ヨガ 3
芳樹からは、通話を切ったあとも何度も着信があった。
『元カレとか言ってごめん。ついやきもちを焼いた。……好きだよ、連絡待ってます』
などという留守電も、同じような内容で何度か入っている。
好きだよ、という言葉を聞いたのは久しぶりだった。
別れを告げたはずなのに、心ときめいてしまう自分が悔しい。いますぐ、電話をかけ直したくなる指先にも。
しかし、すんでのところでかけ直す気持ちを踏みとどまらせているのは、彼の見当違いっぷりだった。
元カレうんぬんなんて、風香はまったく気にしていない。芳樹は、何故彼女を怒らせたのかに気づいていないのだ。
―― その場しのぎの甘い言葉で誤魔化しているけれど、実は私のことなんてちっとも知らないじゃない!
風香が何故怒っているのか、悲しんでいるのか。
ちゃんと説明をすれば、彼だってわかってはくれるだろう。しかし、“説明しなければこんなことすらわかってくれない”という事実が、関係を続けたとしても明るさの見えない未来を予見しているようだった。
思い返してみれば、芳樹が勧めてくれたもの――美容室、ネイルサロン、イタリアンレストラン、バー、セレクトショップ、チョコレートなど――はどれも業界で評判のものや女性ウケの良いものであって、“風香の好みに合わせたもの”ではなかったような気がする。風香もいつしか、芳樹が勧めるものは間違いないと思い込んで、それを好きだと思い込んでいたのだ。
―― 私って、どんなことが好きだったんだっけ?
20代半ばから費やした9年間は、重い。
風香は、断続的に鳴る電話を握りしめながら、かつての自分を思い出そうとしていた。
*
朝起きて、まずスマホをチェックするのがこの9年間の欠かさぬ習慣だ。
芳樹に別れを告げた翌日も、その翌日も、一週間たった今でも、風香はその習慣を続けていた。
違うのは、以前は『おはよう。今日はすっかり寒くなったね』などとたわいもない挨拶メールをお互いに送り合っていたのが、今は彼からのメッセージを読むだけになっていること。
芳樹からは、朝と晩にきっちり、たまに昼時も『今日も君のことを考えている』だの『声を聞けなくて寂しい』だのという甘いメッセージが入っていた。
それを読んで、返信はしない。けれど、満足してしまう。
彼がとても寂しがっていたり悲しんでいたりする文言を読むたびに、風香の心はひたひたと愛に満たされる感覚がした。
別れたのは正しいと、今でも思っている。
それなのに、彼からのメッセージを今日も渇望しているのだった。
その日常に変化が訪れたのは、一週間後だった。
毎朝届いていた芳樹からのメッセージが来ていない。
「あれ?」
通信不良かと思い、何度もメッセージアプリをリロードする。
しかしそこには、新着も何もない画面が佇んでいた。
―― 忙しいのかな。
いくつかの店舗を経営している芳樹は、仕事も人付き合いも忙しい。もしかしたら、今は商品の買い付けの時期かもしれない。風香は、別れたくせに彼のスケジュールを思い出そうとする自分を叱咤し、画面を閉じた。
できるだけスマホを見ないようにして仕事に集中し、珍しく残業も進んでやって帰宅した夜の22時。お風呂にも入ってのんびりし、あとは寝るだけ…というタイミングになってからスマホを手に取る。どきどきしながらメッセージボックスをタップすると、そこは今朝とは変わらぬ既読のメッセージだけが取り残されていた。
「あれ」
メッセージ、来てない。
何度も確認してみるが、結果は変わらない。海外にでも行ったのだろうかと思いその日は寝たが、翌日になっても状況は変わらなかった。
*
「……奈菜?」
数日後。美保に相談があって呼び出したら、カフェで待っていたのは彼女だけではなかった。
「ごめん、風香。私、SNSって一切やってないからさ…お役に立てないかと思って奈菜に言っちゃった」
美保は、ごめんと言って手を合わせた。
言っちゃった、ということは。
『芳樹の近況がどうしても知りたいけれど、SNSに登録したり検索をすると探っているのが向こうにバレるかもしれないから、代わりに彼のアカウントを見てほしい』という恥ずかしいお願いを奈菜にも話したということなのだろうか。
おそるおそる奈菜を見ると、きりっと睨まれた。
「ごめん……つまんない頼み事して」
バカなことをしているって、自分だってわかっているのだ。
別れを切り出しておいて、連絡が来なくなったら相手のことが気になりすぎるだなんて、未練がましいにもほどがある。
でも、このままだと永遠に気持ちのキリがつかないような気がしたのだ。とはいえ芳樹にこちらから連絡をするのは格好悪すぎるし、だいいち、復縁するつもりはない。言い寄られたら気持ちが傾いてしまいそうで怖いし、また付き合い始めるのも地獄を見る。
しかし、このままフェードアウトされるのも何だかスッキリしないのだった。
「バカじゃないの!?」
奈菜は怒っていた。
「せっかく別れたのに相手の近況を知りたいなんて、知ったところでいいことひとつもないじゃない!」
まったく、彼女の言うとおりだ。
「だいたいさ、風香ってSNS使ってないの? 自分で調べればいいじゃん」
「彼に、SNSには登録するなって言われてたし…よりを戻すつもりはないから、登録したのがあっちにバレるのも嫌だし」
芳樹が利用しているのは、電話番号から知り合い候補が表示されるSNSサービスだ。
「じゃあ、こちらから相手をブロックすればいいでしょ」
「そうなんだけど……」
登録したが最後、彼の動向が気になって永遠に見続けてしまうに違いない。それはどうしても避けたいのだった。だからこそ美保にお願いをしたと言ってもいい。自分一人で見てしまうと、断ち切れる自信がないから。
黙っていると、はあーとため息をつかれた。
「しょうがないなあ。……知らないからね」
奈菜は突き放すように言ったが、その内容に反して声は柔らかかった。
バカなことをするとわかっていながら、それでもこの場に来てくれたのは彼女の優しさなのだろう。
「名前、私が検索する? それとも自分で探す?」
「自分でやる。……ありがと」
スマホを受け取り、アプリで芳樹の名前を検索する。仕事の関係上、このSNSを使っているのは聞いていた。漢字でヒットしなかったので、ローマ字で検索してみる。すると、久しぶりじゃないのに懐かしい彼がアイコンで笑っていた。
画面をタップすると、仕事仲間だろうか、大勢と飲んでいる姿や店の前でポーズをキメている姿、新店舗の紹介などがたくさん投稿されている。相変わらず忙しそうだ。
まったく彼らしく、飲んでいる写真が多いなあと思いながらスクロールしていくと、ひときわコメントの多い投稿が目についた。
“Happy Anniversary! 結婚記念日、芳樹が店に来てくれました~! 可愛い奥さんと末永くお幸せに!!”
友人が投稿したらしい、その写真。
シャンデリアが光り輝く豪奢なレストラン、テーブルの上には薔薇の大きな花束、ケーキには“15周年おめでとう”の文字、仲睦まじそうに身を寄せているのは愛嬌のある笑顔の女性……
ずっと夫婦仲は良くないと聞いていたのに
子供が大きくなったら別れると言っていたのに
夫婦で出掛けるのは仕事上の付き合いで仕方ないときだけだって――
「風香」
奈菜が、握りしめていた指からそっとスマホを外し、代わりにペーパーナプキンを握らせた。
そうされて初めて、自分が泣いていることに気がついた。
泣くなんて思ってなかった。なのに、湧き出すようにどんどん溢れてくる。
止まらなかった。
私、なんで泣いてるんだろう。
裏切られた? 嘘をつかれた?
いや、不倫男の言い分なんて信じた私がバカだったんだ。
甘い言葉に注意…なんていう雑誌の記事を読むたびに、芳樹だけは違う、自分だけが違うと思い込もうとしていた。
でも、薄々気づいていたのだ。9年も待たされているという現実を。一週間で連絡が途絶える儚い関係を。
SNSを見てみたいと思ったのもたぶん、こういうショックを受けるだろうと自分が知っていたからだ。
でも、実際に風香の胸をざくざくと突き刺したのは彼の嘘ではなく、写真に写っていた彼の照れくさそうでいて幸せそうな様子や、美人ではないけれど人懐っこさそうな妻の笑顔だった。
それは、風香が望んでいて、切望していて、手に入らない世界だった。
ペーパーナプキンを10枚ほど消費して、ボロボロになったマスカラをふき取って、すっかり冷めたコーヒーをおかわりするころになってようやく、風香は言葉を取り戻した。
「……ごめん。ありがとう」
「気が済んだ?」
美保が言った。
「うん。もう見たいなんて言わないし、もちろん連絡も取らない。……二度と」
腫れぼったい目で決意する。きっといまの自分は不細工なんだろうなと思ったが、美保も奈菜もそんな風香を笑わなかった。ただ、ぽんぽんと手を握って、ケーキを奢ってくれた。
*
もう芳樹のことなんて忘れる……と思っても家に帰れば彼との思い出の品が溢れんばかりに出迎えるので、風香は思い切って部屋を整理することにした。
デートでよく着たワンピ、プレゼントしてもらったバッグやアクセサリー、お土産でもらったぬいぐるみ、記念日に飲んだスペシャルワインのエチケット。
ゆかりの品が多すぎて、彼に関連のあるものをすべて処分すると裸一貫になりそうな勢いだ。
とっておくもの、不要なもの。部屋の両隅に分けて積んでいくと、残るものは部屋着とスーツくらいしかない。高かった下着類も、思い出すのも嫌なので思い切って処分することにした。ただ、バッグやワンピースなどはまだ使えるし、質が良いだけに捨てるのは忍びない。
先日世話になったお礼にと、奈菜や美保にもし欲しいものがあればプレゼントするよとメッセージを送った。
するとすかさず
“今度の土曜日、空けておいて。駅からの行き方教えて”
と返信が届いた。
道順を送りつつ、友人たちを家に招いたことが一度もなかったことに気づいた。学生時代は実家暮らしだったし、芳樹と付き合っている間に密に付き合った友人はあまりいない。つくづく、この9年間はいったい何をしていたんだ、と自分に呆れた。
友達を家に迎える、ということに妙に緊張して、お茶やお菓子を買いそろえたり部屋を掃除しているうちに彼女たちは嵐のようにやってきた。彼女たち……そう、美保と奈菜だけではなく、週末も仕事がある久美以外のみんな!
「えっ、どうしたの、そろいも揃って!」
ドアを開けると、「お邪魔しまーす!」と8畳の1Kにどやどやと5人も入ってきた。
「だって、お洋服やバッグ放出するんでしょ? 私も見たいー!」
有希が悶える。
「私も。それにさあ、服買い替えるなら、うちのブランドのファミリーセールもうすぐやるから来てよ!」
実津子がチケットを取り出した。営業に抜かりない。
「私はお掃除係と差し入れでーす。疲れたらおやつに食べようね」
秋穂が取り出したのは、彼氏が作っているという宝石のようなチョコレート。
「……みんな、ありがとう」
こんなにも友達にお礼を言ったことはなかったかもしれない。
みんな、わいわいと騒ぎながら服を試着しては似合う似合わないで盛り上がり、引き取り手がない服は奈菜がその場でフリマアプリに登録して売ってくれた。そんな様子を見つつ、面倒見の良い秋穂がクローゼットや台所を掃除してくれ、部屋はみるみるうちに片付いていく。
「うわー、すごい! 自分の家じゃないみたい……」
ぎゅうぎゅう詰めだったクローゼットはスカスカになり、着心地が良くて幸せな気分になるものや着回しが効く実用的なものが残った。プレゼントでもらったバッグはブランド買い取り専門店で換金し、残った服もフリマアプリでほぼ売れた。部屋の隅には、貰い手のないものたちがゴミの日を待っている。
「変な部屋に住んでたのねえ」
片づけに徹してくれた秋穂が、お茶を飲みつつぽつりと言った。
「変な部屋? そう?」
服ほどインテリアには気を使っていないが、趣味は悪くないはずだ。
「だってさ、服やバッグは腐るほどあるのに、鍋やタオルやベッド周りは雑っていうか。サプリはわんさかあるのに野菜はあんまりないし、なんかアンバランスだよ」
「えー。みんな、こんなもんじゃないの?」
友人たちを見回すと、一同は首を横に振った。どうやらみんなは秋穂に同意見らしい。
「もうちょっと落ち着く部屋にしたら? ソファ買ったりさ、ざぶとん買ったりさ。人間をダメにするソファ、めっちゃおススメだよー、だらだらできるし!」
奈菜がごろんと横になりながら言った。
「え、奈菜って家でダラダラすんの?」
意外だ。広告代理店に勤めてるだけあって奈菜には隙が無い。お洒落カフェみたいな部屋に住んでそう、と思っていた。
「してるしてるー、一日中ドラマ見てごろごろしたり、漫画読んだりしてる」
「うっそ!!」
「ほんと」
「えっ、彼もそれ知ってるの!?」
「知ってるよ。……ごろごろしてる私の方が好きみたい」
奈菜は照れるように言った。着飾った奈菜は超可愛いのに、オタクな状態の方を好む男がいるとは!
「意外過ぎる……」
「そんなもんだよ。毎日気を張ってたら疲れるでしょ? メリハリ大事」
メリハリ、バランス。
ボディのメリハリや栄養バランスは常に気にしてきたが、全体のバランスを見つめたことはなかった。
私は、バランスが悪かったのだろうか?
恋愛に依存していた自らを省みる。
心当たりばかりがあるようで、何だか体がもぞもぞした。
その違和感は仕事終わりの久美が総菜やお酒を持って遊びに来てくれるまで続き、彼女の滋味あふれる手料理を食べたら、ますます自分のなかにある欠けをはっきりと感じた。
賑やかなみんなが帰った部屋は、いっそう寂しく思える。
ごろんと横になると、クローゼットで大量に余ったハンガーが風香を見下ろしていた。
無機質なそれらは、さんざん服にお金をかけたにも関わらず何も手元に残っていない自分のようで、風香は薄っぺらい布団を体に巻き付けるようにして眠りについた。