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「バカ」

 ガチャッ


 (…………あれ? あたし、鍵閉め忘れてた……?)

 仕事から帰ってくると、鍵を開けたはずのドアに鍵がかかってしまった。

 確かに朝、鍵はきちんと閉めたはずだ。だけど、しっかり確認したわけじゃないから、本当に鍵をかけたかと言われると、自信がない。

 (まさか……泥棒とかじゃ、ないよね……あたしがちょっとミスしただけだよねぇ?)

 かかってしまった鍵をもう一度開けてドアを開ける。

 家の中から物音がしないことを確認してから、恐る恐る中に入った。


 ( ――― これって……)


 すぐ、玄関に見覚えのあるスニーカーが見えた。

 少し薄汚れた、それでいて履きやすそうな、男物の靴。

 それが、誰のものかわかった途端、あたしは靴を脱ぎ捨てて足早にリビングの方へと向かう。


 「おかえり」


 あたしの足音と、ドアが開く音で気が付いたのだろう。

 そこには、リビングのソファーに腰掛けている音がいた。


 「……ただいま」

 突然すぎて、驚いたまま。それでもなんとか冷静になろうと、あたしは声をかけてきた相手と視線を合わせた。

 「びっくりした。……どうやって入ったの?」

 (いいお姉さん、いいお姉さん……ほら、昨日楽くんが来たときと同じようにすればいいだけじゃない)

 玄関で、靴を整える余裕すらなかった自分が何を言ってるの。

 心のどこかで、慌ててる自分を見てるもうひとりの自分がいたけど、無視して笑顔を作る。

 「何か忘れ物でもあった?」

 昨日楽くんに、ほとんど返したと思ってたんだけど。

 (良かった。上手く言えた)

 笑顔を浮かべてそう言えたことにホッとする。と、音は「コレ」と銀色の小さな鍵を手のひらに乗せてあたしの方に差し出した。


 (一回も使ったことなかったくせに)

 それは、もうずっと前にあたしが渡した、部屋の合鍵だった。


 (あげたことすら忘れてたよ、あたし)

 そんなもの、いちいち返しに来なくてもいいのに。

 あたしの知らないところで、処分してくれていいのに。

 「そっか、それ預けたままだったっけ?」

 (わざわざ返しに来てくれたんだなぁ)

 そう思って音の手から鍵を受け取ろうとする。


 「? ……音?」


 手を伸ばして、鍵を取って、持ち上げようとしたら、手首を掴まれた。

 まるで、最初からそれを狙っていたかのように、ギュッと。


 「それ、俺持ってちゃ駄目かな?」

 「え?」

 「その鍵。持ってる資格がないことはわかってるんだけど、持ってたら駄目かな?」

 (何、言ってるの?)

 「……あたしは別にいいけど」

 そう言って、持ち上げたようとした鍵から手を放す。手首は、音に握られたままだ。

 (いいんだけど……でもね)

 あたしは一瞬息を吸って、微笑みを作った。

 「彼女はいい気分しないよ?」

 いくら、お姉さんのような人だと音が言っても、嫉妬くらいするものだ。

 しかも、その部屋の住人が元彼女だなんて知れたら、嫉妬を通り越して、不安になるに決まってる。


 「…………それなら、別れたから、気にしなくていい」

 「それだったらいいけど。 ――――― ……え?」


 あまりに、自然な流れだったから、聞き違えたのかと思う。

 (今、何て言ったの?)

 「別れた?」

 (そう、言ったよね?)

 段々と、頭の回転がスローになって、あたしはペタンとソファーの脇に座り込んだ。

 すると、上の方から、きっぱりとした声がした。


 「うん。俺、やっぱり杜和子さんのことしか好きになれないみたいだから」


 その言葉を聞いた途端。

 あたしの中で、無理に押し止めていたものが一気に流れ出した。

 思いっきり振ってしまった炭酸飲料の缶を、一旦は泡が収まるまで、と置いたのに、音が開けるから。

 収まりきれなかった泡が、グワッと溢れ出して。


 「バカ」


 涙声で言ってやる。

 顔を見なくても、音が息を呑むのがわかった。

 「今頃なんなの、バカじゃないの?!」

 音に向かって、怒鳴り声を上げるなんて初めてじゃないだろうか。

 そのまま顔を上げると、驚いたような、悔しそうな、泣きそうな音の顔が見えた。

 いつものあたしだったら、ここでそれに気が付いたはずだ。

 けれど、次々と訪れる混乱状態に、頭がどうにかなってしまったみたいに働かなくて、

あたしは音に流れてきた想いをぶつけることしか出来なくて。

 「今更、何なのよ? あたしの、ここ数週間の作り笑いと気疲れと涙はどうしてくれるのよ!」

 あたしは勢いのままに、ドンドンと音の胸を叩く。

 「ごめん」

 「忘れようとしても、なかなか忘れられなくて。それでも、会ったらお姉さんらしくしなきゃっていろいろ考えて! この間だって、今だって、精一杯必死で頑張って笑ったのに……」

 「…………ごめん」

 そう言いながら、抱え込むように背中に回ってきた手に促されて、あたしは音の胸に自分の額を当てる。

 出てくるのは文句ばかり。だけど、

 (これじゃ、限がないじゃない)

 だからあたしは、一言だけ確認するために呟いた。


 「あたし、まだ音のこと好きでいいの?」

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