後悔しない選択を
「私が呼び名をフィオレとしたことをおかしいと思いますか」
十一番は縁なしのメガネを神経質な手つきでかけ直しながらそう問うた。
いつもきっちりとスーツを着込んでいる男だ。比較的均整の取れた体つきをしているのだが、デッサン人形じみて見えるのはどこか動きにぎごちなさがあるからだろうか。
「しかしフィオレという言葉は男性名詞なのですよ。であればそれを女性に冠する方がおかしいと思いませんか。この街の人々は花と言えば女性のものだと思いこんでいる。自分が間違っているとは思ってもみないのです」
どうでもいい、と三番は思った。
話の内容にも、この男にも興味がない。そもそも『ヴィルトゥオーゾ』どうしで呼び名など使わない。番号で呼び合う方が簡単だし能率的だからだ。
返事をするより、水路を泳ぐ錦鯉でも見ていた方が時間つぶしになる。
水路なら街のどこにでもある。別に鯉が特別好きなわけではないが、動くものを眺めていればそれだけで暇は潰せるというものだ。
十一番はひとりで話し続けている。もうひとりはどうしているのだろうと、三番は振り返って八番を見た。針金のような体型の男は、いつも通り仮面をつけている。そのままで、灰色の空を見上げていた。
つられて三番も空を見る。ただ灰色の雲がたれこめているだけだった。やはり面白くない。錦鯉の方がマシだった。
「そもそも私が呼び名をフィオレに決めたのには理由があるのです。それは」
言いかけてから十一番は、
「来たようですな」
と言葉を止めた。
全員、既に身構えている。城壁から、石畳から、建物の中から。白いシミのようなものが次々と現れ、おぼろな人型を象っていく。
それを彼らは『天使』と呼ぶ。正体が何なのかは知らない。ただ、排除すべき敵だということだけを知っている。
気付くと三番も八番も姿を消していた。『ヴィルトゥオーゾ』の行使する能力は、それぞれに発動の条件や範囲が決まっている。二人とも自分の戦いやすい場所に移動したのだろう。
「やれやれ……。『ヴィルトゥオーゾ』は皆、協調性がなくて困る」
十一番はそういって肩をすくめると、小脇に抱えていた本を開いた。
大きな本である。黒革で張られた表紙だけでもかなりの厚みがある。重さも相当で、かつて三番は『そのまま鈍器として使った方が早い』と評した。
大きさも厚さも重さも、普通持ち歩くようなものではない。手に持って開くだけでも、小柄な人間は苦労するだろう。
「お待たせしました、お客様」
彼はいつもどおりの気難しい表情と、神経質な口調のまま言う。
「それではツアーを開始いたします。後悔しない選択を」
世界が暗転した。
灰色の街から切り取られた『天使』たちは、いつの間にか石造りの暗い通路の中に立っている。
「第一の質問です」
十一番の声が響いた。彼が開いた本の上に青い火が浮かんでいて、それがこの場所の唯一の光源になっている。
「右に行きますか、左に行きますか」
白い影たちに自我は、知性はあるのか。それでもしばらく待つうちに、影たちは二手に分かれる。
片方は右に、片方は左に。右が七体、左が六体だった。
十一番はおごそかに礼をする。
「それではまいりましょう。ツアーを続けます」
彼は右を選んだ集団を引率して通路を歩きだした。
左を選んだ方は置き去りだ。十一番が進むとともにその姿は薄暗がりに呑まれ、やがて消えた。
十一番、ウンディッチこと自称フィオレが能力を発動するための条件は二つ。
ひとつは彼がいつも手にしている巨大な本、『天路歴程』を開くこと。
もうひとつは、彼の目の前にいる敵が奇数であることだ。
それを満たした時のみ、ウンディッチはツアー開始を宣言できる。
ツアーが始まった後、彼は敵を先導し迷宮を進む。自らの能力で作られたそれがどんな構造になっているのか、ウンディッチも知らない。彼はただツアーを遂行するだけである。そして要所要所で質問を行う。
質問にもルールがある。
それは二択でなくてはならない。
回答は相反する選択でなくてはならない。
ひとつのツアーの中で同じ質問を繰り返してはならない。
条件を満たした質問であれば、『客』は『ガイド』に逆らえない。
回答を拒否することは出来ない。
ひとつの選択肢を全員が選ぶことも出来ない。
「二つ目の質問です。ここから次のポイントまで走っていきたいですか、それとも歩いていきたいですか。走るなら左、歩くなら右に分かれてください」
走るを選んだのが三体、歩くを選んだのが四体だった。
多数派であっても偶数であれば、そのグループは迷宮の中に置き去りにされる。奇数のグループだけがツアーを継続するのだ。置き去りにされた者たちがどうなるのかも、やはりウンディッチは知らない。
終了条件は、『客』が一体だけになった場合、または『ガイド』が適切な質問を行えなかった場合である。前者であればツアーは終了し、客とガイドは灰色の街に戻る。後者であればツアー解散となり、ガイドであるウンディッチ自身が迷宮に置き去りにされる側となる。
その時が来れば彼は身をもって、暗闇に残されたものに何が起こるかを知ることになるのだろう。
「……三つ目の質問です」
ウンディッチは言う。
「今、ここで天国に行くことと、明日地獄に落ちること。どちらをお選びになりますか?」
少し揉めた。
選択は『客』の権利であるから、決着がつくまで『ガイド』は待たなくてはならない。
やがて決まった。
天国が一体、地獄が二体だった。
時間をかけた選択に反して、今を生き延びる決断をした者たちが闇に呑まれた。
「おつかれさまでした。これにてツアー、終了でございます」
その言葉と共にウンディッチの作り出した迷宮は消えていく。
灰色の街に戻ると同時に、彼は全速力で『天使』との距離を取った。
彼の能力は条件付けが多くリスキーであるのにもかかわらず、取り込んだ敵を全て倒すことが出来ない。必ず一体は生きたまま街に戻すことになるのだ。
取り回しの良い能力ではない。高い位階が取れないのも無理はないと自分でも思う。
能力の束縛から解放された天使がその姿を変える。海洋生物めいた丸いフォルムの頭の部分が割れ、尖った触手が幾本も突き出される。
それが十一番を捕える前に蒸発して消えた。三番が冷たく嗤いながら立っていた。
「鯉のエサに食べられそうになっているんじゃないよ」
石畳に落ちた骸を、三番の細い脚が水路に蹴り込む。落ちてきたモノに錦鯉たちが群がり、暗い水面は激しく揺れ、バシャバシャバチバチと騒がしく音を立てた。
「……八番はどうしました」
「あいつの能力は収束まで時間がかかる。面倒だけれど待ってやらなきゃならないよ」
ウンディッチ、自称フィオレはため息をつく。
八番の能力も稀にではあるが倒し残しを出すことがあると言う。その時のために、自分たちは待機しなくてはならない。
普段は個人行動の多い『ヴィルトゥオーゾ』だが、連携して戦うよう命令が出た時には仲間のフォローも行わなくてはならない。三番が自分を護ったように。
「わかりました、待ちましょう」
神経質にメガネの位置を直しながら、彼はまた口を開く。
「ところで先ほどの話の続きなのですが。私が自分の呼び名としてフィオレという言葉を選んだのは……」
彼は話し続けたが、もう三番は反応しない。
背中を向けたまま、錦鯉が泳ぐ水路を黙ってみている。
水面が落ち着くまで、その日はやや時間がかかった。