実に。


ならば、彼女を救う方法はただ一つじゃないか。

だから、私は言ってやった。

「いい加減、唯と付き合っちゃいなさいよ。」

「はぁ?どうして、そういうことになるんだよ。」

「唯は、俺の彼女ですって公言すれば、こんな嫌がらせも受けなくなる。

堂々と二人でイチャイチャしていれば、泣く子も黙らせることができるってもんよ。」

我ながらの名案を亮に提案すれば。

「俺たちは、ただの幼馴染だ。」

そんなお決まりの台詞を吐いて、私から逃げていった。



逃げないで、ちゃんと向き合っていれば、こんなことにはなってなかったかもしれないじゃない。

あさみは、痛いくらいきつく拳を握った。

そんなことを逡巡していたら、ゆっくり顔を上げた唯のは、一見いつもの顔を取り戻しつつあるように見えて、あさみはよかった。とホッ胸をなでおろす。



唯は、首元に右手を置いて、未だに動揺を落ち着かせるためなのか目を閉じ深呼吸して、あさみに視線を戻した。

「…ありがとう。でもね。私のせいであさみが傷ついてほしくないの。だから、無茶はしないで。私は、大丈夫だからさ。」

そういって、笑顔をみせる…はずだったのだと思う。

だが、唯の白い頬には一筋の涙が流れた。

あさみは双眸を大きく見開き驚嘆した。

唯が落ち込んだところさえもこれまで見たことがなかった。

物凄く強い人なんだろうと思っていた。

そんな彼女だから、きっと唯の涙なんて一生見ることはないだろうと思っていた。

だから、彼女の涙は尚更衝撃だった。


唯は涙を拭いながら

「ごめん…。気が緩んだ…。あーヤダヤダ。」

笑いながら軽い口調でそういうが、唯のその声は震えていた。

どうしようもないとか、情けないとか、呟きながら、手をパタパタさせて自分の顔を扇ぎながら、泣き笑いするとクルリとあさみの背を向けた。

普通に考えれば、あんな奇襲攻撃されて、傷つかない人間なんていないはずがない。

急にナイフを持って、目の前に現れ、襲われて。

そんなショッキングな出来事の中、平静でいろという方がおかしな話だ。

よっぽど心臓に毛のはえた人間でなければ普通でなんていられるはずがない。

一瞬でも普段の唯だと思ってしまった自分を腹立たしく思った。


「今日、この後の約束ごめんね。仕切り直しでもいいかな?」

唯は背中を向けたままそういうと、唯は真横にあった自分の下駄箱から青いスニーカーを取り出すと、小さくごめんね。そういうと、あさみが止める間もなく、走り去っていった。

あさみは、かける言葉も見つからないまま、小さくなっていく後ろ姿をただ見送るしかなかった。

あの小さな背中から垣間見える痛みに、どうしたら寄り添えるのか頭を巡らせたが、うまくいかなかった。




※※※※※※


唯は無我夢中で走っていた。

切れる息遣いと、心臓の音だけが脳内に響く。

まだ日は高くて、強い日差しが照りつけてくる。

生ぬるい風は、不快に身体に纏わり付いて、全身から発汗する。

こめかみから顎に向かって流れ落ちる水滴は、汗なのか涙なのかもうよくわからなかった。



途中で、すれ違う人が何事かと振り返ってくる人もいた気がしたけれど、そんなの気にならなかった。

無我夢中で走って、走り続けた。

そして、自宅前の門につくと、乱暴に開閉すれば、ガシャンと派手な音が響いた。

心臓が痛いくらい苦しくて、ドクドクもの凄い音が耳に伝わる。

震える手でボストンバッグ型の鞄のファスナーを開けて、家の鍵を取り出し鍵穴に差し込み回すとカチリと金属音が響いた。

ドアノブに手をかけると、熱くなった手からひんやりと冷たい感触が伝わる。

勢いよく開け中に入ると、いつものように誰もいない玄関が唯を出迎えた。



専業主婦だった母は、父が亡くなってから、社会復帰を果たすと憑りつかれたかのように仕事に没頭するようになった。

中学にあがったばかりの唯にとって、それは寂しくもあったが、父のいない母の悲しみを仕事で癒してくれるのならばそれでいいと幼いながらにそう思ったものだ。

朝も唯よりも早く家を出て、唯が寝るころにクタクタになって帰宅するという習慣が当たり前になっていった。

それは、今でも変わらず続いている。

今日ほどこの環境でよかったと思ったことはなかった。

顔を合わすことがなければ、無理して平気な顔を装う必要もない。

無用な詮索も受けることはない。

我慢する必要もない。



パタリとドアが閉じられると、日の光は遮断され薄暗い玄関と静寂が唯を包み込んだ。

唯は、後ろ手にドアの鍵を閉めると、背後の扉に寄りかかりその場にズルズルと座り込むと両手で顔を覆い、声をあげて泣いた。

押し込めていた色々な感情が一気にあふれ出せば、次々に涙となって零れ落ちる。


何でこんなに、三咲の言葉が胸を刺したんだろう。

そんなこといちいち自問しなくたってわかってる。

三咲の言ったことの多くは的を得ていたからだ。

幼馴染みというだけで、傍にられる。

何も取り柄がなくても、隣にいられる。

本来なら、私みたいな人間が近くにいるのは違和感の塊でしかないだと思う。

そんなこと、言われなくてもずっと前から気付いていた。

だから、何か得意なことを見つけて、磨きをかけて、少しでも釣り合えるようにしたいと思って色々試したこともあった。

ピアノ、水泳、テニス、絵画…。

どれもある程度のところまでは出来ても、飛び抜けて得意になることも、才能が開花することもなく、すべてが平凡だった。

どんなに頑張っても、輝きを得るまでには至らなかった。


努力すれば、必ず報われるなんていうけれど。

現実には選ばれた者しか得られないものが、この世にはやっぱりあるのかもしれない。

生まれ持った才能だとか、人間性だとか、普通に生まれてきた者にとっては、どんなに頑張っても手にすることはできないこともまた事実なのではないか。

持つ者と持たざる者は、表裏一体で必ず存在する。

そんな後ろ向きなこと考えたくなかったけれど、持つ者がすぐ近くにいると持たざる者は、嫌でも痛感させられる。

そんな、卑屈になる自分が嫌いだった。

だから、せめて。

私は亮の足を引っ張ってはいけないんだと。

ピタリと亮の横に寄り添うことはできなくとも、少しの隙間を作っていつでも離れられるような距離でいれば、亮の旅立ちくらい見守ることくらいは、許されるのではかいかと。

そう思っていたかった。

でも、もうそれも終わったんだ。

三咲という存在は、現実を突きつけにきただけ。

もういい加減甘い戯言を吐いていないで、目の前の現実を見ろと。

強烈な物言いだったけど、そう知らせに来ただけなのに。

いつかは来る別れの日が、少し早まっただけなのに。


どうして、こんなに涙が止まらないの?




泣いて泣いて、どのくらい泣いたかわかないほど泣き続け、思考と涙の波がおさまり、ふと横を見ると鞄がパタリと倒れていた。

鍵を出したときに、鞄を閉めていなかったのか雪崩のように一直線に教科書やノートが飛び出していた。

その直線上の一番遠い所に、木箱が佇んでいた。亮から貰った箱だった。今朝のやりとりが随分昔のことのように思える。

泣きすぎてズキズキ痛む頭を押さえ、這いずりながらそこいく。

小箱を取ると、手の中にほんのり温かさを感じた。

この家に唯一のぬくもりに、思わずまた視界が滲み始めるのを耐えながら、ゆっくりと箱を開けると。



ムーンストーンをあしらった三日月型のネックレスが顔を出した。

その横にカードが添えられていた。


『Happy Birthday

笑う門には福来る!

がんばれ! 亮』



震える指先で、カードに書かれた亮の大雑把な癖のある文字をなぞる。


そうか。

今日は、私の誕生日だったんだ。

すっかり、忘れてたよ。


カードにポトリと一粒の涙が落ちた。

インクが、涙で滲んでいく。

散々さっきまで泣いていたのに、再び一粒零れれば、また次々と涙が溢れ出した。

どれだけ泣けば気が済むんだろう。

涙は枯れることを知らず、また溢れてくる。

涙の数だけ、心も強くなれればいいのに。

そんな思いとは裏腹に弱っていく気持ちはどうしたらいいのだろう。

唯はこれ以上カードを濡らさないように、両手で包んだ。

「何よ……。

いつもなら、誕生日なんてすっかり忘れてる癖に…。

よりによって、何で今回はちゃんと…覚えているのよ…。どうして……。

亮…会いたいよ……。」


唯は、カードと木箱を大事にその胸に抱きしめた。

誰もいない家に、唯は咽び泣く声だけが響く。

箱の中のネックレスは、キラキラと輝いていた。


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