枯れ葉
きりりとした氷のような風が吹きすさぶ帰り道、坂道のアスファルトを見つめながら歩いていた実津子は、レッグウォーマーにヒールを合わせた足元からふと顔を上げ、街路樹を見つめた。
呼ばれたような、気がしたから。
街路樹は桜のようだったが、花はおろか葉すら落ちて枝だけの姿では、植物に詳しくない実津子には判断のしようがない。
実津子が惹きつけられたのは木そのものではなく、魔女の爪先ほどの細い枝にはりついていた枯れ葉だった。黄色くなって、かさかさと風に揺れて、木から離れていまにも飛んでいってしまいそうなのを、細い腕で必死にしがみついているように見える。
あの葉は、わたしだ。
実津子はぱたぱたと揺られている枯れ葉を見つめた。
再び地面に目を落とすと、35になっても26の後輩と同じ服を着ている自分がいる。バッグから飛び出ているキャラクターのストラップ。3年前より濃くなったメイク。POPなネイルアート。
若さにしがみついてる?
努力しない女は老けるのが早い、と言ったのはシゲユキだった。「服飾の仕事をしてるくせに『最近の若い子は~』なんて言い出したら終わりだよな」と。彼のおかげで努力するようになった実津子は「若いですね」と言われることが多くなった。彼もそんな実津子を誇らしげに見ていた……はずなのに。
シゲユキに「ほかに好きなヤツができた」とフラれて半年。未だ、若作りがやめられない自分がいる。
若いですね、という言葉は麻薬だと思う。もっと欲しくて、やめられない。
シゲユキを思い出してしまうのは、未練ではない。恋をやめると老けるから。ただ、それだけ。
実津子は再び枯れ葉を見上げた。
強い風が吹き、かさかさと鳴る音がやけに哀しみを誘う。実津子は、寒さではない震えに体をさすった。
……怖い。
落ちないで、と枯れ葉を見つめる。
落ちたくない。離れたくない。
シゲユキを忘れてしまったら、私になにが残る? 彼氏も、好きな男すらいない、仕事命の乾いた女。一度現実を認めてしまったらきっと、本当に老けてしまう。
ぴゅうぴゅうと吹き抜ける風に体温を奪われながらも枯れ葉を応援していた実津子だったが、その瞬間は突然やってきた。
枯れ葉は音もなく枝から旅立った。翻弄されるように、ひらひらと。
実津子は行方を目で追いながら必死に枯れ葉を追いかけた。足が、ガードレールに当たる。車のクラクションが彼女を責める。
息荒く駆けて道のカーブにさしかかると、風がゆるまったのか枯れ葉が急に舞い降りてきた。
懸命に、手を伸ばす。もうすぐ届きそう。あと、1メートル!
「きゃっ!」
「うわっ!」
掴めた、と思った瞬間。鼻がつぶれるかと思うくらいの衝撃に、顔をゆがめた。
「びっくりした。……って、実津子さん?」
名前を呼ばれて驚くと、顔見知りの男性が実津子を見下ろしていた。よく会社を訪ねてくるバイヤーの羽田崇央だ。後輩のユキがよく騒いでいる。「羽田さんてカッコいいですよね」「彼が目をつけた服は必ず売れるって評判で」「カノジョは、モデルさんらしいですよ」と。たしかに崇央は実津子から見てもいい男だし、常に謙虚な姿勢に好感さえ抱いている。けれど、モデルの彼女がいる年下男との可能性を信じるほど夢見がちな年齢はとうに過ぎた。
どうせぶつかるなら彼女持ちのいい男よりも平凡でいいからフリーの男が良かったと思うが、人生そんなにうまくは運ばない。特に、実津子の人生は。
「羽田くん! こんばんは、お疲れさまです。ごめんね、怪我しなかった?」
年上らしい口調で彼の様子を窺う。
「ええ、ちっとも。実津子さんこそ、大丈夫ですか?」
「うん、平気」
「慌てて、どちらへ? 会社へ忘れ物ですか?」
「えーっと……そうじゃなくて」
言い淀んだ実津子は、崇央を見て息をのんだ。
社のある方向へ振り向いていた彼の頭に、あの枯れ葉が自慢げに揺れていたからだ。
「羽田くん、ちょっと、そのままで」
「えっ?」
振り返ろうとした崇央を手で制して、枯れ葉を摘んだ。壊れないように、そっと。
「これ、ついてた」
指先でくるくると枯れ葉を回すと、崇央が照れくさそうに頭をかいた。
「そんなのくっつけて歩いてたなんて、恥ずかしいな。ありがとうございます」
「いいえ」
「実津子さんは、いま帰りですか?」
崇央が探るような瞳で尋ねた。
答えるのに躊躇する質問だ。……今日は、バレンタインデーだから。
「……うん」
実津子は、枯れ葉を握りながら俯いた。
「そうですか」
崇央は、ほっと息をついた。
「もしお急ぎでなければ、お茶でも飲んでいきませんか? あ、おなかが空いてるのならご飯でもいいし」
「えっ?」
少しうわずった崇央の声に顔を上げると、そわそわと泳がせていた彼の視線が枯れ葉に止まり、答えを待つように沈黙した。
どうせ用事などない実津子は構わなかったが、彼の方こそ大丈夫なのだろうか。
困ったように見つめると、崇央が枯れ葉から実津子へと視線を移した。
「さっき実津子さんのところへ寄ったら、もう帰ったって言われて。義理でもチョコをもらえるの、楽しみにしてたのに」
少しだけ拗ねたような崇央に、実津子はぷっと吹き出した。
「笑うなんてひどいな。オレ、マジで言ったんですよ」
「だって。私を頼らなくても、羽田くんだったらたくさんもらえるでしょ」
その証拠に、彼の手には大きめの紙袋が握られている。きっと、方々から渡されたチョコレートだろう。
「数じゃないんです。大事なのは」
意外にも真顔で自分を見つめた崇央。
うろたえた実津子は、枯れ葉をパッと手放してしまった。
「寒いし、どっかへ入りましょう。メシでいいですか?」
「……うん」
背中に添えられた崇央の手が、温かい。
「喜んでいいのか悪いのか、わかんないな」
信号待ちの時、崇央が呟いた。
「え?」
「今日誰かに会いに行ってないのは嬉しいんですけど、オレのこと眼中になかったのが悔しいっていうか」
ため息をつく彼。遠回しな直球に、胸がときめく。
「彼女がいるって聞いてたし」
率直に言った。
「いないって言ったら?」
崇央の目が、実津子を捉えた。
信号が、青になる。
「……うん」
頷くと、崇央が笑った。
「なんすか、『うん』って」
「だから、うん、なの」
笑い返すと、崇央が実津子の手を包み込んだ。
枯れ葉を掴んでいた、その手を。