向日葵
美保は、夕暮れを背に帰宅の途についていた。
この瞬間、どこを見渡しても彼女ほど黄昏が似合う女性はそういないだろう。
派遣を繰り返したのち、ようやく手にした大手企業の契約社員職。手ごたえを感じ仕事に邁進していたはずが、経営者の方は彼女と少し違う意見だったらしい。業績不振を理由に契約は更新されなかった。一縷の望みを胸に最終日まで必死に働き続けたが、結果は変わらない。
「明日から、どうしよう」
文字通り、美保は途方に暮れていた。
また就活か、とため息が漏れる。苦労を思い返すと身震いした。しかし、やらねばならない。
美保の実家は遠い。それに、実家に帰ったところで兄夫婦が同居している家に美保の居場所はない。独りで生活するためには、自分で頑張るしかないのだ。
こんな生活がいつまで続くんだろう、と心がざわりとした。
アラサーと言われる年齢になって数年、当初は違和感のあったカテゴリーにさえしがみつきたくなる時期に差し掛かっている。恋人もいなければ仕事もない。学生時代から住み続けているワンルームで一人、先を恐れながら生き続けるなんてごめんだ。なのに、何の確信も持てないまま年を取り続けている。
美保は、不安を振り切るように頭を振った。動きに合わせて、送別でもらった花束が揺れた。いつも太陽を向いている向日葵は、美保の好きな花だ。それを知っている職場の先輩が、わざわざ向日葵を指定してブーケを作ってくれた。『松田さんがいなくなるのはとても残念だけど、これからも頑張ってね! 応援しています』
有難さに涙が出た。
「頑張ろう」
呟くと、上を向いた向日葵が揺れ、頷いてくれる。
閉店間際のスーパーで半額シールの貼られた弁当を買った後、ふと思い立って美保は歩みを変えた。
あのドラッグストアに行こう、と思ったのだ。
その店は古くから薬局を営んでおり以前は入りにくい店構えだったのが、一年ほど前にリニューアルをした。処方箋や一般的な薬を取り扱うほか、時代の波にのってか入浴剤や化粧品など女性向けの生活雑貨も充実している。しかし、美保がその店に足しげく通うようになった理由は新たな品揃えではなく、爽やかな笑顔と元気な声を持つ若い男性店員に会うためだった。
「あっ、こんばんは! お疲れさまでっす!」
上島は、美保が期待した通りの明るい笑顔と声で出迎えてくれた。
「こんばんは。今日は暑いですね~」
美保は笑って、ぺこりと会釈をした。上島が美保を「松田さん」と呼ばないのは、単に彼女の名を知らないからだ。一方美保は、店員みんながつけている名札から彼が「上島」であることを知っている。
―― 顔は特に好みじゃないんだけど。と、高鳴る胸に言い訳をする。
上島は背が高くゴツい感じで、一見体育会系に見える。美保はもともと、インドア派だ。体育会系よりも知性溢れる感じの男性がタイプだった。
それが、半年ほど前だろうか。
貧血気味だった美保がサプリを買う際レジを担当していたのが上島で、「これを買うなら、同じ金額でもっといいのがありますよ」と、症状を訊きながら丁寧な説明してくれたのがきっかけで好印象を持った。親切だなというのもあったが、説明が簡潔でとてもわかりやすかったのだ。シンプルに話すという芸当は、頭の良い証拠だと美保は常々思っている。次に会った時には「この間のサプリ、どうでしたか?」と声をかけてくれた。ちゃんと覚えてくれているのが嬉しかった。買い物に寄らなくても、店先で美保を見つけた時には「お帰りなさい! お疲れさまです」と挨拶してくれる。スーツ姿だから、仕事帰りだとわかるのだろう。そんなときは、一瞬で疲れが吹き飛ぶ自分がいた。
でも、と入浴剤を取る手に力がこもる。上島は店員だ。客に愛想良くするのも仕事のうち。事実、元気で明るい上島は御近所の奥様方から大人気で、店先で捉まっては世間話で盛り上がっている様子をよく目にしていた。ただの挨拶を好意だと勘違いしないよう、注意しなければ……。
「いらっしゃいませ! いつもありがとうございます」
「これ、お願いします」
屈託のない笑顔に早くも決意を打ち砕かれそうになりながら、自分を癒すために思い切って選んだ一袋400円もする入浴剤と栄養ドリンクをレジ台に乗せた。
上島は「お疲れさまです。ゆっくり休んでくださいね」と、商品を見て彼女の疲れを察したのか、ねぎらいの言葉をかけてくれた。
「はい。ありがとうございます」
嬉しさと照れくささで頬が熱い。不自然に思われない仕草でそっと頬を押さえると、品物を袋に入れようとしていた彼の手が止まった。
「あ、袋は大丈夫です」
ポケットに入るほどの小さな包みだから、バッグに入るだろう。
上島を制すると、ぼーっとしていた彼がハッとしたように言った。
「あ! そうだ、うっかりしてた。うち、遅ればせながらようやくポイントカードを導入したんですよ。袋なしだとエコポイントが入るので、良かったらぜひ作りませんか? 雨の日やサービスデイにはポイントが二倍になりますし。お名前やご住所とかを紙に書いていただくだけですぐに発行できます」
「うーん、そうですね。じゃあ、お願いします」
ポイントカードを持つことに対してはあまり気が進まなかったが(最近はどの店でもポイントカードを発行しすぎる)、上島に対してNoと言いたくない美保は控えめに頷いた。
「良かった! じゃあ、こちらでご記入いただけますか?」
嬉しそうな笑顔を見せた上島が、『ただいま休止中』と書かれた隣のレジ台の札をよけて入会用紙とペンを差し出した。
「はい」
それは、どこにでもある普通の入会届だった。
名前。年齢。性別。住所。電話番号……
半ば何も考えずに、筆を進めていく。
だが、次の瞬間にパタリと動きが止まった。
【職業】
該当するものに丸をつけてください。
会社員 自営業 アルバイト・パート 主婦 学生 その他( )
「……。」
今日、会社員ではなくなった。
自営業やアルバイターでもなければ、ましてや主婦でも学生でもない。
ペン先を【その他】へ向けるが、カッコ内に入れられるべき名前が思いつかなかった。
「あの、どうしました? どこか、わからないところはありますか?」
優しい声に顔を上げると、「薬剤師 上島」という名札がライトに反射してピカリと光った。
「いえ……」
「全部の項目を埋めなくても大丈夫ですよ」
彼の手が紙に伸びてきた。
「あのっ、すみません」
思わず、紙を手で押さえてしまう。
「えっ?」
「い、家で書いてきます!」
彼より先に紙を掴むと、店の外に走り出た。
「あっ、松田さん!」
慌てたような声が追いかけてくる。
美保は、後ろを振り返ることなく猛ダッシュで家までたどり着いた。
「はっ、はっ、はっ、はっ」
上がった息をそのままにドアを開け、鍵を閉め、玄関になだれ込む。
14年前の入居当時は白かった天井を見上げながら、大の字になって脱力した。
「……はあ」
上島さんに、変な女だと思われちゃっただろうな。
自己嫌悪に、目を瞑る。
彼は「松田さん!」と初めて名前を呼んでくれた。入会届に記入した名前を見ていたのだろう。
握りしめたせいで、くしゃくしゃになってしまった紙を見る。
「職業……」
きっと、この欄も見られるんだろうなと思うと気が重い。
薬剤師の彼に比べて、私は……求職中、だ。
自分よりも数歳若く見える彼に無職だと知られるのは恥ずかしかった。毎度「お疲れさまです」って声を掛けられていたのに、なんだ働いてなかったのかと幻滅されそうでもある。「勤めていたのも嘘じゃないんです」と弁解するのも言い訳がましいし・・・・・・。
「あ」
そして、買うはずだった商品すら忘れてきたことに気がついた。
「……さいってい」
美保は、向日葵の明るさを瞳ににじませつつ、泣いた。
翌日から、久し振りの就職活動が始まった。休むことは考えなかった。貯蓄を少しでも切り崩すと、不安に陥ってしまうと自分でわかっていたからだ。
ドラッグストアの入会届は、いつもバッグに入れて持ち歩いていた。仕事が決まったらすぐに【会社員】に丸をつけて、彼に渡そうと思って。
でも……、美保の思い通りに事が進むとは限らない。
勤め先を探すのは、一見簡単なようでいて難しかった。美保が求める事務職は、専門職でないから競争率が高い。面接に行っても、美保より若い人やキャリアのある人、職場の近くに住む人など、ライバルに負けることばかりだ。
「だから、嫌なのよ」
美保はひとりごちた。
就職活動をするといつも、自分の価値を突きつけられる。
もっと英語が話せていれば
もっと資格を持っていれば
もっと若ければ
もっとキャリアがあれば
もっと積極的であれば……
なり得たかもしれないもう一人の自分を想像しては、そうはならなかった自分にため息が出た。
部屋に戻ると、とっくにしおれた向日葵が老婆のような顔で出迎える。
元気を出しに上島の顔を見に行きたいが、まだ合わせる顔がなかった。気分転換しようと借りてきたDVDを見るが、気分が落ち着かない。
本を読んだり風呂に入ったり、飲めない酒をあおったりと気分を紛らわせていたが、夜の10時を過ぎたころになると諦めて着替えを始めた。
あのドラッグストアに行こうと思ったのだ。もう閉店時間を過ぎているから彼はいないだろう。それでも良かった。ただ、居てもたってもいられなかった。
部屋着にパーカーを羽織りスニーカーを履いて、はねた髪をニット帽に押し込み部屋を出た。
夜の商店街は閑散としていて、時折酔っ払いが大きな声をあげながら通り過ぎるだけだ。
店の照明が落ち、街灯だけに薄く照らされた看板はなんだか物悲しい。
―― やっぱり、いないよね。
心のどこかで上島に会えることを期待していた自分に苛立たしさを感じながら向かいのコンビニに入り、やけ食いとばかりにシュークリームを籠に入れた。ついでに雑誌でも買おうかと道に面したコーナーへ回った美保は、何気なく窓の外を見て思わず驚きの声を上げそうになった。
目の前に、上島がいた。
店の脇の通用口から出てきたのか、シャッターは閉まったままだ。上島はいつもの白い制服姿だった。美保には気づかないのか、中腰に屈むと小刻みに前に進み始めた。
薄暗さもあり、最初は何をしているのかわからなかった。
しかし、リズミカルに動く腕の動きと手に持った黄色い塵取りが、彼女に答えを教えてくれた。
―― 掃除してるんだ。
上島は、誰もいなくなった店先で一人黙々と箒をかけていた。小さな紙くずや、煙草の吸殻や、誰かが落としていったレシートなどを次々と塵取りへ掃き込んでいく。店先がすべて綺麗になったのを見やる顔は、とても満足そうだった。
それで終わりかと思った美保は、次に彼がした行動にまた驚いた。
上島は、自分のテリトリーのみならず、隣の店先まで掃除し始めたのだ。
手際よく、何メートルも先まで行っては戻ってくる。
シャッシャッという、箒の音が聞こえてくるようだった。
向こうとあちら、合わせて6軒分の掃除をすべて終えると、彼はいったん店へ引き返していった。そして、数分後に私服姿で戻ってきて、シャッターの閉まりを確認すると自転車に乗って颯爽と走り去っていった。
美保は、籠に入れていたシュークリームを棚に戻すと、何も買わずにコンビニを出た。
胸が苦しかった。それが、猛烈に襲ってきた恋心なのか、自分への不甲斐なさのせいなのかはわからない。歩きながら思い切り泣いた。
家へ帰ると、しおれた向日葵を花瓶から引き抜き、ゴミ箱へ捨てた。そして机に向かって、買いためてあった履歴書を全部書き上げた。
その夜は、久しぶりに熟睡することができた。
*
二週間後、夜の7時。
少しだけ皺の寄ったタイトスカートから伸びた足が、闊歩している。
艶々に磨かれたハイヒールは、迷わずあのドラッグストアに向かっていた。
「今日はポイント二倍デイですー!」
離れていても聞こえる、ハリのある声。
「こんばんは」
広い背中に声を掛けると、彼が勢いよく振り返った。
「あっ」
「これ、書いてきました。よろしくお願いします! じゃあ!」
驚いたように口を開けている彼の大きな手に入会届を押し込む。
くるりと踵を返して歩き去るつもりだったのが、
「松田さん、待ってください!」
道半ばで追いつかれ、腕を掴まれた。
振り向くと、困ったような上島の顔がある。
「あ、そっか。ポイントカード、受け取ってないですね」
入会届は、そもそもポイントカードを作るためのものなのだ。
美保にとっては記入した用紙を渡すことに意義があったので、カードを発行するというそもそもの理由をすっかりと忘れていた。
紙を渡しただけで満足していた自分の間抜けさに顔が赤くなる。
しかし、何故か美保より顔を赤くした上島は、急に深く頭を下げた。
「すみませんでしたっ!!」
「え……、えっ!?」
「本当に、すみませんでした!」
90度以上下げていると思われる彼の頭。
「ええっ!? ちょ、ちょっと顔を上げてください」
謝られる理由がさっぱりわからない。
彼の肩に手をかけて顔をあげるよう促すと、さらに赤くなった彼が下を向いたまま姿勢だけを起こした。
「勝手に、入会届を見ちゃってすみませんでした。お名前とか、ずっと気になってて。よこしまな気持ちがなかったとは言いませんが、でも、それだけです。お客様の情報を不正に利用しようとか、これっぽっちも思っていませんので!!」
突然の展開に、頭がついていかない。
言葉を発せないでいると、それが無言の訴えだと感じたのか、彼がもう一度頭を下げた。
「すみません。よく知りもしない男に想いを寄せられるなんて、気持ち悪いですよね。気になるようでしたら僕、異動願を出しますので」
「気持ち悪いだなんて、全然そんなこと」
「思ってないですか?」
すがるような目で見つめられて、胸がきゅんとした。
「は、はい」
「良かった。でも、ほんとすみません」
「謝らないでください」
「でも。その、正直申し上げますと、僕が松田さんを素敵だなと思っていたのは事実です。それでも、これまでと変わらぬお付き合いをしていただけますか?」
緊張しているのか声は揺れていたが、力強い瞳は真っ直ぐに美保を射抜いていた。
「……嫌です」
「いや、ですか……」
ぷしゅーと空気の抜けてしまった風船のように、上島の肩が落ちる。
「あの。上島さんが嫌なんじゃなくて、これまでと変わらぬお付き合いが嫌です」
「へっ? あの、それはどういう……?」
彼はきょとんとした顔で首を傾げている。
「変わらぬお付き合いじゃなくて、その。私も、もっと上島さんのことが知りたいです。ダメですか?」
さすがに恥ずかしくなった美保は顔を赤らめながらちらりと上目で窺うと、彼はもう耳の端まで真っ赤になっていた。
「だっ、ダメじゃないです! 嬉しいです!!」
「は、はい。私も、嬉しいです」
「松田さん。これからもよろしくお願いします!」
「上島さん。こちらこそよろしくお願いします」
照れくささを感じながら目を合わせ、微笑みあった。
「えーっと。じゃあ、ポイントカードをお渡ししましょうか」
ぽりぽりと頭をかいた上島が言った。
「はい」
二人でぎこちなく歩きながら、ドラッグストアに戻る。
ほかの店員さんたちが、みなニヤニヤしながら出迎えてくれた。どうやら、彼の気持ちは周知の事実だったらしい。
「用紙、ご確認させていただきますね」
手元に握られていた紙を広げた彼が言った。
「はい」
名前、年齢、と項目をチェックしていった彼の手がふと止まった。
そして顔を上げると、にっこりと微笑んだ。
【名前】松田美保 【フリガナ】マツダミホ
【年齢】34歳
【性別】女
【職業】その他(ただいま無職、就活中。頑張ります!)
「お待たせいたしました。こちらがポイントカードです」
手続きを終え、渡されたのは真新しいポイントカードと一枚のメモ。
「またお越しくださいませ」
レジに隠れて一瞬だけ、強く手を握られる。
「はっ、はい!」
「次にお待ちの方、どうぞ!」
いつの間にか、レジは長蛇の列になっていた。
そそくさとその場を離れたが家に帰るまで待ちきれなくて、渡されたメモを見る。
そこには、上島の携帯番号とメールアドレス、そして一言が記されていた。
『これからは、あなたのそばで応援させてください』
美保は自然と微笑み、通りがかった花屋で一輪の向日葵を買った。