夢のレストランと疲れた男
「それじゃあ、はい」
「うっ……」
俺が手を叩くと、鎧たちは一瞬顔をしかめ、今度こそ完全に正気を取り戻す。意図的に空腹を和らげたのだ。
「落ち着いてきたようで何より。じゃあ質問するぞ? まず、さっき姫殿下護衛隊と言ったな? それを踏まえた上で答えてほしいんだが、ツユちゃんは何者なんだ?」
「だ、誰が――」
「言い忘れたが、俺の意思一つでさっきの状態に戻すこともできるんだぜ」
「……」
俺の忠告になすすべなく黙る鎧達。よっぽどさっきの状態がキツかったのだろう。
「もう一度聞くが、ツユちゃんは何者なんだ?」
「……そ、それは」
「……はあ。あまりこんなことはしたくないけど」
俺は鎧達に向けてもう一度空腹にする魔法をかけようとしたとき、
「お、お待ちになってください!」
ツユちゃんが俺と鎧達の間に割り込んでくる。どうやら、ハンバーグを食べてからしばらくしたので正気に戻ったらしい。
「あなた……邪魔ね」
「ぅひ……」
「み、ミウ、まずは話を聞こう」
ここで急にミウが割り込んでくる。どうもコイツは女性にキツイ。さっきから一人で淡々と晩飯を食べてたから静かだったのに……。
「わ、私は仰る通り、マグン帝国の第一王女、ツユキと申します」
「やっぱり、お姫様だったのか……」
「ていうことは、ヨウも気がついていたんだ」
「ああ。こんなに可愛い娘が一般人なわけないからな」
「ヨウ……」
チチシロはなぜか、とても残念そうな目をした。
「……皆さんがご存知の通り、マグン帝国は魔族に占領されてしまいました。しかし、滅んだわけではありません。私がこうして生き延びているのですから」
「王族の亡命は禁忌のはずでは?」
「き、貴様! 姫様の前でよくも――」
「いいのです!」
語気荒く、ツユちゃんが鎧を制する。自分達の立場を理解してしまっているのかもしれない。
「……そうですね。私もそう考えておりました。しかし、魔族が進軍を開始した当日、父である王が私に亡命を命じたのです。私は禁忌を犯すことに反対し、民意を募りましたが、反対意見が上がることはありませんでした。どうやら、国民の方々は私がマグンの希望と考えているようなのです」
「王女がいれば、帝国は滅びない。再び力を取り戻す。必ずだ。」
騎士長らしきおっさんの発言に、他の騎士たちも頷く。恐らくだが、国民も同意見なのだろう。ツユちゃんの言動や話から察するに、ツユキ姫は国民を想い、国民からも想われるいいお姫様だったということはひしひしと伝わってくる。
「ん? それがなんで市場に出回る展開になったんだ?」
「はい。本来なら同盟国であるギチトに亡命する予定だったのですが、こちらが劣勢と見るや、ギチトはマグンとの同盟を撤回。難民を保護する義務を放棄したギチトは難民を使用人、実質捕虜として捕らえました。これがつい先日の話です」
「それは……少しおかしいな。普通なら、ギチトはマグンを多少でも支援して、壁として利用すると思うけど……」
「タイミングが悪かったのです。魔族が進軍した頃、ギチトに勇者連合ができたのです」
「勇者連合? なんで勇者が関係あるんだ?」
「勇者連合は、単体でも一騎当千の強さを誇る勇者の集まりです。これは一国の軍隊に及ぶでしょう。これほどの戦力が手に入り、マグンに壁として使う価値がなくなったと考えられます」
確かに、相手が悪すぎたとはいえオレインの力は凄まじかった。あれが何十人といたとしたら、街の一つや二つはあっという間に壊滅させられるだろう。
改めて勇者を羨ましいと感じていると、ツユちゃんは悔しそうに再び話し出す。
「それに……マグン、ギチト、キラバイの三国は魔王誕生以前よりずっと仲が悪いのです。魔王という共通の敵がいたからこそ、ギリギリところで同盟を結びはしましたが……利用価値がなくなれば同盟など脆いものです」
酷く悲しそうな表情になるツユちゃん。でも、俺にはよくわからない話だ。だって、そんなに難しい話なのか? 村から出たことのない俺にとってはよくわからない話だった。近隣の人と仲良くしないメリットがわからない。国では同じではないのだろうか?
「一応、そんな場合にも備え、同盟破棄前にギチトへ潜入させていた城の者が商人を抱き込み、私にだけありえない金額をつけておくよう依頼しておりました。それを、オークションに出て、城の者が私を落札するという手はずだったのですが……」
「おま――あなた方があの法外の価格、しかも職業が『主婦』であった姫様を落札したので、全てが狂ってしまったのだ」
「じゃあ、あの時に同時に手を挙げればよかったんじゃないか? ていうか、そもそもなんでオークションにでないといけないんだ?」
「あの時、じい――この騎士たちは別件で他のところにいたのです。オークションにでなければいけない理由は、入出国の際、ゲートを通らなくてはいけないからです。そこを通る際に、身分確認があります。一度誰かの所有物にならなければ私のような立場の人々は捕虜となってしまいますから」
「あー、そうだったっけ」
あなたも知ってるでしょう? という感じの言葉に、俺は曖昧に返すことしかできない。実は、ウルーナの転尾でワープしてきたんです。とはいえない。ウルーナの情報はなるべく漏らさないようにとあっちで散々言われたし。
「そこで、なのですが……私を解放してはいただけないでしょうか? 私を購入した代金も、今すぐにとはいきませんが必ず全額返金いたします。どうか、お願いいたします」
深々と、頭を下げるツユちゃん。その姿からは強い意志と無理を承知しているという残念な気持ちが感じられた。
「我々からも、お願いいたす。どうか、マグンの民のため、ツユキ様のためにもどうか……!」
ついには鎧達も頭を下げ始める。
さて、どうしよう。正直、話を聞く限りは全然構わないんだけど、問題が一つ。ここでツユちゃんを手放すと、おそらく一生会えない。恐ろしいぐらい個人的問題だが、俺はもっとツユちゃんと仲良くなりたい。
「……それで、解放された後はどうする予定なんだ? 話から察するに、一度ギチトから出るみたいだが」
「……はい。一度、マタイサに行き、そこでどうにか奮起し、マグンの再建をと考えています」
「その間、捕らわれたマグンの民はどうするんだ?」
「それは……」
ツユちゃんは言い淀む。さっきからずっと浮かない表情をしている理由はおそらくこれだ。ツユちゃんは国民思いのお姫様だ。それ故に、最終的に国民のためとはいえ、民を置いて亡命することに抵抗があるのだろう。
俺は一度もツユちゃんの笑顔を見ていない。素直に言えば、笑顔を見たいから。そんな単純な理由だった。
「ツユちゃんは解放しない」
「ッ!」
「き、キサ――」
「でも、ツユちゃんを救い、民を連れ戻し、マグンを再建する。これでどうだ?」
「な、そんなことができるわけないだろう!」
「できる」
騎士の反発にも俺は自信をもって答える。その様子を見てか、騎士たちもたじろぐ。
「なんでそこまで――」
驚きと悲しみが混ざったような細々とした声でツユちゃんは問いかけてくる。それにも、俺は自信満々でこう答えた。
「そんなの決まってる。俺は勇者だから。姫を助けるのは勇者の仕事だ」
俺は、ツユちゃんの笑顔を見るために一国を救うことにした。
◇◆◇
「はぁ……」
私は思わずため息をついてしまう。王家直轄の勇者連合対策課の管理者を任命されたはいいが、連日の激務に疲れがいつまでも付きまとってくる。
この国は今、激流の最中にある。突如出来た勇者連合。これと元々いた軍隊の仲を取り持ち、1+1をちゃんと2にするのは本当に骨が折れた……勇者連合の面々も王国軍も、変わり者だったりプライドが高かったりで会話すらままならないこともしばしば。そうでなくとも魔族の侵攻でいろいろ大変なのに、取り持ったあともアフターフォローしなければならない。正直にいってオーバーワークすぎる。
「このままじゃ、いつ倒れてもおかしくないよなあ」
こういう日は早く寝るに限る。確か、家にはパンとミルクがあったはず……それでエネルギー補給して、寝る。もう何日もこのルーティンだ。楽しみは寝る前と起きた後のダラダラだけ、まったく、何のために生きてるのもわかりやしない。
「お兄さん」
「ん?」
いつのまにか目の前に一人の若者が立っていた。フードを目深に被っているためか、顔を覗き見ることはできない。
いかんな、こんな客引きに引っかかるとは……相当疲れてる。
「すまないが、今日は凄く疲れてる――」
ゴギュルル……!
な、なんだ? 急に腹が、減ってきた……!
「ササっと食べれるご飯、ありますよ?」
急激に騒ぎ出す腹の虫。どうも家まで持ちそうにない。このままだと暴動を起こしそうな勢いだ。
「……店は近いのか?」
「ええ。そこです」
指先が示すのは見た覚えのない店。看板には『夢のレストラン』とある。随分と大層な名前に反し、みたところ誰も店内にはおらず、少し入りづらいが……
ゴギュルル……!
ダメだ! とても家まで持ちそうにない。
この際、仕方ないか。と私は腹を決める。
「じゃあ、お願いしよう」
「ありがとうございます。それでは、こちらへどうぞ」
ニコッと微笑む若者。何故か不自然なほどに目元は見えない。怪しさは満点だが、空腹によって判断力が失われている私はすごすごと店内に案内された。
「あ、いらっしゃいませ」
外から見た怪しさは何処へやら、一歩店内に踏み込むと、なかなかどうして綺麗に整った店だ。豪華絢爛という感じではないが、ところどころに質の高い調度品が使用されており、非常に質の良い、落ち着いた内装といえる。
それに、何と言っても――
「美しい……」
店員の質の、驚くべき質の高さよ。
私を店内に案内した店員とは別の、もともと店内にいた店員。その子は顔の造形の良さだけでなく、動作の上品さ。纏う雰囲気。声の強弱。どれをとっても上品である。
どこかの貴族堕ちの従業員なのだろうか?
「では、お客様。本日のレシピはいかがなさいますか?」
「ええと、それ――うわっ!」
私は情けなくも声を上げてしまう。
声をかけてきたこの女性……なのか? とにかくこの人物、服装からして先ほど路上で客引きをしていた若者だと思われるのだが、フードをとったその顔はまるで、精巧で美しい彫刻像のような神秘的な美しさだったのだ。
それが振り返りざまにすぐ近くにあったのだから、驚かざるを得ないだろう。
「お客様?」
「あ、ああ。メニューは?」
「当店はお客様の気分に沿った料理を提供します。ですので、今の気分をお聞かせください」
なんなんだそれは……
もう、驚きの連続で軽くパニックだ。普段ならムッとする状況だろうが、腹は限界だわ店員はなんか凄いわで素直な気持ちをそのまま言ってしまった。
「えと……疲れてます」
「はい。わかりました。それでは少々お待ちください」
ぺこりとお辞儀してフードの女性は奥へと行ってしまう。
……しまったなあ。私はただ単に腹を満たして一刻も早く寝たいだけだったのに。それに、疲れた時に食べる料理ってなんなんだ。こちらとしては、下手に魚とか出されるよりミルクに浸したパンとかだったらいいなあ。
そんなことを考えていると奥の方から何やら肉を焼くような音が聞こえてくる。がーん。何やら無駄に頑張ってくれちゃってるらしい。でも、今さら帰るのも腹が空きすぎて無理だし……
「なんでもいいから早く出してくんないかなあ」
「……すみません。こちら、飲み物です」
愚痴っていると、先ほどの上品な店員が申し訳なさそうに飲み物を持ってくる。タイミング悪し。
「……? あの、これは?」
「ああえと、お酢が入った果実のジュースだそうです。すっきりしていて、疲れている時にピッタリなんですよ! 私も大好きなんです! あ……すみません、取り乱しました。それでは、ごゆっくり」
とびっきりの笑顔を振舞い、店員はそそくさと元の位置に戻っていった。どうやらあそこが定位置らしい。それにしても、お酢入りの飲み物か……まあ、あそこまでオススメされて一口も飲まないってのもなあ。なんだか見られてる気配を感じるし。
改まって、ワイングラスに注がれたくすんだブドウ色の液体と向き合う。未だかつて、こんな色した飲み物とは出会った事が無い。水とお酢で薄めたワインなのではないだろうかと予想される。……まずそう。
そんなことを思いながらも、どうしても店員の視線が気になるので試しに一口だけ口をつけてみた。
「お?」
予想に反した結構しっかりした酸味。でも、それに付随するかのような甘みもある。口からいなくなった後にはなんとも爽やかな風味が口に残る。あれ、これ――
「……美味い」
「ですよね!」
ニコニコといつの間にか近くに来ていた店員が笑顔で同意し、うんうんと頷いてやはり定位置に戻る。その様子には、最初に感じた上品さは薄れ、年相応の可愛さがあった。やはり、どこかの貴族で窮屈な生活をしていたのではないかと想像できる。
そんな事より、これは大発見だ。まさか、世の中にこんなうまい飲み物があったとは……。気のせいか、先ほどまではあれだけくすんでいたと感じた色も、今では透き通るようなルビー色に見える。なんとも現金な奴だな、私も。
「お待たせいたしました。こちら、本日のディッシュになります」
「うお……はい」
いまさら気が付いたが、このフードの店員、美しさのわりに影が薄い。驚かされるのはそのためだ。
影の薄い美女という謎の店員がテーブルに並べたのはパンでもミルクでもなく、見たことのない奇妙なものだった。
「あの、これは?」
「スプーンで召し上がってください。それでは失礼いたします」
質問にはニヤッとするだけで答えず、やはり厨房らしき奥へと引き返していく。
仕方ないので持ってこられた一皿をまじまじと見つめる。でも、腹は限界だし、いつまでも見ているわけにはいかない。とりあえず、スプーンを手に取り、茶色い塊に差し込む。
ん? これは……肉か? この茶色は粗く挽かれた肉だな。で、その下には緑色の細切り葉野菜が敷かれているな。で、その中心には黄いろの玉が鎮座している。
「よくわからないが、なぜか妙にそそる香りを放ってくるなあ……」
訝しむようにグチグチ言いながらもスプーンを最奥まで突き刺し、それを掬う。
これは……米だな。わざわざ炊いたのか? めんどくさいだろうに……
内心でそう呟き、恐る恐る口へと運ぶ。
「んぐッ!」
その瞬間、口の中に広がるガツンとした塩味。それにこの肉、肉料理全般に必ずついて回ると思っていたパサつきが全くない。それどころか、弾むような弾力……これは肉なのか? それに、濃いめの味付けであるのに、どんどん食べ続ける事が出来る。これは――そうか、葉野菜! これがシャキシャキと食感を豊かにしてくれているのはもちろん、肉から出た余計な油分をサッパリと中和してくれている! それに、肉だけじゃない、この茶色の中にはタレに染まってはいるが、透明の何かと黄色っぽい何かが入っている! なんだ? この二つがちょうどよい甘さと、なぞの旨風味を出しているんだが……
「こんにちは。どうでしたか? こちら料理は」
この二つが何なのかを必死に考えていると、白い衣装をまとう一人の青年が話しかけてくる。
「申し遅れました。俺――おほん! 私は当店の店主兼シェフになります」
シェフ……ってことは料理長か! ちょうどいい!
「あ、あの! この透明のものと黄色の刻んであるのはいったい?」
「ん? ああ、それは玉ねぎとニンニクですね。玉ねぎは血の流れを改善し、身体の健康を保つ作用があります。また、ニンニクには疲労を回復させる効果があります」
「つまり、これを食べると疲れも取れると?」
「ええ。そうです」
なんということだ……それが本当なら、なんだ、いいこと尽くしって事じゃないか!
「喜んでもらえたようでよかったです。ああ後、その卵黄――黄色の丸いやつ、それをつぶして混ぜてみてください。味が変わって美味しくなりますよ」
「あの、これってなんていう料理なんですか?」
「そうですね……速攻スタミナ丼、ってとこですかね?」
私の問いに答えた青年は「それではごゆっくり」と付け加えて奥へと消える。速攻スタミナ丼……随分と異質な名前だな。気に入った。と、そうだそうだ。黄色の玉をつぶすとさらにうまくなるとか言ってたよな。これ以上のうまさが本当に……?
私は妙にドキドキしながらも言われたとおりにする。スプーンで軽く押すと、トロリと中身があふれ出す。それを軽く全体に混ぜ、ゴクリと唾をのみ、意を決して口へと運ぶ。
その瞬間、また違うベクトルでのうまさが口の中にじんわりと広がる。
なんだこれは……さっきまでのが口に入れた瞬間にガツンとうまさが駆け抜ける速攻ならば、これは、まろやかなうまさが口の中に留まり続ける、遅滞戦闘と言えるだろう。この幸せの塊を口の中に留めていたいという欲求と、早く次に行きたいという矛盾した欲求が堂々巡りし、数瞬の葛藤の後、飲み込んでしまう。
「ああー! 細胞が若返る!」
そして、ここに来てこのお酢のジュースが明確な意味を持ち始めてくる。合間合間にこのジュースを挟む事で口の中を爽やかにリセットすることができるのだ。これにより、いつでも新鮮にあの美味しさを味わう事が可能だ。あの青年、簡単に疲れたと伝えただけなのに、私の要求にここまで正確に沿った料理……神業だ。
幸福な時間はあっという間に過ぎ去り、私は出て来た一皿をペロッと平らげてしまう。正直そこそこ腹にたまったが、気分的にはまだまだ食べたい気分だ。
「すみません。追加オーダーしたいのですが」
「お客様。申し訳ありませんが、本日はここまでになさることをオススメします」
呼びかけに応じたのは先ほどの男の料理長。
「な、なんでですか? 私はもっと食べたいんですけど……」
「食べすぎは胃に負担をかけ、せっかくの疲労回復効果も薄れてしまいます。また明日、お越しください」
俺は腹がはちきれるほど食べてやる気満々だったが、店主にそこまで言われては食い下がるのは失礼か。うーん、残念!
「……わかりました。お会計をお願いします」
「はい。一万円になります」
「い、一万ですか?」
あまりの金額に思わず大きな声を出してしまう。
大体、この町の平均年収は100万ほどだ。つまり、単純計算でこのご飯は一年に100回しか食べれないという事になる。ここからさらに普段の生活費も引かれるので実際はもっと少ないだろう。しかも、普段の一食当たりの値段などたかだか100円とかそこらだ。ほとんどがパンか肉だし。およそ、ひと月分の食費が夕食一回に消えたのだ。頭がクレイジーとしか思えない値段設定と言える。
「……も、もってないです」
普通ならば、ブチ切れたり出るところに出るべき案件だが、私は素直に謝っていた。万が一、ここにもう入れなくなってしまったらと思うと怖くてそんなこと言えなかったのだ。
「そうですか。それでは次回、まとめてお支払いという形で」
「え、いいんですか?」
「はい。なので、次回も必ず来てくださいね」
ニコニコとこともなげに言う青年。このご時世に契約なしのつけとは……相当に自信があるのだな。でも、私はまたここに来てしまうだろう。ここでしか味わえないもののために。
「ありがとうございました。またのご来店をお待ちしております」
定員二人と店主兼料理長の三人に総出で見送ってもらい、私は帰路へとついた。その夜、私は久しぶりに深い眠りについた。遠い昔、自分の祖母に子供の頃に作ってもらったほんのり甘いクッキーを食べる夢を見た。そうだ、あの日の夜も私はぐっすり眠れたんだ……。
そんなことを思い出していたら目が覚めた。気持ちのいい朝だった。これから仕事に行くっていう日に必ず発生していた布団から出たくない病も発症しない。気のせいだろうが、身体が軽くなったような気がした。昨日の店は夢だったのだろうか……そんな風に思いながら朝の準備を整え、いつも通りに軽い朝食を食べる。
「黒パンとミルク……減ってない」
という事は、やはりあれは現実だったのだ。夢のような店だった。固いパンを食いちぎり、そのままミルクを口に含んで咀嚼し飲み込む。いつもなら味なんて気にならないが、なんとなく味気ない気がした。つい先日行ったばかりだというのに、私はもう、再びあの店に行きたいと考えていた。
「おはようございます」
いつもよりもゆったりとしたペースで役所へ向かい、同僚たちに挨拶する。
「おはようございます。なんか今日は早いですね」
「嫌味か?」
軽くジャブを繰り出してくる同僚に、私も冗談交じりに返答する。すると、面食らったような表情をする同僚。何か変なことを言っただろうか?
「なんだか、今日は機嫌いいですね。なにかありました?」
「ん……いや、まあね」
「なになに、彼女でもできました?」
「私にか? ないない。それに、新しい女を見つける暇なんてあると思ってるのか?」
「言われてみれば……じゃあいったいどうしたんです?」
私の機嫌がいいことがよっぽど珍しいのか、いつになくグイグイと質問してくる同僚。まあ、隠すもんでもないか……
「実は、不思議な料理屋を見つけてな?」
少し時系列が分かりにくかったかもしれませんね。申し訳ない。




