眼鏡
カラフルなテーブル、モダンなデザインのチェア、ずらりと並んだパソコンモニタ。
その真ん中、山積みにされた雑誌に埋もれるように奈菜はいた。
「奈菜ちゃーん、P138の広告データもらった?」
「画像と原稿だけもらってます。レイアウトはこっちで」
「デザインは見積もりに入ってないだろ」
「かわりに、来月も広告出してもらえることになってますから。見逃してくださいよぉ」
手のひらを立てて、ごめんのポーズを取る。
「しょうがねえなあ。今夜奢れよ」
「なんで私が上司に奢るんですか!」
「じゃあ、誰か可愛い子紹介して?」
「鏡を見てから言ってください」
「がはは、厳しいー! じゃあ奈菜ちゃんで」
「はいはい、1000人待ちー、並んどいてください」
34歳・独身という状況は、奈菜の職場では当たり前。最近はだいぶマシになったが、セクハラのようなやり取りも日常茶飯事だ。入社当時は、挨拶と変わらぬ口調で「最近エッチした?」なんて訊かれたこともあったが、2年目では慣れ、3年目以降はうまく立ち回れるようになった。10年以上経ったいまでは、元の自分がどんなだったか思い出せない。
「井出くん、私出掛けてくるから入稿データのチェックしてもらっていい? 先方には言ってあるから」
斜め前のデスクにいた井出に声を掛けると、
「はいはーい」
とユルい返事が返ってきた。
奈菜の方が年下だが、井出は中途入社のためキャリアで言えば奈菜の方が先輩。結果的に、お互い敬語を取っ払うことで合意している。井出はゆったりとした雰囲気ながら淡々と仕事をこなすタイプで、ほかの男とは違って下世話な話もしない。一緒に働きやすい男だった。
「直帰するから、何かあったら連絡して」
「直帰?」
「金曜だしね」
「部長なんかと飲み会じゃなかったっけ」
「ごめん、今日はパス」
「おおっ、奈菜ちゃーん、オトコの家にお泊りコースかあ?」
遠く離れたデスクから、冷やかしが入る。
「女は忙しいんですよ。じゃあ、行ってきまーす!」
適当にあしらって、さっさと会社を出た。
打ち合わせが終わったのは、午後の5時過ぎ。普段深夜まで働いている奈菜にとっては、驚異的に早い時間だ。
「奈菜さん、今日はもう終わりですか? 良かったら、飲みに行きませんか」
打ち合わせ相手が、優雅にカールを描く奈菜の睫毛や艶々の髪、流行りの色で塗られた唇を見つめて熱心に言った。
「うわー、すっごく行きたいけれど残念ながら先約があって」
完璧に施されたネイルが輝く手を合わせると、大げさにため息をつかれる。
「奈菜さん、いっつも人気だなあ」
「おかげさまで!」
元気に挨拶をして、会社を出た。
誘われたり、褒められたりするのは嫌いじゃない。むしろ好きだ。まだまだ私はイケるんだと安心させてくれる。
ファッション関係のクライアントが多いため身なりを気を使っているが、この数年、奈菜は仕事のためではなくて「安心するため」に身綺麗にしていると感じ始めていた。
安心した先に何があるのかは、怖くて知りたくもない。
でも、心のどこかではわかっているのだ……その先を。
奈菜は、駅ビルにある惣菜屋でサラダとハンバーグを、その2件先にある酒屋でワインとつまみを買い、帰路についた。
―― 今夜予定があるだなんて、嘘だ。
会社に近いという条件を最優先に選んだ1DKのマンションに帰ると、真っ先にコンタクトを外し、シャワーを浴び、部屋着に着替える。巻いていた髪はストレートに戻り、パイル地のターバンで束ねられていた。少し冷やしたワインを開け、レンジで温めた惣菜を片手に録画しておいたドラマを見る。
至福のひと時だった。
奈菜のような女を干物と呼ぶ人もいるそうだが、奈菜自身はこの生活に潤いを感じていた。潤いがあるからこそ、着飾ることも楽しめる。誰にも迷惑をかけていない。ちょっとしたガス抜きだ。……たまに、誰にも迷惑をかけることのない自分を寂しく思ったりもするけれど。
30歳くらいまで恋人はいたが、忙しい日々のなかデートをやり繰りするのが面倒になって自然消滅した。誰かいい人がいたらとは思うが、仕事関係の男だと気疲れしそうだし、合コンはすっかりご無沙汰だし、趣味がないから出会いもない。敢えて探すほどの気力もなかった。
“いつか、いい人に巡り合えるかもしれない”
そう思って「いつか」を唱えてはいるが、いざその時が来たら自分は果たして喜べるだろうかと疑問に思う。彼氏がいたら、気の抜けた格好でこうしてボーッとテレビを見る時間が減ってしまう。「週末のお楽しみ」も……。
*
翌日、奈菜はマキシワンピースにパーカーを羽織り、家を出た。髪は二つにゆるく結い、コンタクトの代わりに黒縁眼鏡をかけている。通い慣れたルートで5分ほど歩き、最寄駅の向かいにあるビルのエレベーターで6階を押した。
「いらっしゃいませ! 会員証をお持ちですか?」
「はい。5時間パックでお願いします」
「かしこまりました」
週末のお楽しみは、漫画喫茶だ。
奈菜は、いつしか定位置になっていたリラックスチェアのブースに向かい、ひとつ空席があることに安堵して荷物を下ろした。
漫画喫茶は、一度終電を逃した時に「時間をつぶそう」と同僚に誘われて初めて足を踏み入れて以来ハマってしまい、一人でも訪れるようになった。一人で入ることに最初こそ緊張したが、二度目からは慣れたものだ。ランチ代にちょっとプラスしたほどのお金で、飲み物は飲み放題、漫画も読み放題。こんな天国はない。
なみなみと注いだ大好物のメロンソーダを片手に、仕事上嫌と言うほど目にしているファッション誌のコーナーを素通りし、歴史物の漫画を手に取った。現在、12巻。長いシリーズなので、読み終えるまでにしばらくかかりそうだ。
3冊ほど手に取って、席に戻る。
椅子をリクライニングさせ、イヤホンを耳に差し、ぺらりとページを開く。奈菜は、すぐに自分の世界に没頭した。
3冊を読み終えるまで、あっという間だった。緑色で満たされていたグラスは、すっかり空になっている。
「んんっ……と!」
イヤホンを外し、思いっきり伸びをしたときだった。
「エロい声」
隣の席から、クスッと笑う声が聞こえたのは。
「は?」
―― いま、私に言った?
限界まで椅子を倒して寝そべる男の顔は、手にしている雑誌の陰に隠れて見えなかった。着古したパーカー、色あせたデニムにスニーカー。カジュアルだ。
学生だろうか?と思ったが、デニムのシルエットや色落ち具合からして高いものだということが見て取れる。手首に巻かれている時計も、ファッション通を感じさせるセレクトだ。奈菜の業界で最近人気があり、着けている男が多い。会社だと、井出とか……
「よお」
にんまりと笑って雑誌の端から目を覗かせたのは、まさにその井出だった。
「ぎゃー!!」
「ぎゃー、はないだろ」
「なななっ、なんでここにいるのよ」
「そりゃー、雑誌読みに」
「会社で読めばいいでしょ」
掲載誌や見本誌が腐るほどあるのに。
「会社だとゆっくり読む時間ないし、ここは家から近くてちょうどいいんだよ。……奈菜ちゃんの今週末のお相手は三国志かー」
楽しげな口調。手にしていた本に視線が落ちる。
「い、いいでしょ別に」
「いいですよ別に? すっぴんでも、黒縁眼鏡でも」
そうだ、今日はすっぴんだったのだ。
会社ではめいっぱい着飾った自分を見せてきたのに、こんなところで34歳の素顔を見られてしまうとは。
「しかし、変わるよね。最初見たとき誰だかわからなかったよ。二度目でやっと気づいた」
「に、二度目?」
声が上ずる。今日初めて見かけたわけではないということか。背中を、いやな汗が流れた。
「オレも毎週来てたけど。全然気づかないんだもんな」
ふっと笑った顔が、ほんの一瞬翳った。
「毎週!? いつから知ってたの?」
「さあね。二か月くらい前かな」
「そんなに前から!? ……ねえ、会社のみんなには言わないでよね?」
「どうして?」
井出の口元がいたずらっぽく上がる。
「面倒くさいし、からかわれるの嫌なの。週末にすっぴんでマンガ読んでるなんて知られたら、後輩からも絶対白い目で見られるし」
遊んでいることが勲章のような職場なのだ。やれ服だ酒だ男だと言っていた奈菜が実は暇さえあれば漫画喫茶に入り浸る女だと知れてしまえば、これまで受けていた尊敬のまなざしは一気に軽蔑のそれへと変わるだろう。
「ふーん、まあ、いいけど」
「ほんと?」
「もともと、誰にも言うつもりはなかったよ」
井出の指先が、眼鏡の縁にちょこんと触れた。
「似合ってる」
「眼鏡が?」
「眼鏡だけじゃなくて。……オレは、こっちの奈菜ちゃんの方が好きだね」
ぐっと落とされた声なのに、奈菜の胸が強烈に高鳴った。
「かっ、からかわないでよ」
力のない声を自覚する。
「からかうために毎週通ったりしないよ」
井出が、くすっと笑った。
「内緒にするかわりに、晩飯付き合って」
「う、うん」
―― 内緒にするかわり、はいつまで続くんだろう?
奈菜は「いつか」が訪れた予感で熱くなった頬を誤魔化すように、そっと眼鏡の位置を直した。