そんなの知ってたってば!
『どうしても話したいことがある。明日の朝、音楽室で待ってる』
お風呂から上がってくると、携帯に一通のメールが入っていた。
(……やっぱりダメだったか)
話の内容が書かれていなくても、なんとなくわかってしまう。だって、何年も友達やってきたんだもの。
話があるなんて、遠回しな言い方しなくてもいいのに。
(……初めから、わかっていたことなのに)
いつか来るんじゃないかと思っていたことが現実となったことに、胸が少しだけ痛んだ。
わかっていた、といっても、音に他に好きな人が居ると気が付いたのは告白した次の瞬間だった。
「なんだかんだいってもさ、好きなんだよね。音のこと」
いつものようにくだらない言い争いをして、仲直りをして。
ゆるんだ気持ちが、うっかり、隠していた想いの蓋までゆるめてしまって。ポンッと口から飛び出した言葉。
「は?」
音の驚いた顔と、戸惑った顔に、しまったと思ったけど、覆水盆に返らず。
……今だから言えることだけど、自信が無かったわけじゃないんだ。
あたしと音は、中学から高校2年の今までずっとクラスが同じという、いわゆる腐れ縁ってやつで、音のことならとりあえず女友達の中じゃ一番! ってくらい知ってると思っていたから。
(音から、好きな人の話とか聞いたことなかったし……)
そう思っていたから、あたしはドキドキしながらも、相手のことを少しだけ観察する余裕があった。
……だから、気が付いてしまったんだ。
音が一瞬、戸惑ったことに。
他の誰かのことを思い浮かべている。咄嗟にそう感づいたあたしは、さっき飛び出した想いを相手が受け止めてくれないのだということが無性に悲しくなってしまって、気が付いたら、ぽろぽろと涙を流していた。
今考えればわかる。急に口にした言葉だったから、あたしはただ、音に振られる覚悟がなくてパニックを起こしただけだった。
(けど、そこで、音もバカなんだもんなぁ)
「唯子に想われてたなんて、知らなかった」
「当たり前じゃん。言ったことないもん。……いいよ。気持ちを聞いて欲しかっただけなんだから」
あたしの涙に、僅かに目を見張って。……しばらくして音は何かを決めたかのように立ち上がった。
「……それじゃぁ、まず一緒に帰ろうか?」
優しい笑顔でそう言われた、その言葉にすがったのはあたし。
差し出された偽りの希望に、あたしは付いていくことを選んだ。
自分から求めたんじゃない、相手から出してきたものなら、いつか本物に変えられるかもしれないと思って。
(でも、結局無理だったんだよねぇ)
ふとしたことで感じる違和感。
友達だったときは、あたしのことをきちんと見てくれていた音が、あたしという存在を見てくれなくなった。それが、誰か、別の人と比べられてるというのだということに気付くのに、そう時間はかからなかった。
誰が、身代わりでもいいから付き合って欲しいなんて頼んだのよ?
こんなことだったら、友達のままの方が良かったと思ったあたしに、きっと罪はないと思う。
(……どうしようか、散々こっちはこっちで悩んだんだから、もう少し悩んでもらってもいいよね)
最後の抵抗として、あたしはメールに返事を出さなかった。
次の日の朝、あたしが音楽室に着いたとき、既に部屋の中には音が居た。
座り心地の良いふかふかのピアノ椅子に腰掛けて、弾いている曲はドビュッシーの『アラベスク』
複雑な単音の連なりと、軽やかな調べ。
音を好きになったのは、ピアノ教室で音の音色を聴いたのがきっかけだった。
……出来れば、このピアノをずっと隣で聴いていたかったのに。
ガラッ
ドアが開く音に、音が手を止めてこちらを見た。
「おはよう」
先に声をかける。しかもニッコリ笑顔付き。
「……おはよう」
けれど、あたしの顔を見ながら、音の顔は段々とこわばっていく。
(本当に得な性格してるよね。……そんな顔されると、こっちから言い出したくなる)
最初から知ってたんだよ。
音に好きな人がいたことも。あたしが泣き落としなんて卑怯な手を使ったんだよ、って。
……そう言い出そうとしたとき、音の方が先に口を開いた。
「謝らなきゃいけないことがあるんだ」
「……何?」
「俺、唯子と付き合う前に付き合ってた人がいたんだ」
(…………それは、知らなかったなぁ)
そっか、そんな人が居たんだ。
「うん。それで?」
冷静なあたしに、音はゆっくりと頭を下げた。
「…………何? ちゃんと言葉にしてくれなきゃ、わかんないよ」
嘘だ。ちゃんとわかってる。けど、ちゃんと話を聞きたい。
曖昧なまま終わらせたくない。
「唯子と付き合うときに、その人とは別れた。……けど、自分から別れてもらったくせに、ずっと忘れられなくて、引きずったままで。ずっと好きなままだったんだ。前の相手のこと」
自分勝手で、最低でごめん。
そう言う音に、あたしが言える言葉は、ひとつだけだった。
「バカじゃないの?!」
突然音楽室に響いたあたしの怒鳴り声に、弾かれたように音が顔をあげる。
その顔めがけて、思いっきり吸い込んだ息を声にして叫んでやる。
「そんなの知ってたってば! 音、付き合い始めてから、いっつも上の空だし!」
「…………」
「だけど、あたしの知ってる範囲で、音のことを好きな人は居なかったし、音が付き合ってたなんてことも知らなかったし。……一番傍に居るのは、あたしだと思ってた。どこの誰であろうと、あたし以上に音を知ってる子なんかいない。だから……だから…………思い上がってたの。最後に、音が選んでくれるのは、きっとあたしだって」
口にしてみると、自分勝手な心が浮き彫りにされる。
(最低なのは、自分だ。どんなことになったって、最後に音の傍にいるのはあたしだって、他の誰にも負けるわけないって、思い込んでた)
「だけど、音が本当に選んでたのは、ずっとその人だったんだよね」
「…………ごめん」
もう一度謝られて、涙よりも先に苦笑が漏れる。
再び頭を下げた音に、あたしは彼女として最後のわがままを言うことにした。
昨日の夜から、ずっと考えていた、最後のお願い。
「ねぇ、音」
「……何?」
「ショパンのエチュード。作品10第3番ホ長調が聴きたい」
突然飛んだ話に、音が首を傾げる。
それに、意地悪く笑って言う。
「それを聴いたら、許してあげるよ。……音以上に気の合う『男友達』手放すの勿体ないもん」
作品番号を口にしたのは、ささやかな抵抗だ。
通称を口にするのは、ちょっと今のあたしには辛かった。
しばらくして、ようやく思い当たった曲があったのか、音が指を鍵盤の上に乗せた。
(ショパンのエチュード、作品10第3番ホ長調。通称「別れの曲」)
流れ出したメロディーに、ゆっくりと目を閉じる。
今のあたしには、ピッタリの曲だ。悲しみに暮れるわけでもなく、静かに前を向きたいあたしのための曲。あたしだけのために、音が弾いてくれる最後の曲。
(これを聴いたら、思いっきり音の背中を押してやろう)
そして、いつか紹介してもらおう。
あたしが、音のことを心から吹っ切れたときにでも。