チョコレート
瀬戸秋穂の趣味は、仕事帰りにデパートに立ち寄ることだ。
デパートのなかでも、特に地下。惣菜・パン・スイーツなどの店が所狭しと並ぶいわゆるデパ地下だ。
デパ地下を愉しむのが趣味だなんて34歳の独身女にしては侘しすぎると人は言うかもしれないが、30を過ぎると人の意見なんてどうでもよくなる。少なくとも秋穂はそうだ。
日々夜遅くまで働き、たまの定時上がりにデパ地下めぐりをし、気晴らしに美味しいものを食べるのが幸せだという慎ましやかな生活は、褒められることこそあれ責められる筋合いはない。
時間はまだ7時半。秋穂にしてみれば驚異的に早い帰宅時間だった。しばらくかかりきりだった仕事が、ようやく納品できた。
「今日なら行けるかな」
閉店間際のタイミングでは訪れることのないコーナーを曲がる。スイーツショップが軒を連ねる一角だ。
そのなかでも、重厚な木のつくりで高級感を醸している店に迷わず向かった。
カウンターが近づくにつれて甘い香りが漂ってきて、秋穂の頬を緩めた。
「ああ! お疲れさまです、こんばんは」
二人いる店員のうち、黒服の男性が秋穂を見とめ、笑顔を見せた。
「こんばんは。今日はカウンターでいただきます」
「かしこまりました。メニューをお持ちしますね」
ここは、チョコレート専門店だ。
宝石のようなチョコレートがずらりと並び、奥には厳密に温度管理された宇宙船のような小さなスペースがあり、その手前に5席ほどのカウンターがある。秋穂は、一番手前の席に腰を下ろした。
「はい、どうぞ」
メニューを差し出す男は柏木と言った。秋穂が名を尋ねたわけではなく、名札にそう書いてある。彼の指はチョコレートを扱うにふさわしい形をしている、と秋穂は思っていた。
細くて長いけれど、けして華奢ではない。
「ありがとう」
革張りのメニューを開くと、ぺらりとした紙に『期間限定』の文字が躍っていた。
「秋冬のチョコレートドリンクが出ましたよ。濃厚で、かなりミルキーなホイップが特徴。カラメルのシガレットクッキーを添えています」
うきうきと言う彼の顔は、すこしニヤついている。
「その手には乗りませんよ。ドリンクはいつも通り、ブレンドのブラックで」
秋穂の返事を聞いた柏木は、大げさすぎるため息をついた。
「またですか」
「チョコはシングルビーンズで……、今日はどうしようかな。ジャワと、ペッパー入りにしようかな」
「相変わらずの辛口セレクトですねえ。コーヒーには、こちらの黒糖入りも人気ですよ。洋と和が意外に合うんです」
「それはそれで美味しそうだけど。でもなんだか甘ったるそう」
「濃密な香りが特徴ですけど、そこまで甘味は強くないです」
「あんまりピンとこないかなー。甘くても許せるのはジャンドゥーヤくらいなんで」
「じゃあ、ジャンドゥーヤにします?」
「あはは! どうして甘い方を勧めようとするんです? ジャワとペッパーでお願いします」
いつごろからだろうか。柏木がいかにも女性好みしそうな甘いものばかりを勧めてくるようになったのは。
「はいはい、かしこまりました」
柏木は肩をすくめて白い手袋をはめ、ケースからそっとチョコレートを取り出した。
その優しい扱い方から、彼のチョコレートに対する愛情を見て取れる。
彼はチョコレートのスペシャリスト。ソムリエのチョコレート版のような職業なのだそうだ。ひとつのものを探究する質は仕事熱心な自分に似ている、と嬉しくなる。
と言っても秋穂はWebデザイン会社の単なるOLであって、デザインのほかスケジュール管理や紙媒体の手配、撮影時の弁当オーダーまで、仕事に関わることなら何でもやるため、職人のような彼とは程遠い。最近は、社内での年齢が上になってきたこともあり後輩の育成まで秋穂のタスクに追加された。プライベートの時間は削られるばかりだ。
『結婚できなかったらどうするんですか』
相手もいないので心配する必要はないのだが、日に日に増えていく仕事に口を尖らせると、マネージャーは嬉々として言った。
『結婚しなかったら、ずっと仕事してもらえるね』
冗談なのか本気なのか、まったく。
人材を育てる仕事が向いていたのか、新人教育で思いのほか目に見えた成果が上がっているため、社としても秋穂に期待しているのだ。『助かるよー、ビシバシ育ててくれて』なんて言って頼りにされている。厳しくしたいんだったらあんたが厳しくすればいいでしょ、と思うが部下に嫌われるのが怖いらしい。秋穂だって、嫌われたくはない。でも、愛があるからこそ厳しくするのだ。それに、秋穂は口だけの上司にならないよう、まずは自分が手本にならねばと思って常々頑張っている。秋穂の仕事ぶりを見ている人間であれば、どんなに厳しいことを言われようと文句を言う者なんていないのだ。
「はい、お待たせいたしました」
霞のような湯気が立つコーヒーと、藍と白の美しい陶器にのせられたチョコレートがサーブされた。
「ありがとうございます」
柏木の淹れるコーヒーは美味しい。苦みもコクも温度も申し分ない。この、抜かりない感じが良い。
「お久しぶりですね。お忙しそうで」
「おかげさまで。はあー、生きかえるわー」
丁寧に淹れられたコーヒーと、カカオの芳醇な苦みが口に広がる。
「おっさんですか」
「いえ、おばさんです。ううん、お母さんかな。後輩の育成も申し付かるようになりまして」
「怖そうなお母さんだ」
柏木は身震いする仕草を見せた。
彼とは薄い紙切れほどの世間話しかしたことがない。秋穂の詳しい仕事内容はおろか、名前すら知らないはずだ。なのに「怖そう」なんて言われてドキリとした。秋穂は一見大人しそうに見られるのに、この人は本質を見抜いているらしい。
「失礼な! なーんて、図星ですけど。でも、慕われているとも思いますよ」
後輩をたっぷり叱ったあとは、飲みに連れて行ったりもする。こういう行為はお母さんというよりもやっぱりおっさんに近いかも、と思った。
「でしょうね。結婚式でスピーチを頼まれるタイプだ」
「えっ、どうしてわかるんですか?」
ちょうど来週、後輩の結婚式がある。ズバリ、挨拶を頼まれていた。
「どうしてでしょうねえ。……ちょっと待っててくださいね」
柏木は指先を上げる仕草だけで優雅に会話を止めてみせると、カウンターを指差している客に笑顔を向け接客をはじめた。夜の時間帯は混み合うのだ、秋穂の相手ばかりしている場合ではない。もう一人の店員もきびきびしていて感じが良いのだが、チョコレートの知識は柏木ほどではないのだろう、カカオ豆が育った環境など詳細な質問に関しては彼に対応を任せているようだった。
背中に、カウンターを狙っている視線を感じる。振り返ると、数人が並んでいた。いよいよ混んできたようだ。
秋穂は最後の一滴までコーヒーを飲み干すと、席を立った。
「ありがとうございました。税込みで、1728円になります」
柏木に代わって、きびきびした店員の方が対応する。
「はい。ご馳走さまでした」
席を立ち、カウンターで応対をしていた柏木に目で挨拶すると、帰ることを責めるようなしかめっ面をされた。それが妙にコミカルだったので可笑しい。
しかし次の瞬間には、柏木の顔から彼の手にしているモノへと秋穂の視線は吸い寄せられた。
綺麗……。
まず、そう思った。
艶やかなショコラの、15センチほどの円形のケーキ。非の打ちどころのないコーティングは、磨かれた鏡のように光を反射していた。ワイン色のクリームとカシスの実、そして優美にカールしたチョコレートが飾られている。まるでシックなクリスマスリースのようだ。
「お名前は、いかがいたしますか?」
どうやら、プレゼントなのだろう。
―― プレートもつけてくれるんだ。
胸がとくんと高鳴った。
ほろ苦いカシスとチョコレートの相性は秋穂の好みだ。そして、彼女の誕生日は二週間後に迫っている自分へのご褒美ってやつはどう?
「……いや、それはなあ」
秋穂は独り呟くと、デパ地下を後にした。
別に、食べたかったら食べたい時におやつとして食べればいい。ちょっと贅沢だけど。
秋穂は、ご褒美という言葉が苦手だった。なんだか、甘えている気がして。
「まあ、ホールケーキなんて一人じゃ食べきれないしね」
ガトーショコラは濃厚だから、例え小ぶりなサイズでもあの大きさを食べきるのは大変だろう。
*
……秋穂は日々の忙しさに追われ、ガトーショコラの存在を忘れることに成功していた。
なのに、思い出してしまったのだ。後輩の結婚式で。
幸せそうな新郎新婦、嬉しそうに笑う親類縁者、楽しげに祝う友人たち。
そして、その中央ステージに未だ縁のない、自分。
無事にスピーチを終えた秋穂は、「やっぱり誕生日にはあのケーキを買おう」と決意した。
当の誕生日、職場のみんなに「お祝いしよう!」と飲みに誘われたが丁重に断った。「彼氏ですか!?」と目を輝かせて訊いてくる後輩の首を軽く締めて、向かった先はチョコレートショップ。
「ああ! こんばんは。お疲れさまです」
柏木が、クールに整えていた目尻をくしゃりと下げた。
「こんばんは」
「口に入れただけで甘く溶けるトリュフが入荷しましたよ。希少なラムを使っています」
「ええと、今日はそういうのじゃなくて」
秋穂はケースに目を滑らせた。あった、良かった。
ほっと安堵の息をついた。
「ケーキですか? 珍しいですね」
「はい。これってプレートつけられるんですよね?」
毒を食らわば皿まで。
恥ずかしい真似をするんなら、とことんしよう。
「え? ええ。……お祝い、ですか」
急に柏木のトーンが低くなった。
「誕生日です。名前を入れてもらおうかと」
「はい、大丈夫ですよ。お名前は?」
メモを探しているのか、柏木が背を向ける。接客中は常に前を向いている彼にとっては珍しいことだった。
「えーっと、『アキホ』でお願いします」
「アキホ? えっと、下のお名前ですよね?」
「そうですけど。プレートに書くのに苗字とか関係ありましたっけ?」
「あ、そりゃそうだ。関係ないですよね、ははは!」
柏木が大きく笑った。
「お友達のお誕生日ですか?」
「えーっと、はい」
この流れで、自分のケーキだとは言い出しにくい。
「消費期限が本日中ですけど大丈夫ですか?」
「それは大丈夫です。今夜食べるので」
「そーですかそーですか。それは良かったです」
彼は滑らかな手つきで『Happy Birthday Akiho』とプレートを作り、カシスクリームの上にそっと乗せた。
「こちらでよろしいですか?」
「はい。素敵!」
「僕が?」
「うわー……」
じっとりと目を細める。
「はいはい、すみませんでしたよ」
柏木は笑ってケーキを包んでくれた。
「ありがとうございました。良い夜をお過ごしください」
店の前まで出てきて紙袋を手渡し、きっちりとお辞儀をする柏木。
軽口を叩くようでいて、彼はやはりプロだ。
「ありがとうございます! 行ってきます」
秋穂は満ち足りた気分で自分のアパートに帰り、デパ地下で買ったスパークリングワインとデリの惣菜で乾杯をした。メインはケーキだ。
スパークリングとチョコレートケーキは素晴らしい取り合わせで「半分は明日食べよう」なんていう決意はどこへやら、ぺろりとすべてを平らげてしまった。柏木が言ったように、本当に「良い夜」だ……。
秋穂は、幸せな眠りについた。
まさか、この話がこれで終わらないなんて思わずに。
*
「先輩せんぱい、秋穂せんぱーい」
「何よ」
「昨日はどこで誰と過ごしたんですかっ?」
髪も瞳もクリックリの可愛い後輩女子がすり寄ってきた。
「自分の家。一人で」
「えええーっ、だったらみんなで飲みに行った方が良かったじゃないですか!」
「いいのいいの、たまには一人もいいもんよ」
「……先輩ぃ、気を遣ってないですか?」
「あはは、あんたたちに? ないナイ。美味しいケーキを独り占めしたかっただけですー」
「美味しいケーキ? どこのですか!?」
「駅前のFデパートの地下にあるチョコレート専門店のやつ」
「うわー、あの見るからに高そうな……。私、怖くていつも素通りしてます」
「取って食われやしないわよ」
「先輩のおすすめなら食べてみたいなー。ねえ、買いに行くの付き合ってくださいよ」
「子供じゃないんだから一人で行けるでしょ!」
「だって、チョコとか好きだけど種類とか詳しくないですもん。色々訊かれてもわからないし。一度行けば慣れますから!」
「しょうがないわねー。買うのは自分で買いなさいよ?」
「えー」
「えー、じゃない!」
「わかってますって、もちろんです!」
そんなわけで、二日連続で店に行くことになってしまった。
「あれ。お疲れさまです!」
連日来るのは初めてなので、柏木が少し驚いた様子を見せた。
「こんばんは。今日は後輩連れです。この店が気になってたそうなんですが、怖くて入れなかったみたいで」
「ええっ、怖いっていうのは言わなくたっていいじゃないですかー!」
「怖いですか?」
柏木が困ったように苦笑いしている。
「いえいえ、高級そうで、って意味です!」
「意外と庶民的ですよ。チョコレートも、200円くらいからございますので是非見ていってください」
柏木がにっこりと笑った。
「200円のもあるんですか! それなら私でも買えます。嬉しいー、良かった!」
「良かったわね」
「ありがとうございます! ちなみに、秋穂先輩が買ったっていうケーキはどれですか?」
「……アキホ?」
柏木が首を傾げる。
突然の発言に、秋穂はぶっ飛んだ。
「あっ、ああ! プレートに名前入れたってやつね、こっちこっち」
ずるずると後輩を引っ張り、柏木と離れる。
背筋は凍っているのに、顔は熱い。
―― 聞き間違えてくれますように!!
『秋穂先輩が《・》買った』と『秋穂先輩に《・》買った』では、意味合いがまったく異なってくる。
どうか彼が勘違いしてくれますようにと願って秋穂は気が気じゃなかった。解説よろしく後輩にべったりついてまわり、変なことを言わないよう自分の方から喋り倒していくつかのチョコレートを買わせ、挨拶もそこそこに店を後にした。
家に帰っても、恥ずかしくて死にそうになる。
一人でバースデーケーキを食べたことが恥ずかしいんじゃない。それを、友達のものかと訊かれてつい頷いてしまった自分が恥ずかしいのだ。「自分一人で食べるんです」と言っておけば良かった。妙な見栄を張るから、こんな目に遭うのだ……。
「もう、あの店行きにくいなあ……」
柏木という馴染みの店員もいて、居心地が良くて快適だったのに。
思えば、定期的に息抜きで通っているのはあの店だけだ。こうなってから気づくなんて、神様も意地が悪い。
「通販で買おうかな」
ほとぼりが冷めるまでしばらく行くのをやめようという秋穂の計画を後押しするように、再び仕事が忙しくなった。残業中、通販で買ったチョコレートを齧ったりもするが、オフィスで高級チョコレートを食べるのは味気ない。次第にコンビニのチョコレートで済ますようになっていた。最近はコンビニでも86%などの高カカオのものを売っているから助かる。
二週間ほど会社に住むような日々が続いただろうか。
ようやく人間的な時間に帰宅できそうだ、という日。
自炊する気力も体力もなく、かといってコンビニ弁当は食べ飽きた秋穂はふらふらとデパ地下に立ち寄った。美味しそうな匂い、活気ある雰囲気。活力がわいてきてグウとお腹が鳴る。その拍子に二週間前の恥ずかしい出来事が思い出されたが、スイーツコーナーに立ち寄らなければ大丈夫とタカをくくっていた。
油断禁物だと、二週間前に痛いほどわかっていたはずなのに。
「アキホさん?」
焼き魚定食を手にホクホクしていている秋穂に、耳慣れた声がかかった。
「え……っと」
ゆっくりゆっくりと振り返る。
そこに立っていたのはやはり、柏木だった。透明なビニールバッグのようなものを手に提げている。休憩だったようだ。
「お疲れさまです。しばらく来なかったからどうしてるかなと思ってました」
「仕事がすごく忙しくて……」
「今日はもう終わりですか?」
「は、はい」
「良かったら、寄っていきませんか」
彼のにこやかさもまだ休憩中らしい。真顔で言われた。
「いえ、でも、お腹がすごく空いててゴハン買っちゃったし、家に早く帰ろうかと」
お腹が空いているのは本当だし、まだ気まずいのも本心だ。
すると、柏木が低い声で言った。
「……アキホさんて、オータムの秋って字を書くでしょ」
「え? はい。オータムの秋に、稲穂の穂ですけど?」
「やっぱりね」
「それはどういう……?」
「疲れているときはチョコがおすすめですよ」
柏木は、今日に限ってやけに強引だ。
背を押され、店に連れてこられてしまった。
まあ、久しぶりにここのチョコレートでも食べるか。
「じゃあ、ブラックコーヒーと……」
注文しようとしたら、ぬっと袋を差し出された。手のひらにのるほどの、小さな紙袋。
「これは?」
「誕生日プレゼント」
「えっ?」
「この間は本当にすみませんでした。オレが『お友達の誕生日ですか?』なんて訊いたばかりに」
「いえいえいえ! 私がはっきり言えば良かったんです。自分一人でケーキを食べるんだ、って。プレートまで書いてもらうなんて、慣れないことはするもんじゃないですねー」
「秋穂さん。それは」
「いいんです。それに、あのケーキすごく美味しかったです。甘さ控えめで苦みが効いてて、上品で」
「……そうですか」
そう言う柏木は、少し寂しそうだった。
「柏木さん?」
「あ、すみません」
手をわずかに上げる。顔を上げると、客がカウンターを覗き込んでいた。
「それ、食べてくださいね」
早口で、紙袋を指差した。
「でも、いただくわけには」
特に彼がミスしたわけでもないのにお詫びの品を受け取るわけにはいかない。
「いいんです、食べてください。……冬は、いつまで経っても秋を攫めない」
「えーと?」
何を言っているのだろう。
首を傾げたが、さっぱり訳がわからなかった。
客の切れ目を待って話を聞こうとしたが、閉店間際の時間帯はひっきりなしに人が訪れる。
仕方なしに秋穂は帰ることにしたが、デパートを出たところでやっぱり柏木の言ったことが気になって紙袋を開けてみた。
ボルドー色のリボンが結ばれた、長方形の箱が入っている。
リボンを解き蓋を開けると、種類の違うトリュフが二つ、並んで秋穂を見上げていた。
―― ミルクのトリュフとボンボン……かな。
ビター好みの秋穂が絶対に選ばないセレクトだ。
「ここまで甘いもの食べさせようとするなんて、変な人」
スイートなチョコレートの普及委員でもしているのだろうか。
箱の下にカードのようなものが見えたのでゴソゴソと取り出し、開いてみた。
たまには、甘さも受け入れてみてください。案外いいもんですよ。
柏木 冬人
「ふゆと? ふゆひと、かな」
柏木は冬人と言うのか。自分は秋穂。なんだか季節繋がりみたいで、くすぐったい。
「……季節?」
さっき、柏木は何と言っていた?
―― 冬は、いつまで経っても秋を攫めない
冬は冬人。秋は、秋穂……?
「それって」
秋穂もいい大人だ。その意味くらいは、わかった。
「……甘いチョコかー」
久しく食べていない。
秋穂は、立ったままひとつをつまみ、口にした。
口じゅうにふんわりとカカオの香りとミルクのまろやかさが広がる。ほんのりとラムが匂い立った。もっと味わおうと舌で転がすと、スッと溶けてなくなってしまう。味を確かめたくて二つ目を口にしたが、それも夕陽のようにとろりと溶けてしまった。
「大人の甘さだ」
甘いけれど、甘ったるくはない。芳醇だけれど、しつこくはない。
好意は見せるけれど、捉まえには来ない……。
柏木はそうやって、秋穂が甘さを受け入れるのを待っていたのだろうか。
秋穂は、重いガラス戸を開けて来た道を戻った。
「もっと甘くても大丈夫そうです」と伝えるために。