第5話 兄妹なしじゃ、生きられない
放課後。いつもだったら直ぐに支度をして駆け寄ってくるはずの夢奈が、なぜかいつまで経ってもこない。
なんだと思いつつ夢奈の席を確認すると、そこに夢奈の姿はなかった。どうなってるんだ……。あ、トイレか。
「夢奈ちゃんなら先に帰ったみたいだよ」
鈴にいきなりそんなことを言われて、俺は思わず「ハァ?」と返してしまった。
「夢奈が? あの夢奈が? 俺なしじゃ生きていけないようなブラコンが?」
「そう、その夢奈ちゃんが」
「全く、面白いジョークだな」
全然笑えないけどな。
「ジョークじゃないよ。信じられないなら下駄箱見に行ってみるといい。きっともういないよ」
そんなバカな。と思いつつも俺は「じゃあな」と早口に言って鞄を片手に昇降口に向かう。下駄箱を確認すると確かに夢奈の靴はなく、先に帰ったようだった。
そんなバカな。あり得ない。だって夢奈だぞ。あの夢奈なんだぞ。その夢奈が一人で下校する? もしかして明日は季節外れの雪でも降るのか? いいやでも、夢奈だって子供じゃないんだし。小学生みたいな顔しててもおっぱいは大きい──じゃなかった高校生なんだし。一人で帰ることはなにもおかしいことじゃない。ただ、小学生から高校二年の今まで、一度もやらなかったと言うだけで。
ここから家まではえらい遠いわけでもないし、別に危ない事なんてない。
ああでも、今日に限って居眠り運転の車が夢奈に向かって突っ込んでいく可能性だってある。そう、いつもと違う日常の時こそ、非日常的なことが起こったりするものだ。もし、もし夢奈が事故に遭ってそのまま……。
いいや、ないない、あり得ない。いや、でも、もしも、という可能性も……。
「帰らないの?」
下駄箱の前でずっと突っ立っていると、鈴に声をかけられる。
「べべべ別に夢奈のことを考えていたわけじゃないんだからな!」
「僕、なにも言ってないけど」
「別に夢奈が事故に遭ってたらどうしようとか思ってたわけじゃないんだからなっ!」
「だから、なにも言ってないよ?」
「うぐぐ……」
変な汗が流れる。すごく言わなくていいことを言った気がする。
「だから言っただろう? 君は思ってる以上に夢奈ちゃんのことが大好きなんだって。性的な意味で」
「ぐ……」
ぐうの音も出ないまさしくこのことだ。正直今、その言葉は嫌と言うほど実感している。
夢奈が今どこでなにをしているかわからない、というのがこんなに不安になるものだとは知らなかった。まぁそんなこと今までなかったからわかるはずがないんだけど……。
こうしている間にも夢奈はどこかで見知らぬ男に声をかけられて怯えていたり、あるいは事故に遭っていたりするかもしれないと思うと死にたくなってくる。俺の夢奈に手を出しやがったらぶち殺すぞこん野郎。と、よくわからない殺意も湧いてくる。
夢奈の現在状況がわからない上で、一定以上離れると俺の精神状態は極めてよろしくない状態になるらしい。
夢奈の『お兄ちゃんなしじゃ生きられない』という言葉がよくわかる。どうやら俺も夢奈なしじゃ生きられないらしい。参ったな。俺一生彼女とか出来る気がしないんだけど。八割方俺にべったりな夢奈が原因だぞどうしてくれるんだ。
責任取って欲しい──とか言ったら間違いなく喜んで一生一緒にいてくれるだろうけどそれっていいのかな。俺も今更夢奈なしの生活とか考えられないけど、それっていいのかな……。とはいえ性的な意味で好きなわけではない。間違いなく。
あまり知りたくなかった事実に打ちひしがれているとどこからか、
「おにいちゃぁぁぁぁああああああああああん」
という悲鳴に近い叫び声が聞こえてくる。
夢奈だというのは見なくてもわかったが、一体どうしたんだ、帰ったんじゃないのか、等と思いつつそちらを見る。すると涙目の夢奈がぱたぱたとこちらに向かって駆けてきていた。
ぴょん、と勢いよく飛びついてきた夢奈の体を受け止めると、夢奈は潤んだ瞳で俺を見上げる。
「おにいちゃぁぁぁああん」
「ど、どうした夢奈。先に帰ったんじゃなかったのか?」
「そのつもりだったんだけどね、ゆめね、学校を少し出た辺りでね、もし今日たまたまイズモが事故に遭ったりして、そのまま死んじゃったりしたら……って思ったら不安で不安で……。ほら、いつもと違う日常の時こそ非日常的なことが起こったりするでしょ? ぐすん」
なんで全く同じ事考えてるんだ。一心同体ってやつか。それにテンション上げてる辺り、俺はもう駄目かもしれないな……。ちなみに妹のこの口調と『イズモ』という呼び方は主に負の方面に動揺したときに出る妹の癖だったりする。
「つーかなんで一人で帰ろうと思ったんだ?」
「だって阿久津君が、イズモはゆめのことが性的な意味で大好きなシスコンだから、ゆめが一人で帰ったら面白い物が見れるよーって言うから……」
俺は隣で涼しい顔をしている友人をじろりと睨み付ける。鈴は何食わぬ顔で大げさに肩をすくめて見せた。この野郎……。
「大丈夫だよ、夢奈ちゃん。たった今、イズモが夢奈ちゃんのことを性的な意味で大好きだというのを本人も自覚したはずだよ」
「『性的な意味で大好き』っていうのは自覚してないけどな」
「夢奈ちゃんは一人で帰った、伝えたときの焦りようも面白かったけど、ここで呆然と突っ立てる姿とか、僕が声をかけたときの反応とか、映像に残しておきたいレベルですごかったよ。ぷくく……」
俺は自分の顔が赤くなるのが分かった。握りしめた拳が羞恥心でぷるぷる震える。どうやら俺の友人は思っていた以上に性格が悪かったらしい。
夢奈はそれを聞き終えてごしごしと目を擦るとじっと俺を見上げる。
「お兄ちゃんもゆめと同じ事考えてくれたんですか?」
「……そーだよ」
「ゆめが一人で帰って、心配でしたか? 不安でしたか?」
「ああ、死ぬほど心配だったし不安だったよ!」
投げやりに言い放つと、夢奈はでかい目をぱちくりさせて俺を見つめる。
「だ、だからさ。もう勝手にいなくなったりするなよ? ほら、万が一って事もあるしな。そ、それに急にいなくなると俺もびっくりするしな! せ、せめて一言言ってくれると嬉し──いや、心配がなくていいかなって」
視線を逸らしながらそう言うと、夢奈はむぎゅりと思い切り抱きついてくる。腹部に押しつけられた柔らかい感触に思わず喉を鳴らしそうになる。
「はいっ! ゆめは一生お兄ちゃんから離れませんっ」
そう言って無邪気に微笑む夢奈は反則的に可愛かった。俺はそっぽを向きながら夢奈の頭を撫でる。なんだって俺の妹のくせにこんなに可愛いんだ、こん畜生め。
「本当にイズモは夢奈ちゃんのことが大好きだね。性的な意味で」
「一旦性的な意味から離れろよ!」
そう突っ込む俺を夢奈がはにゃりと表情を崩して幸せそうに見ていた。いや、性的な意味じゃないからな? これ別に照れ隠しとかじゃないからな? そんな思いを込めて夢奈を見ると、夢奈は恥ずかしそうに「えへへ」と赤い顔で視線を逸らす。
これは言っても無駄だな……。俺は夢奈の頭を撫でながら苦笑を零した。
◇
その後、俺は夢奈と手を繋いで帰宅した。
幸せそうな笑顔を浮かべながら俺の腕にほっぺを擦りつけたり腕を絡ませてみたりする夢奈の姿を心底可愛いと思い、嬉しいと思う辺りやっぱり俺は夢奈のことが大好きなのだと実感する。
性的な意味ではない。シスコン的な意味だ。シスコンの境界線なんかわからないが、俺はシスコンなんだろう。多分。
それから夢奈とだらだらと過ごし、夕飯を食べて風呂を済ませて、そしてリビングに足を踏み入れた瞬間、目に飛び込んできた異様な光景に、俺は思考を停止させた。
「っ!」
フリーズしていたのが数秒なのか数分なのかはわからないが、とにかく、フリーズ状態から復活した俺は血の気が引いていくのを感じながらダッシュで自室に向かった。
幻覚とか見間違いとかじゃなければ、あれはどう見ても──。
なにがどうなってるんだ。全くもって、意味がわかんねぇよ!