三話 「壁を越えて」
日は沈み、辺りが真っ暗な暗闇に包まれた、そんな頃にそれは起こった。
『緊急警報発令。緊急警報発令。研究所内より『魔人』が一体脱走。各員はこれを直ちに捜索し、見つけ次第速やかに報告、又は捕縛せよ。繰り返す、研究所内より――』
大音量で流れる放送の音に、夜空を穿つ程騒々しく響き渡るサイレンの音。
研究所内は喧騒に包まれ、それを囲む外壁の付近の駐屯地では甲冑姿の兵士達がごった返し、怒鳴り声をそこら中で上げていた。
「だ、駄目です! 索敵魔術に反応ありません!」
台の上に置かれ、光りを放つ石に手を翳していた兵士は焦った様に叫ぶ。
「……っ! 他は、別動隊の捜索はどうなっている! まだ見つからないのか!!」
「い、いまだ見つかったという連絡は来ていません……」
「くっ! もう既に壁外へ出て行った可能性があるな……一班、二班は引き続き壁内の広場と周辺を捜索。残りの班は壁の外へ出て陣形を取り、森の周辺を隈なく探せ!!」
「「「はっ!」」」
周りの兵士とは一人違う装飾が施された鎧を着た兵士が部下の兵士達に号令し、各々の班に指示を出す。
そして指示を聞入れた兵士達は、一斉に声を張り上げて承諾すると足早に持ち場に向けて予め決められた数人の班で固まって散開する。
一人取り残された上司の兵士は不快そうに眉を顰めて髭の中に埋もれた口元に手を当てて唸る。
「これで、もしも取り逃がしてしまうなんて事があれば陛下に申し分が――」
髭をしごきながら唸る兵士――その時、彼の直ぐ隣を冷たい夜風がフワッと一瞬だけ過る。
「ん?」
自然に吹いた風とは違ってどこか不自然な夜風。それを不審に思った彼は風の流れて行った方向を辿るように視線を動かす。
だが、その視線の先には何も映らない。
「気のせい、か?」
おかしいと思ってはいるが目の前には何も無いという事実もあってか彼はそこから視線を逸らすと、体を向きを変えて他の場所へと指示を出す為に移動する。
時は一刻を争うのだ。何故なら我が国で作り出した『魔人』は一体で数百の軍勢にも優る強力な戦略兵器。それが例え一体とは言え、外へ逃げ出したともなれば、国への被害が甚大化する可能性がある。
過去に一度だけ脱走した個体は近辺の町で人々を殺して暴れ周り、幾つかの町を更地に変えた後で、当時、国に雇われていた七英雄と呼ばれていた者の一人によって、苦闘の果てに討伐された、と記録に残っている。
そんな英雄ですら手を焼く危険な存在が今こうして逃げ出し、近隣の町や村に住む民間人に危機が迫っている。
「ちっ、私は反対だったのだ。他国との戦へ勝利する為とは言え、あの様な人ならざる者共を作り出すなど」
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
――タタタタタ。
道に裸足の足音が小さく鳴り響く。
そこには小さな体の少女が一人、暗い外壁内の拓けた通路を駆け抜けていき、そしてまた一人の兵士を気付かれないまま追い抜く。
本人以外には見えない『光』を身に纏い、暗い夜闇に溶け込み風となる『魔人』と呼ばれた少女。
ふと上げた視線の先。そこには高さ二十m以上はあるだろう巨大で堅牢な石造りの外壁が聳え立つ。
「……っ」
ソラはそれを視線の先で捉えるやいな、駆ける足の速度を速め、更に加速する。
見る見る内に近づいていく壁。このまま走り続ければもう間もなく衝突してしまう、そんな距離まで来た。
その時。
「ふっ!」
助走を付けた勢いで大きく上へ跳躍し、壁の中間地点まで飛び上がる。次いで続け様にもう一度その壁を足場にして、不安定ながらそこを蹴り上げて再び跳躍し、高い壁を飛び越えた。
そのまま重力に従って下へ落下し、地面へ静かに着地する。と、同時にソラの身体を包んでいた『光』は霧散して消えていった。
「ありがとう」
消えていく光の残滓に感謝の言葉を告げ、それから私は辺りへと視線を巡らせた。
「これが、外の世界」
壁を越えたその先。
それは自分が今まで生きてきた中で一度も見た事の無い物ばかりが存在する未知の世界。
今は生憎の視界の悪い夜で、あまり多くの物は見えない。それでも初めて体感する匂いと空気の違い、それから四方を何にも閉じられていないという開放感が思わず身を震わせた。
振り返るソラは背後の壁にそっと手を当てる。
今まで自分の事を閉じ込めていた高く堅い壁。今、自分はその壁の外側に居る。もう後戻りは出来ない。
「急がないと、早くここから――」
「第三班、第四班、第五班! それぞれ壁に面した位置から広範囲に広がり、鶴翼の陣を取れ! 急げ!」
すると、直ぐ近くで号令を出す兵士の大きな叫び声が響き、それと同時に辺りで無数の鎧の擦れる音が聞こえ始めた。
周りの至る所で兵士の声が周囲に響き、辺りを見回すと暗闇の中に明るく光る点の様な何かが浮かんで動き回っている。
恐らく兵士達の持つランプの灯りだ。
兵士達はそう遠くない位置にいる。ここに居ても捕まるのは時間の問題だと判断したソラは、一目散に目の前に広がる暗闇の中へと足を踏み入れた。
途端、足元や周りで何かがガサガサと五月蠅く揺れ、更に暗くて視界が悪く、少し進めば柱の様な物にぶつかってしまう。
暗くて見えないからこそ、その恐怖は途轍もない。
それ故に『もしかしたら、この場にある全ての物が自分を捕まえる為の罠ではないか』という考えが頭の中で煩く囁いては、不安が心中を満たす。
「今そこで何か物音がしたぞ」
「陣形、前へ! この付近を手あたり次第に探せ!」
そうして足を止めている時、ふと近くで兵士達の声が耳に届く。
辺りのランプの光が一斉に自分の下まで迫って来る。
シグルズにかけて貰った『おまじない』の光はもう無い。その姿は誰にも見る事が出来て、見つかれば連れ戻される。
「おい、足音が向こうに行ったぞ!」
少し離れた背後の方で兵士が大声で叫ぶ。
やがて、無数の甲冑のガチャガチャとした音が周囲を取り囲む様に近づいて来る。
ソラは早くこの場から走り去ろうとするが、逃げる先々で兵士が待ち構えていて上手く包囲網を抜け出せない。何処へ行っても、その先にいる兵士に見つかりそうになる。
段々、逃げられる場所が無くなってきた。まるで自分のいる場所が分かっているかの様な兵士達の動きに焦りを隠せない。
どうすれば……どうすればここから逃げられる……?
右へ走っても左へ走ったとしてもその先には兵士が居る。移動しなければ、いずれ見つかってしまうが、
この場を動けば、すぐにでも見つかるかも知れない。
と、考えていたその時。
「この先の方からだ」
兵士の手に持つランプの光がついに自分が背にしている木を照らす。
瞬間、心臓が握り潰されたかの様な感覚に襲われた。
見つかった。
すぐに走り出そうと足を前へ運ぼうとするが――動かなかった。
今動けば確実に兵士の目に自分の姿が映る。
そうなれば自分は見つかる。
そう考えると、堪らなく怖くなった自分の身体は無意識にここから移動する事を拒んだ。
ソラは息を殺した。
早くなる煩い鼓動に黙ってと念じ、見つからないでと目を瞑って祈った。
来ないで……どこかに行って……!
だが、そんなソラの願いとは裏腹に聞こえてくる足音も段々と近づいてくる。その足音は一つ、二つ、なんかじゃない。十は超える足音が擦れる甲冑の音を響かせ、近づいて来きていた。
彼らはその先に何かが居る事を確信していた。
『索敵魔術』。
その手に持つ淡い光を放つ石から周囲に薄い光の波紋が広がっていく。波紋が触れた兵士達は勿論、周囲に潜んでいた森の生物は光を灯し、暗闇の中でもその位置が分かる様に光の残滓がその者の付近で漂う。そして、彼らの視線の先にある一本の木の下まで届き、通り過ぎていくと、その木の物陰に光が灯った。
今までソラはシグルズに施された魔術のお陰で、人の視覚はおろか索敵魔術にも見つからないでいた。
だが、その効果はもう既に無い。そうなってしまえば、ソラが如何にこの暗い森の中で逃げ回ろうと、見つかるのは必然であった。
ランプの光に照らされた木の影が伸び、そこに兵士の影が映し出される。
ソラは口から漏れ出そうになった悲鳴を必死に堪えた。
頭の中では早く逃げないと、と思っているのに身体が恐怖の所為で全く言う事を聞かない。
やがて、その影から伸びた手が今、まさに木に触れ、兵士は木の裏へ周り込もうとした。
その時だった。
―――ドゴォオオンッッ!!!
「「っ!!?」」
突如、背後の方――逃げ出して来た研究所の方から鼓膜を貫く程の巨大な爆発音が轟き、その余波が爆風となって吹き荒れる。
「な、何んだ!? 何なんだ今の爆発は!」
「おい、研究所の方が……!」
「捜索は一時中断だ!! 今すぐ研究所に向かうぞ!」
そんな突然の音と爆風に兵士達の慌てた声が周囲に響き、やがてすぐ近くまで迫っていた筈の複数の甲冑の音はすぐさま遠退いていく。
「何が、あったの……?」
恐る恐る木の裏から顔を出し、兵士が居なくなったのを確認した。
それからソラは、音のした方へと視線を向けると――柱の様に高く燃え上がった炎が目に映った。
天高く燃える炎が赤々と周囲を照らし、目にくる様な焦げ臭い匂いが鼻下で漂い始める。
すると、頭上から何かが降って来る。
灰だ。
ふと掌を翳すと、赤々とした灰が掌に落ち、やがて黒ずんだそれは風に吹かれて森の奥へと消えて行く。
『私はいいから、ソラは外の世界を見て来なさい』
ふとその時、何故かシグルズが口にしたその言葉が思い返された。
「もしかして――――」
「――――はっ、はっ、はっ」
気が付けば死に物狂いで足を走らせた。
途中何度も転けた。何度もぶつかった。
足の裏は血が滲む程傷ついていたし、肺が息をしようとして変な音を鳴らせる所為で今にも倒れそうな程苦しい。だが、それでも走る足は止めない。止める訳にはいかない。
少しでも休めば、それだけ命の危機に繋がると、自分なりに察していたから。
次は無い。今度こそ確実に捕まる。
命が惜しい。死ぬ程生きたい。
まだ遠くの方で聞こえる、あのサイレンの音。
その音に心の底から怯えた。
あの音が聞こえなくなるまで遠くに、あの場に居た誰もが追い付けない程遠くに行かなくてはいけない、とソラは捕まりたくない一心で延々と続く長い夜の間、その足を止める事無く走り続けたのだった――。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
夜が明けて、遠く霞む山の間から差し込んだ光が大地を照らす。
先程まで黒一色の暗闇に包まれていた場所は、そんな光によってその色を徐々に取り戻し色付いていく。
ざわざわと音が木霊する森の中。
草に木の葉、花に風が音を立てる緑一面の景色がそこには広がっていた。
そんな辺り一面が緑で覆われたその場に一つ緑とは違う色が存在した。
差し込んだ光に当てられて輝きを放つ銀色の長髪、眉からやや右上と左上の額に生えた二本の小さな角、そして髪の間から飛び出る様に顔を覗かせる少し尖った耳。ボロボロになったワンピースの様な簡素な服を身に着けた、その腰の辺りからは黒い蜥蜴の様な尻尾が伸びる。
そんな普通の人とは違った特徴を持った一人の少女がそこには居た。
間も無くして意識は覚醒する。
頭から痺れるような感覚が走るとじきに腕や足に感覚が戻り始める。
それから忘れていた呼吸の方法を思い出したかのように、活発になった肺が余分に欲した空気を鼻から一気に吸い込んだ。
「ぅ、ううん……」
やがて短く唸り声を上げ、次に右へ左へと身動ぎすると、最後には仰向けの体勢で落ち着く。
そしてゆっくりと瞼を開くと、先ず目に飛び込んで来たのは眩しい光だった。
その急な目を射す眩しさに思わず私は目を細め、白くぼやける視界を瞬きを繰り返す事で焦点を合わせていく。
それを繰り返す毎、次第に目は慣れていき、やがて景色はくっきりと色付き確かなものへ。
そして目の上辺りに片方の手を翳し、その手で光を遮りつつ、その目で前の景色に目を向けた。
そこには一面の『青』が広がっていた。
それは何処までも遠く、何処までも果てし無く広がっている。時折その中に白くてモヤモヤした煙の様な物が幾つか浮かび、漂うそれは次第に動いて、まるで流されるように何処かへ行ってしまう。
そんな遠くの存在に、ふと手を伸ばしてみるが届く訳も無く、何も掴めなかったその手は直ぐに地面へ落ちる。
そんな、遠く、広く、明るく、何処までも青いそれを見た私はその正体の名をつい口ずさむ。
「空だ」
本でしか知り得なかった青い空。
それは、自分にとって何よりも外の世界に出てきたと、実感させる大きな存在だった。
ふと一条の雫が頬を伝う。
「皆、居なくなっちゃった………」
一人取り残された悲しみ。自分以外誰も居ない絶望。大切な人達は皆、自分を置いていってしまった。いや、置いてきてしまった。
そんな寂しさを埋める様にソラは周囲の物を搔き集める様にして自分の身体を力強く抱き締め、蹲った。
こうでもしていないと、その内、胸に空いた穴から徐々にひび割れて崩れ落ちてしまう様な気がしたからだ。
「っ……自由になれたよ」
ソラはきっと届きやしない一言を彼女らへと向けて囁く。
その言葉の前に「私だけ」と言いたかったのに突然込み上げてきた嗚咽がそれを邪魔して言えなくて、ソラは微かに悔しい思いを胸の内に抱く。
それから少しの間、その青い空を眺めながら声を出して泣いた。
その大きな泣き声はもう壁や天井に当たって反響する事は無い。その声は何の隔たりも無い何処までも続く空に吸い込まれて消えていったのだった。
気が済むまで、何処までも。
この日。
『魔人』と呼ばれた少女は憧れであった外の世界へと解き放たれたのだった。