写真家と向日葵
スマートフォンの画面を確認した瞬間、大水青は滑らかな動作で通話を拒否した。着信が重なることを予測し、続けて電源を落とす。青はアルバイトを掛け持ちする大学生であるが、ある種の生命線ともいえる連絡手段を一時的に断つことも仕方がない。
苦い感情に吐きそう、と思いながら青はポケットにスマートフォンを押し込んだ。
もう絶対、会いたくない相手からだった。
しかし、やはりというか、
……相手が悪かった。
大学生協ショップのバイトを終えた午後8時。夏休みを目前に、日が落ちてもまだ昼間の熱気と虫の声が残る。正門を出たあたりに、見覚えのある軽ワゴン車が止まっていた。そしてその横で、青が2度と会いたくないと思っていた男性が青を待っていた。
百井百足。
独特の感性と奇抜な発想を備えた写真家だ。彼の写真を見たものは彼を嫌うか、ファンになるかの2種類と極端に分かれる。山奥の廃病院を借りて、アトリエ兼自宅として住んでいる、変人だ。
少なくとも、青の出会った中では最も奇妙な人で、写真のためなら、なんでもする社会不適合者だと、青は嫌っている。
……ちょうど1年前、百足の撮影助手のバイトをした。百足の指示通りに廃病院に数日泊まり込み、撮影の補助をしていた青は、最後に、百足に裏切られたのだ。
「電話に出ないから、迎えにきました」
人のよさそうなたれ目で百足が穏やかに言う。笑うと目元にしわができる。40を過ぎているが、老人にも若者にも見えるやせ型の男性。
青は、親しげに話しかけられたことに嫌悪を抱いた。会話に応じずに、大学構内に引き返そうとする。図書館がまだ空いているはずだ。
「あ、出てくるまで待ちますよ? 今日がダメでも何日でも」
「……ストーカーぽい。通報します」
「そうですか。今度はちゃんと被写体として青君を雇いたいんですけどね? T県のC町で今――」
「嫌です。あんたと話したくない。帰ってください。俺は金輪際百足さんにかかわりたくないんです」
「そうですか。困りましたね……僕は、青君で写真が撮りたいんですけど」
その、表情。
眼鏡の奥の、百足の瞳が炯々(けいけい)としている。百足がこんな顔をしたときは、拒絶するよりも気が済むまで付き合うほうがむしろトラブルが少ない。
誰がどう困って迷惑に思おうと、百足は写真のためならあきらめないのだ。そんな性格で40年以上もよくも生きてきやがったな、と青は恨めしく思う。
「い、嫌なものは嫌です。あんた、一年前に何をしたか忘れましたか」
「青くんで写真をとりました」
百足が微笑む。ぞわり、と青の背筋を何かが這った気がした。
「あれはいい写真でした。ええ、とても、いい世界を撮れました。それで、また青くんで写真を撮りたいんですよね」
百足に尋ねたのは失敗だった。
見たくなかった写真家の狂気の欠片を再び目の当たりにすることになってしまった。そして、青年は若く、老獪な狂気に対して、抗うために逃げる以外の手段を知らない。
しかし青にも大学とアルバイトの生活があり、逃げ切ることはできない。昼間に電話を無視しただけで、写真家は青の大学付近に現れ、通うことも辞さないと言っている。
「……すみませんが、毎日バイトがあるんで無理です」
「契約内容の確認ですね。後でメールします。日程が決まったら書類も送るので、同意書と契約書に目を通してくださいね。複写で請求書も添えておくので、欲しいだけ報酬額を書いて、下の2枚を僕に後でくださいね」
「……は?」
「君の仕事の価値は青くん自身が決めてください。言い値で払うので」
ではまた。
そうして写真家は、彼の車で去っていった。もちろん青が驚いたのは仕事の報酬のことだけではないのだが、百足は気付かなかった。しばらく同じ場所で茫然とした青は、肩を落とし、重い足で学生寮に帰った。
ひと月後。
百足の軽ワゴン車の後部座席に座り、流れていく景色を眺める青の姿があった。
運転席の百足は普段通りで、安全に信号の少ない山道を運転していく。
感情を圧して結局引き受けてしまったのは、青の生活費が逼迫していたからではないし、前期の授業料の免除申請が通らなかったからでもない。
百足のメールに添付されていた、一枚の写真が理由だった。
映っていたのは花瓶に生けられた向日葵。
薄青いガラスの一輪挿しに合わせて、短く茎を切られた向日葵は、しかしこちらに花が向いていない。
緑のガクと茎、後ろの花びらだけをこちらに示し、まるで、巖の意思で顔を見せない。そこに、鑑賞のためにヒトに嬲られた花の精一杯の抵抗を感じたのだ。
こんなものを送ってくる百足は卑怯だ、と青は怒り、嘆いた。極めつけはメールの最後の文章で、『この向日葵の咲く町に行きませんか。』だ!
百足は嫌いだが、気づけば青はバイトの日程を調節し、予定を開け、泊るための荷造りをしていた。すべて百足の手のひらの上で、一層イライラする。
百足が「もうすぐ着きますよ」と声をかけると同時に、青の視界に黄色い花が入った。
車はいくつも山を越え、しばらく緑の草原のような稲田の一本道を走っていた。その向こうに、向日葵の園が広がっていた。
「観光客も多いみたいですね。まずは管理されている川野さんのお宅に行きます。部屋も用意してくださっているので、荷物を預けましょう」
百足の言葉を青はほとんど聞いていなかった。「……はあ」と上の空で返事をし、時々人の姿も見える一面の向日葵にくぎ付けだった。
「なんか、夏! って風景ですね」
「そうですねー」
青の感動に、百足は気のない返事をする。
川野さん、という老夫婦の家に挨拶を終え、落ち着いた雰囲気の和室に荷物を置くと、百足はさっそく青を連れて向日葵畑に向かった。作品を撮るのは明日がメインで、今日は雰囲気やインスピレーションをつかむ目的だ。
しばらく百足は、気になった辺りに青を立たせたり、指定した方向を向かせたりしていたが、今は分かれて観光客と会話に行った。
おいて行かれた青は、少し歩くことにした。
「暑……」
帽子をかぶっているが、日差しは強い。
背の高い向日葵畑は他の人間の姿を隠し、青は独りぼっちで、夏という季節に迷いこんだような錯覚をさせた。向日葵の向こうから蝉の声がする。
向日葵の隙間にチラチラと光るものを見て、向かうと、それは小川の水面だった。
少し離れたところで、子どもが数人、サンダルを脱いで足を水に漬けている。
青も真似をしてみると、水は思っていたより冷たかった。驚いて息をのんで、すぐにその冷たさが心地よくなった。
平和だな、と思った。
常なら、暇があるとスマートフォンを覗く癖がついていたが、今は友人との馬鹿話も、芸能人のニュースも、気になる新商品の情報も欲しくなかった。
青い空、蝉の声と子供の声、ずっと広い向日葵と、遠くに薄青い山脈が見える。
風鈴の音が聞こえた気がする。
夏の熱気と汗が不快だったが、今この瞬間、切り取られたように、世界が完結している気がした。
「青くん、起きたんですね」
「……え?」
目を開ければ、木目の天上があった。
畳の上に寝かされ、両脇と首の後ろが氷枕で冷されていた。
「こどもたちが川野さんに教えてくれたんですよ。君の様子が変だって。熱中症には気を付けよう、あれほど注意したじゃないですか」
「俺……。すみません」
「いいえ。僕の注意不足です。モデルの体調管理を怠るなんて。撮影は中止して、病院に――なんです」
「いえ、百足さんが人間らしいことを言ってるから、気持ち悪いなって」
「青くん、熱中症で人は死ぬこともあります。君が死んだら僕の写真は永遠に撮れなくなるんですよ!! ああ、耐えられない!! せめて、熱中症に罹るなら撮り終わってからなってください」
「あんた…………最低かよ」
血の気が引く思いをしながら、青は体を起こす。めまいもない。体が重く、だるさはあるが、明日には回復しているだろう。
「大丈夫です。何度も百足さんと出かけるほうが嫌なんで、予定通り、明日は宜しくお願いします」
「あ、ほんとに? じゃあお願いしますね、青くん」
病院に行く、と言ったのは何だったのだ。
百足の血液は本当に赤色なのだろうか、と青は一瞬真剣に考え、真顔になった。
夏休みが終わり、季節は秋になった。大学では文化祭があり、そこでも屋台のアルバイトでそこそこの稼ぎがあった。来年にとりかかる研究課題の下調べで、研究室に向かっていると、廊下ですれ違った女子学生がぎょっと振り向いて声を上げた。
「えっ!? うそ!! 待って!!」
「えっ? こんにちは?」
「あ、こんにちは、って違うの! あなた、もしかして百井百足――」
名を聞いた瞬間、反射的に走って逃げだしていた。夏の1件以来思い出さなかったが、熱中症の介抱をされたくらいでそれほど嫌な思い出もなかった割に、時が過ぎるにつれて百足の存在がトラウマレベルに刻まれている気がする。強いて理由を考えるなら、人生観が百足と青は絶対的に合わないのだ。
研究室に飛び込むと、机に座っていたゼミ生と目が合った。雑誌を見つめていた彼が、ぽかんと口を開けて青を見つめる。
青は彼の雑誌を取り上げた。思った通り、写真誌だった。
特集は――百井百足の新作発表。
タイトル『夏の眼差し』
鮮やかに青い空と延々と続く向日葵畑。
人の顔ほどもある大きな向日葵の花だが、明るさ、はつらつさ、爽やかさはそこに微塵もない。
花に埋もれるように、まるで彼自身も向日葵であるように、青年が顔を出している。虚ろな目を開いて、口を引き結んで、人間らしい表情をしていない。
彼の表情は、周りの向日葵の表情とまるきり同じだ。
咲く花がみな笑顔であると誰が決めた。
自分たちはここに立ち、いずれここで種を残し、逝く。その時を、待っている。
――また、だ。
1年前の写真もそうだった。
百足は被写体の意思や人生を撮らない。興味がない。何を考えているかなんて、どうでもいい。
この写真を撮るとき、百足はシャッターを切るまで、炎天下の中、15分かけた。
立ち尽くした青は噴出した汗で全身濡れ、意識が朦朧としかけていた。その後また丁寧に介抱されたが、前日より危険な状態だったように思う。
だが、そうか、この写真が撮りたかったのか。
この世界を撮りたかったのか。
「なあ、大水、このモデルって――」
「何を言ってるんだ。これは向日葵の写真。ヒトのモデルなんて、どこにも映っていないじゃないか」
震える声で返事をした。
【向日葵・畳・川】というキーワードを扱いきれていないし、前半が長めになってしまったことが反省です。
青と百足はこの物語以前に書いた小説の人物で(青が1年前に百足の撮影補助のアルバイトをし、最終的に望まない形で百足の被写体になった話)性格や立場が固まっていたため、ほぼ即興で書いても言動がブレなかった事は良かったと思います。