二話 「外の世界へ」
不思議と募る不満と苛立ちを覚えていた。
まるで全身の身の毛がよだつ様な焦燥感。早く、早くと急かす思考が五月蠅く脳内で連呼する。
「……!! …………! ……」
そんな時、ふと誰かの声が耳に届いた。
「……! ……………!!」
その声は、ぼやけていてよく聞こえない。でも、よく聞くと聞き覚えのある声だった。
誰の声だっけ?
懐かしさすら感じるその声の主を思い出そうとして――すぐに諦めた。
駄目だ、眠い。
急な睡魔に耐え兼ね、意識を手放そうと――――
―――バチンッ。
突然、耳に張り付くような音が聞こえ、それと同時にじんとした頬の痛みが走った。
そして、次の瞬間。
「しっかりして! 『ソラ』!!」
今度は、はっきりと近くで叫ぶ女性の声が聞こえ、ソラは強く揺さぶられる。
そこで頭の中を支配していた赤い背景がすぅと晴れていき、薄れていた意識も元に戻り始める。
やがて明るくなった視線の先に映ったのは、肩で息をする一人の女性だった。
「……シグ、ルズ?」
「っ!?」
その声を聞き取った目の前の女性――シグルズは驚きを顔に出す。それから、安堵する様に「良かった」と言って涙を流し、微笑むと彼女は膝を突き、ソラの身体を引いて抱き寄せた。
「ぇ……?」
されるがままのソラは、戸惑いながらも彼女の肩の上から顔を上げると、辺りに視線を向ける。
そこは荒れ果てた通路の上だった。
天井からぶら下がった照明が、ゆらゆらと揺れ動き、一定周期でその場の付近を照らし、辺りは砕けた瓦礫から舞った埃と吐き気のする程血生臭い匂いで満たされ、舞った砂埃がしんしんと降る雪の様に降り落ちる。
そして瓦礫の中には、よく見ると血塗れになって倒れる研究員達の姿が。
「私……どうして」
「もういい、もう大丈夫だから」
大丈夫だから、と言うシグルズ。
よく見るとその身体は傷だらけで、着ている鎧も所々が砕けて血の滲んだ鎧下が露出している。
一体何が起きたの……?
確か、自分達は「これから診断がある」と言われて、皆と一緒に広い部屋へと連れてこられて。
そして――そして――皆が。
「…………ねぇ」
ソラは口を開く。
「み、皆は……どこ?」
「……」
それからソラは目の前のシグルズへ他の皆の居場所を聞いた。
だが、シグルズは答えない。その上、顔を俯かせたまま、目すら合わせてくれない彼女は、
「ごめんなさい」
と、一言だけ言う。
いや、本当は脳裏に薄っすらと覚えていた、あの時の事を。
親友だったあの子が突然、自分を殺そうと襲い掛かって来たあの時の光景を。
「嘘……だよ」
でも信じられる訳ない。
だって、ついさっきまで話してたんだ。ついさっきまで一緒に居たんだ。それなのにもう二度と会えないなんて、そんなのあり得ないじゃないか。
「シグルズの嘘つきッ!」
「……」
「どうせ皆どこかに居るんでしょ?! 早く連れてってよ!」
押し黙るシグルズを傍に、ソラの悲痛な叫び声が通路に響く。
――と、次の瞬間。
「ばッ、化け物がァ!! よくも私の研究所を滅茶苦茶にしてくれたなぁああッ!!!」
突如、背後の崩れた瓦礫の中から姿を現したのは、もはやボロ布と化した白衣を着たレギン。
その表情を怒りに染め、彼はその手に持つ黒に彩られた漆黒の剣を振り上げ、それをソラへと振り下ろす。
「――――ぇ」
突然の事に身動きすら取れない。
目にも止まらぬ速度で振り下ろされた剣先が目前まで迫るった――が、それがソラを捉える事は無かった。
その刃が当たる寸前。ソラの身体は勢い良く後ろへ引かれる。そして、入れ変わる様にしてソラとシグルズの位置が入れ替わった。
剣はやがてシグルズを袈裟斬りにし、身体を通り抜けた剣が赤い血を撒き散らして、砕けた床に赤い染みを作る。
「なっ、シグルズ!? き、貴様ぁッ!! 一体何の真似―――――」
奇襲が失敗に終わったレギンは喚き散らし、再び剣を振り上げようとした所で、シグルズは手にしていた剣で、彼がそれを振り上げるよりも早く、その首を切り飛ばした。
切り離された彼の頭部が宙を舞い、付近の瓦礫の上に無造作に落ちると、やがて制御を失ったその身体は糸の切れた人形の様にそこに崩れ落ちる。
「貴方に神々の御慈悲は無い。せいぜい冥界で報いを受けなさい」
シグルズは剣を鞘へと納める。途端、彼女は片膝を突き、苦痛に顔を歪めた。
すると、シグルズは片方の手で傷口を押さえ、もう片方の手で宙に翳すと、光る指先で空を切り、そこに文字を描き上げる。やがて、それが完成すると、シグルズは直ぐ様それを唱えた。
「【再生】」
その言葉と共に彼女の周囲から現れた小さな青い光が宙を浮き、温かな光がシグルズに灯った。
瞬間。
バリッと噴き出た黒い何かが傷から迸り、その光を打ち消した。
「やはり、魔剣レヴィル――『呪い』か。……これがソラに当たらなくて良かった」
レギンの手にしていた漆黒の剣を横目に、そう言いそっと息を吐くと、シグルズはソラの方を見て、目を細めた。
「シグルズ!」
「大丈夫、ただのかすり傷だから。そんなに気にしなくても――ほら、何とも無いでしょう?」
斬られたというのに軽やかな動きで立ち上がると、大丈夫だから、と言って微笑むシグルズ。
だが、その体の傷はもはや安全と言えるものでは無かった。先程ソラを庇って受けた傷。それが致命傷なのは火を見るよりも明らかだ。
「ぐ、ぁッ……!」
「あっ!」
やはり痩せ我慢であった。形だけの笑顔は直ぐに歪み、シグルズは両膝をついて苦しそうに傷口を押さえる。
「し、シグルズ!!」
シグルズの下へ駆け寄ろうとしたソラ。
だが、その時。
歩み出した筈の足が何故か地面を踏めず、体勢をガクンと崩すと、そのまま前のめりに倒れそうになる。倒れそうになったソラは、咄嗟に受け身を取ろうと、両腕を前へ構えようと―――出来なかった。
そして、何も出来ないまま、ソラはその場に倒れ伏せた。
「……ぇ」
視線を前へと向けた時、そこでようやく気付いた。
致命傷というのはシグルドだけでなく、それを心配するソラ自身もであった事に。
肩と肘の先から無くなった両腕に、皮膚が焼け爛れズタズタになって動きもしない左足。
どうして今まで気付かなかったんだろう。先程まで普通に立っていたのが不思議なくらいの怪我だった。
そんな傷口が目に見えた途端、思い出した様に熱を帯びた突き刺す痛みがぶり返してくる。
「ぐ、ぐぅっ……あぁ……」
初めて味わう激痛の奔流。痛いの一言では決して言い表せないそんな痛みに悶え苦しんだ。
だが。
―――――シュゥ……。
「…………あれ、痛く無くなってきた」
体中を支配していた突き刺すような熱さにも似た様な痛みは、急に鳴りを潜めていく。
何故?
ふとソラは瞑っていた両目をゆっくりと開き、自分の腕に目を向けた。
ソラは大きく目を見開いた。
無くなっていた筈の両腕の断面。そこから煙を上げながら白々とした骨が目紛るしい速度で伸びていき、手の形になると、骨の表面を覆う様にじわりと肉が浮き出る。やがて、浮き出た肉の上に薄い膜が広がり、腕全体を覆った。
それは一瞬の光景だった。
気付いた頃には、失っていた両腕がいつの間にか元通りに生えてた。もしやと思って怪我をしていた左足に意識を向けると、失っていた左足の感覚はしっかりとした感じ取れ、こちらも元通りに治っていた。
「な、んで…………」
信じられない光景を目の当たりにしたソラは恐る恐る自分の手をそっと握り締めた。それから片方の手で触り、握り、叩いた。
感覚がある。思うように動く。痛みも無ければ、何か変わったところも無い。まるで初めから怪我なんてしてなかったんじゃないかと思える程に。
でも、自分は確かにこの目で見た。両腕が生えていく様を。普通、怪我がこんなに早く治る筈が無い。そんなのは誰にだって分かる。
これは異常だ。
私は、一体―――――
と、そこでソラは頭を振った。
「―――いや、今はそんな事よりも!」
今はそんな自分の事よりも、怪我をしているシグルズの事が最優先だ。
床に手を付き、素早く起き上がったソラは、すぐさまシグルズの下へ向かう。苦しそうに息をする彼女の肩を持つと、すぐ近くの壁沿いまで連れていく。
そして、いざ改めて彼女の怪我を目の当たりにして身体中に嫌な汗をかいた。
夥しい量の出血だ。切り裂かれた鎧の隙間から止めどなく赤い血が滴り落ちる。その傷口は目も当たられない程切り裂かれており、それを見た時、一瞬息が止まりかけた。
焦るソラはどうにか鎧の隙間から絶え間なく流れる血を止めようと、両手をその傷口に押し当てた。
「あ、あぁ、どうしよう……どうしたら……」
だが、どれだけ力を籠めて押さえようと、どれだけ焦ろうと、その血が止まることはなかった。
血で真っ赤に染まる両手。刻一刻と時間は過ぎ、気が付けば足元には血溜まりが出来ていた。
「ソラ、よく聞いて」
必死に血を止めようとソラが葛藤する中、シグルズはこんな状況にも関わらず、妙に穏やかな声でソラへ話し掛ける。
「この先の通路を真っすぐ進んで行った先に出口がある。後はそこから外に出て、ここから逃げて」
「え?」
そして、シグルドはそう言って通路の先を指す。
「で、でもっ、 シグルズは、シグルズはどうするの!」
焦るソラの声が、がらんどうな通路に響いた。
「ここを出れば、ソラは『自由』なんだ」
『自由』と聞いて、ソラの目は大きく見開かれる。
それはいつも望んで止まなくて、それでも手に入らなかったものだ。「ここから出たい」と何度口にしただろうか。何度願っただろうか。
辛くて嫌な事があっても、いつか自由になれると信じて過ごしてきた。
でも。
「や、やだ。私、シグルズと一緒じゃないと……一人……私、一緒に居たいよ!」
こんな所でも、今まで自分がこうして生きてこれたのは、仲間や親友、そしてシグルズのお陰だ。それらを一気に全部失ったら――そんなの耐えられない。怖い。嫌だ。それなら。
「それなら、私もここに――――」
「駄目だッ!!」
「ひぅっ」
突然の怒鳴り声に、ソラは委縮して言いかけていた言葉を詰まらせる。
だが、その後で怯える私の頭にシグルズは手を翳し、その頭を優しく撫で下ろした。同時、ソラの頭に翳されていた手が光り、白い輝きがソラの身体全体を包み込む様に灯る。
「『おまじない』を掛けておいた。これなら誰にも見つからずに外へ出られる」
もう一度、その手でソラの頭を優しく撫でながら言うシグルズ。
「私はいいから、ソラは外の世界を見て来なさい」
瞼から涙が溢れる。こんな時、何も出来ない自分の無力感が堪らなく悔しかった。
「本当に、ソラは泣き虫なんだから」
涙が止まらないソラの頬を手で拭うシグルズは、そうして困った様に眉を顰めて微笑む。
その時、頬に触れたシグルズの手は驚く程冷たかった。
「外の世界は広い。多くの物を見て、多くの事を学んで、色んな世界をソラには見て来て欲しい」
それから、シグルズはソラの肩に手を置き、身体の向きを変ると、その背中を押す。
「さぁ、行って」
本当は嫌だ。ここから離れたくない。
でも、シグルズの思いを無駄には出来ない、無駄にしてはいけない。ここで駄々をこねて残ると言い張れば、今度こそ自分は本気で怒られてしまう。
「行ってくるね」
一言。
振り返らず、ソラはシグルズへそう告げる。
やがてソラは一歩、足を前へと踏み出す。腕を振るい、溢れる涙を拭う。
そして、視線の先に続く通路を見据え、走り出した――――。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
―――行った、かな。
走り去っていったソラの姿がやがて見えなくなり、それから暫く時間が流れた。
ぼぅと掠れた視界の先に通路を映し、そこに誰も居ない事を確認するとシグルズは、大丈夫そうだ、と口元を綻ばせる。
「ガフッ……フ…フゥ……」
咳き込むシグルズの目に、ふと自分から滲み出て、今も広がっていく赤い水溜まりが映った。
それを見る彼女は必然的に悟る。
あぁ、ここまでなんだな。
呪いの所為で癒えない傷口。それを押さえていた手を離し、魔力を籠めた指先で空を切り、もう一度宙に文字を描く。
「……心配だけど、見守ってあげたいけど……もう、今の私にはこれしか出来ないから」
研究所は残しておいてはいけない。破壊しなくてはいけない。そうしなければ、いずれ悲劇は繰り返される。
「この命一つで、この先の失われるかも知れない命が救われるのなら本望だ」
描き終えてから指を離すと、上を見上げ、祈る様に目を瞑り、そして大きく息を吸った。
―――あぁ、でも。どうか……誰か、私の代わりにあの子の事を、ソラを守ってあげて。
「【炎】」
その言葉が言い放たれるや否、吹き荒れた炎が術者もろとも、ある全てに燃え移り、その場を火の海へと変えていった。