第6話 転がり込んできたのは──
俺は自室の扉を勢いよく開けながら、「夢奈ッッッ!」と声を荒げ、ベッドの上で漫画を読んでいる妹の名前を呼ぶ。
「どうしたんですか? プロポーズですか? わかりました結婚しましょう!」
「ちげーよなんでだよ! そもそも兄妹じゃ結婚できねぇよ!」
「なにを言ってるんですか。愛の前では法律なんて些細な障害です。どこか海外の田舎町でひっそりと暮らしましょう。さぁモラルにさようなら──」
「しねぇよ! ていうかお前が何言ってるんだよ!? それよりみゃーちゃんだよみゃーちゃん!」
「みゃーちゃん?」
夢奈は怪訝そうに目をぱちくりさせながらベッドから降り立ち、ぱたぱたと俺の下に駆け寄ってくる。
どうでもいいが俺のYシャツは完全に夢奈の寝間着になってしまっている。更にどうでもいいが、俺もナチュラルになにも考えずにこっちに来たが、ここは俺の部屋である。
夢奈が自室で過ごすことなんてほとんどない。着替えの時と俺が追い出したとき以外は大体俺の部屋でくつろいだり勉強したり寝たりしている。
段々めんどくさくなって最近は文句も言わなくなってるけど。そんなことを考えながら俺が荒い呼吸を整えていると、俺の目の前に来た夢奈がこてんと小首を傾げる。
「みゃーちゃんがどうしたんですか?」
「みゃーちゃんが女の子になってたッッ!」
叫ぶようにそう言うと、夢奈は面食らった様子でぽかんと口を半開きにした。
「お兄ちゃん、みゃーちゃんは今も昔も女の子ですよ?」
「いや、そうなんだけどそうじゃないんだ。なんていうかその……人間の女の子になってるんだ!」
「……お兄ちゃん」
夢奈がジト目を向けてくる。あまり向けられることのない冷ややかな視線に、俺は思わずびくん! と肩を跳ねさせてしまう。それに少々興奮している自分にがっかりしつつも、俺は夢奈の言葉を待つ。
「幻覚を見るほど女の子に飢えてるんですか? 目の前にこんなにいやらしい女の子がいるんですよ? 飢えてるなら襲いかかってきて下さい」
「自分でいやらしいとか言うなよ……。ていうか妹に襲いかかったりしねぇよ」
まぁ事実かも知れないけどさ。半分ぐらいは。
「とにかく幻覚でも何でもない。多分だけど。とにかく一緒に来てくれ。とにかくそうすればわかるから。とにかく早く行こう」
「どんだけとにかく言うんですか」
と、そんなことを呟く夢奈と共に俺達はリビングに向かう。
「みゃーちゃんが女の子になってる!」
夢奈がソファーの目の前に置いてある、みゃーちゃんのお気に入りのクッションの上で丸くなっている女の子を見ながら似たようなことを叫んだ。
「だから言っただろう?」
「はい、すみません。疑ったりして」
「いや、信じられないのが普通だし気にすんなよ」
そう言って夢奈の頭を撫でる。
俺はちらりとみゃーちゃんと思わしき女の子に視線を送る。クッションの上で膝を抱えるようにして丸くなっているのは小柄な少女だ。
夢奈と同じぐらいの長さの銀髪が特徴的なその子は、目をつむっているので顔つきはよくわからないが、寝顔は可愛らしい。服は着てない、全裸である。そして胸の膨らみは乏しいように見える。見えちゃイケナイ部分は髪によってぎりぎり見えない。残念だけど、そう思ってることがばれたら夢奈に殺されそうだ。
その子は少女と言っても普通の少女ではない。頭から髪と同じ銀色の猫耳を生やし、お尻の辺りからは真っ白い尻尾が伸びている。
あれはみゃーちゃんなんだろうか。
でも耳と尻尾の色が違う。みゃーちゃんの毛の色は真っ白だし。とはいえ極端に違うわけでもないし、うーん?
それにしても猫相手とは言え、今は人間の姿で見た目は全裸の女の子だし肝心なところが見えないのも相俟って、見てると結構どきどきす──
「ふごふっ!」
いきなり夢奈の拳がみぞおちに思い切り入れられる。ナイスボディー。なにかでるかとおも──
「うぷっ……」
俺は吐き気を覚えながら腹を押さえてその場でうずくまる。
「な、なにするんだ……」
小刻みに身体を震わせながら恨めしげに夢奈を見上げると、ふくれっ面で俺を見下ろしていた。
「だってイズモがゆめ以外の女の子の裸で興奮してるから」
「別に興奮してないしそもそもお前の裸だって小学生以来見てねぇよ……!」
ていうか夢奈の裸で興奮したりしねぇよ……!
「お兄ちゃん、あれがみゃーちゃんかどうかはわかりませんが、一つ確実なことがあります」
「な、なんだ?」
「あれは間違いなく人間ではありません」
「まぁ、確かにそうだな」
耳が猫耳で尻尾が生えてる人間は今まで見たこともないし聞いたこともない。
「はい。なにか危険な存在の可能性が高いと思います。ぐっすりとお眠りのようですし、そのまま永遠の眠りについていただきましょう」
妹がなんだか恐ろしいことを口走っている。
「駄目だ! 殺人反対! 駄目絶対!」
「大丈夫です。証拠は残しません」
夢奈の目から光が消える。怖い。マジでやりそう。
「だー、もう! なんか着るもん持ってくるからちょっと待ってろ! あ、なにもするなよ?」
「それは、いいか? 押すなよ? 絶対押すなよ? と言いつつ押してもらうのを待っているあれみたいな感じですね!」
「ちげーよ! とにかくなにもするなよ!」
「はい、頑張ります!」
なにを頑張るのかは聞かないで置こう。まぁそもそも本気では言ってないだろうし大丈夫だろう。……多分。
そう思いつつ俺は自室に向かい、Tシャツを引っ張り出す。それを持ってリビングに戻り、なるべく女の子を見ないようにしながら夢奈に近づき、Tシャツを渡す。
女の子に背を向けている俺を見て、夢奈はどこか安堵した様子で微笑んだ。
「それ着せて上げてくれ」
「これ、お兄ちゃんのTシャツですよね?」
「ん? おう。夢奈のだとサイズが合うかわからないしな」
「ゆめも好きでちっちゃいんじゃないですよっ!」
夢奈がそう言ってほっぺたを膨らませる。さすがにこの年でこの身長、というのは本人も気にしているらしい。
「わ、悪かったよ。とにかく着せて上げてくれ」
「……お兄ちゃんのシャツに知らない女の匂いがつくとか……ゆめ、怒りでついなにかマチガイを犯してしまいそうです」
「うん、落ち着こうな。とにかく無心で着せような! それにほら、洗濯したら匂いは消えるから無問題だろ!」
「……わかりました」
渋々といった感じでそう言うと、夢奈はぱたぱたと女の子の下に向かったようだ。
「ふわっ!」
「ど、どうした?」
背を向けた状態で尋ねると、「えーと」と夢奈は口ごもる。
「これ、着れますか?」
その言葉を聞くからに女の子が目を覚ましたのかもしれない。
それから背後から衣擦れの音がして思わず喉を鳴らしてしまうと、夢奈が突然背後から抱きついてきた。俺が興奮したと思って怒ってる、というのは直ぐにわかったので、
「ごめん、悪かったよ」
謝ると「むー」と、不満そうな声を上げながらも夢奈は離れてくれる。
音がしなくなったので振り返ると、Tシャツを身につけた女の子はソファーの上であぐらをかいていた。
俺はぽりぽりと頭をかきながらもう片方の手で夢奈の手を握ってその子に近づいていく。
その子の目の前で腰掛け、その子を見上げる。
Tシャツがだぼだぼで右肩と鎖骨が露出している。じっと見ていたら夢奈が片手をチョキの形にして、それを前に突き出す謎の運動を始めた。
「……幅はこれぐらいでしょうか」
光のない目で俺の顔(具体的には目)とチョキにした手を見比べながらそんなことを呟いている。怖い。もしかしたら少しずれたら胸が見えそうだな、とか思っていたのが顔に出ていたのかもしれない。
邪念は振り払おう。じゃないと俺の目が大ピンチだ。
俺は数回首を振ってもう一度女の子を見る。そして俺はみゃーちゃんとの決定的な違いを見つけた。みゃーちゃんの瞳は黒いのだが、その子の瞳は真っ赤であった。
ちょっとむっとしたような表情を浮かべている女の子は、『美人』と形容するのが一番しっくりくるような、そんな容姿をしていた。
「君は誰?」
「吾輩は猫である。名前はまだない」
と、低くも高くもない声音で、俺の問いに有名な小説の一文で淡々と答えて見せた。
「そういう冗談はいいので、ちゃんと答えて下さい」
夢奈の言葉に少女は不機嫌そうに顔をしかめた。それよりチョキの素振りはいい加減やめて欲しい。気になって話に集中できねぇよ。俺もう見てないから。やましい下心とかないから。真っ白だから。
思いが通じたのか夢奈はちらりと俺の顔を見ると素振りをやめてくれる。これで安心して話が出来るぞ。
「冗談ではない。わた……吾輩には本当に名前がない」
「いや、無理なキャラ造りとかしなくていいから。で、誰なんだ? 君はみゃーちゃんなのか?」
「…………」
少女は無言でじっと俺の顔を見つめる。
「そうだ」
「なんで変な間があったんだ?」
少女は「知らん」とぷいっとそっぽを向いた。
「……貴方がみゃーちゃんだという証拠はあるんですか? 毛とか瞳の色とか違いますし、信用できないです」
「……証拠か。ふむ、そうだな……今ここにみゃーちゃんがいないのが、では納得はしないのだろう?」
「当然です」
そう言って夢奈は鼻で笑う。なんか夢奈が敵意剥き出しだな。相手が人外だから警戒してるのかな。それとも俺が喉を鳴らしたのまだ怒ってるのかな。
「じゃあみゃーちゃんしか知り得ない情報を言ってみせる、というのはどうだ?」
「……本当に言えるならそれは証拠になりますね」
「ふむ。言って見せよう。しかしその前に一つ頼みがある」
「頼み?」「頼みですか?」
俺達の問いにみゃーちゃん(仮)はこくりと頷いて見せた。
「今後もわたしをここに置いて欲しい」
「まぁそれは……元々うちで飼ってたわけだし」
「本当にみゃーちゃんならいいですよ」
と、夢奈のもっともな返しにみゃーちゃん(仮)はまた大きく頷いた。
「じゃあお前。夢奈と言ったか」
みゃーちゃん(仮)はびしっ! と夢奈を指さす。
「一年ぐらい前に、隣の兄が──イズモと言ったか? とにかく、そのイズモが眠っている間にシャツをまくってみたりズボンを下ろしてみたりして、ありとあらゆる所を露出させた後に、体を舐め回すように眺めてついでに首筋の匂いを嗅いだり全身くまなく触ってみたりほっぺにちゅーしてみたりしていただろう」
「え!? お前俺が寝てる間にそんなことしてたの!?」
「はぎゃぐおうあ#!?*@~~~~~~~~!」
夢奈は顔を真っ赤にしながら言語として認識できない叫び声を上げた。その反応を見るからに、どうやら事実だったらしい。
夢奈は羞恥心を持て、と言いたくなるぐらいに自分からこの手のことを平然と言うくせに。
『興奮しますか?』とか言いながらおっぱいとか押しつけてくるくせに。
人から言われたり俺がなにか行動に移したりするとこのようにおかしな反応を示す。おかしな──というのは普段の夢奈と比べて、という意味だ。
一般的な女子の反応としては別におかしなことではないのだろう。女子の友達も彼女もいないから勝手なイメージだけど。なんでこんな反応を示すのかは未だに謎だ。
「ちちちちちがいましゅっ!」
「違うのか? ていうか噛んでるぞ」
「なにも違わないだろう。わたしは事実を述べただけだ」
「そそそそその人は嘘を言っているんだにゃん! ゆめはそんなことしてないにゃん!」
「とりあえず落ち着け。なんか語尾が変だぞ」
「冷静だにゃん! ゆめすごく冷静だにゃん!」
「どこがだ!」
夢奈は耳まで真っ赤に染めながら、瞳をぐるぐるさせている。そして万歳してみたり手を前に突き出してみたり。俺の体を揺すってみたり引っ張ってみたり。ぺしぺし叩いてみたり額をこすりつけてみたりと、色々と残念過ぎる動きをしていた。
ここまで動揺するって事は、どうやら俺には知られたくなかったことらしい。俺も出来れば知りたくなかった。
夢奈が変態なのは知ってるし小学生の頃は一緒に風呂に入った仲だしていうかそもそも妹だし別に服を脱がされて下半身とか見られちゃったり触られちゃったりしたからと言って気にしない!
うん、気にしない。ちょっと気にして……いや、気にしない。気にしてない。
とりあえず夢奈を落ち着かせるために頭を撫でてみる。
「ふにゅう……」
どうやら落ち着いたようだ。思った以上に簡単だった。ちょろかった。
「それで? 信じてくれたか?」
みゃーちゃん(仮)の言葉に夢奈は大きく頷く。
「……はい。お兄ちゃん、さっきの話は確かにみゃーちゃんしか知り得ない事実ですし、この人はみゃーちゃんなんだと思いますにゃん……」
「事実なのか……。ていうか語尾がまだおかしいぞ」
「うぐぐ……内緒にしておくつもりだったのに……」
「気にするな夢奈。俺はお前が変態なのはよく知ってるし、今更その程度で引いたりしない」
「はにゅ……」
夢奈はしゅんと落ち込んで見せた。自分で『ゆめは変態です!』とか言うくせになんで落ち込むんだ。
「しかし本当にみゃーちゃんなのか……。そもそもなんで人間にな──」
「みゃー」
突然ソファーの脇辺りからそんな声が聞こえてきて、俺はおもむろにそちらを向く。
「「みゃーちゃん!?」」
俺と夢奈の声が綺麗にハモった。それに応えるかのようにみゃーちゃんは「みゃー」と鳴いて見せた。
「……ちっ」
みゃーちゃん(仮)が憎々しげに顔を歪めながら舌打ちした。
「……えーと、それで……」
「誰だお前」「誰ですか貴方」
みゃーちゃん(仮)がめんどくさそうな顔で「みゃー」と猫そのものの声を上げると、みゃーちゃん(本物?)が「みゃぁ」と返事をするように鳴いて、みゃーちゃん(仮)の膝の上に乗る。
「これはみゃーちゃんの偽物だ。わたしこそが本物のみゃーちゃんだ!」
「今適当に考えたよな」
「信じられないのか? 先ほど『証拠』を聞かせてやったというのに」
それは確かにそうなんだよなー。そう思いながらちらりと夢奈を見ると、むっとした顔でみゃーちゃん(仮)を見ていた。
「みゃーちゃんおいで」
夢奈の言葉にみゃーちゃん(本物?)は「みゃー」と返事をして今度は夢奈の膝に移動する。
「確かに貴方がさっき言ったことは事実です。でも、なんらかの方法でそれを知る手段があったんだとゆめは今確信しました。だってみゃーちゃんは間違いなくこの子です。ゆめがみゃーちゃんを間違えるわけがありません」
夢奈に撫でられて目を細めている猫の方がみゃーちゃんだと俺も思った。そもそも目の前の子は毛と瞳の色が違うしな。
「俺も夢奈に同感だ。別に怒ったりしないからさ。ちゃんと事情を話してくれないか?」
みゃーちゃん(仮)は気まずそうにそっぽを向いた。
「……すまない。確かにわたしはみゃーちゃんではない」
「なんでそんな嘘ついたんだ?」
「……訳があって行くところがないのだ。みゃーちゃんなのか? と聞かれてこれはいける! と思って、つい……。それで……その……わたしをここに置いてくれないか?」
「いやです」
みゃーちゃん(仮)の言葉に夢奈がぴしゃりと即答した。その顔はいつにもなく険しい。
「いや、でもさ。部屋も余ってるし行くとこないならいいんじゃないのか?」
「駄目ですよ。お兄ちゃんが甘やかしていいのはゆめだけですよ? こんな見ず知らずの怪しい人をうちに置くなんて、神が許してもゆめが許しません」
夢奈の言葉にみゃーちゃん(仮)は気まずそうに視線を逸らす。
俺は小さくため息をつくと、二人の顔を見比べながら口を開く。
「怪しさが少しでも減ればいいんだな?」
「そしたら考えないこともないですが、お兄ちゃんはそんなにこの人をうちに置きたいんですか?」
「行くとこないって行ってるのに追い出すのは忍びないってだけだ。警察に連絡するのも……な?」
みゃーちゃん(仮)の耳を見ながらそう言うと、みゃーちゃん(仮)は猫耳をぴくぴくと動かしながら気まずそうにそっぽを向いた。