第13話 変わらない日常
「お兄ちゃん、起きて下さい」
耳元で囁かれたそんな言葉で俺の意識はぼんやりと覚醒した。
「……あと五分」
まだはっきりしない意識の中で、それだけ言葉を絞り出す。
すると夢奈からの返事はなく、代わりに夢奈は俺の頬をぺちぺちと触ってみたり引っ張ってみたりすりすりと頬をすり寄せてみたりしてる。仕方なく目を開けて、ごしごしと目元を擦って状況確認。俺の眼前には幸せそうに微笑む夢奈の顔があった。
「おはようございます、お兄ちゃん」
「……はよ」
ぶっきらぼうにそう返しながら俺は欠伸をする。まだ眠い。
上体を起こそうとすると、馬乗りになっていた夢奈はそれを察して退いてくれる。
「お兄ちゃん」
夢奈は少し顔を赤く染めながら、俺を見上げて「ん」と言い、目を閉じて唇を少し突き出す。
「? なに?」
欠伸を堪えながら尋ねると、夢奈がむっとした様子で目を開けて俺を見た。
「おはようのちゅーです」
「ああなるほどな」
言いながら目覚まし時計を取って時間を確認。割と早く起きられたな。
「ごまかさないで下さいっ! お兄ちゃんは昨日、ゆめに『愛してる』と言いました! 忘れたとは言わせませんよっ」
「忘れてない、覚えてるよ。でもそれとおはようのちゅーはなにも関係ないだろうが」
「大ありですよっ! 愛し合う男女がおはようのちゅーをすることは当然なのですよっ。義務なのですよっ」
「……一応聞くが、キスしたことは?」
……聞かなくてもわかりきってるけど。
「十歳の時にお兄ちゃんとしたのはノーカンですよね?」
「そりゃ……ガキの頃だしな。ていうかよく覚えてるな」
まぁ俺もしっかりと覚えてたりするわけだが。
「当たり前ですよ。とりあえず、あれがノーカンならしたことないですよ。ていうか聞かなくてもわかってますよね?」
「……もしかしたら、ってこともあるだろ? 俺が寝てる間にこっそりとか」
「! そ、それは……考えたことはありますが……」
「あるのかよ!」
「でもやらなかったですよ! やっぱり、ファーストキスはお兄ちゃんが起きてる時じゃないと嫌ですから」
「ファーストじゃなかったらいい、みたいな言い方だな」
「それは勿論。寝ているお兄ちゃんの唇を……はぅ」
なにを妄想したのか、夢奈は瞳を潤ませて顔を赤くした。くそ、めちゃくちゃ可愛い。
「ま、とにかくだ。ファーストキスはもっと雰囲気とか大事にした方がいいと思うぞ」
「……さすがお兄ちゃんですね。言われてみれば確かにそうです。それにやっぱりゆめからよりもお兄ちゃんの方からが……」
「……夢奈、俺は確かにお前のことを『愛してる』って言ったし、その気持ちに偽りはないが、それは『妹として』だぞ?」
夢奈はぴくりと肩を跳ねさせて不機嫌そうな顔になる。
それから俺の顔をじっと見つめて小さくため息をつくと、苦笑交じりの笑みを浮かべた。
「……はい、そうでしたね、イズモ」
名前で呼んだのは俺の発言が形式的なモノだとわかっている、という夢奈なりのアピールだろう。
俺はそのアピールの意味が理解できなかった、というのを装って「そうだよ」と返した。
まぁ多分、これも夢奈にはばれてるんだろうけど。
◇
昨日はあれからしろに丸く収まったことを説明し(しろは安堵した様子で嬉しそうに笑顔を浮かべて「それはよかった」と言っていた)、夢奈のご要望通り一緒に寝た。
夢奈のことだから、てっきり色々言われたりされたりするものだと思ったが、夢奈は俺に抱きついて幸せそうな顔をするだけで特に何かを迫ってくることはなかった。
期待がなかったと言ったら嘘になるが、正直なところ、俺自身迫られてそれをいつもの調子で振り切れるような精神状態でもなかったので、がっかり感よりも安堵の気持ちが強かったのは事実だ。
臆病なんだというのは自分自身理解してるが、俺は今の環境ぶち壊してまで夢奈とそういう風になりたいとは思わないし、そこまで踏み込む勇気もない。
そんなこんなで昨日はいろいろあったものの、今日も今日とて俺達はいつも通りの朝を過ごし、学校に登校した。
席についていつものように鈴と軽口を叩き、いつものように授業を受ける。
いつものように──と言ってもしろが加わったのは割と最近だが──とにかく、夢奈、しろ、鈴の三人と昼食を食べ、そして授業が終わる。
なにも変わらない、いつもの日常。
俺が気持ちを理解して、それを夢奈も察しているからと言って、俺がそれを口に、行動に、出さない限りはなにも変わらない。変わるわけがない。
それが少し残念なような、ほっとしてるような──自分の感情がよくわからない。
そして今は放課後。俺達は斉藤先生に半ば押しつけられる形で諸々の雑用を頼まれ、それを処理していた。ちなみにしろは俺達がそれを頼まれる前に既に帰宅した様子だった。なにか用でもあったのかな。
書類を運ばされたり書類の整理を頼まれたり、ついでだからと普段あまり行き届かない場所の掃除を頼まれたりして、今は花壇に水をやっている。
先生の人使いの荒さは今に始まったことじゃないし、文句を言う気力も起きない。まぁこれ以上頼まれてたらさすがに意地でも断ったけど。
「ホント、人使い荒いよな、斉藤先生」
「なんだかんだ言いつつ最後までこなしちゃうところがお兄ちゃんらしいと言うかなんというか……。大体の人はタイミング見計らってこっそり逃げ出してるって話ですよ?」
「まぁ今日は特に予定もなかったしな」
「そういうお人好しなところも大好きですけど、どうせならゆめのお願いももっと聞いて欲しいです」
俺の腕に抱きつきながら少しだけ拗ねた様子でそう言ってみせる夢奈の姿に、俺は思わず苦笑を浮かべる。
「はいはい」
それからジョウロなどを片付けて、「帰るかー」と言いながら保健室の前を通りかかった瞬間、ばしゃーんと、盛大にバケツの水をふっかけられた。
「はわわわ……ごめんなさいっ! 人が通るとは思わなくてっ」
思わず顔をしかめながらそちらを向くと、委員長が慌てた様子で頭を下げている。
「気にしなくていいけど、バケツの水をこんな豪快に窓から捨てるのはさすがにどうかと思うぞ」
「そ、それはそうなんだけど……めんどくさくて……」
几帳面そうに見えるけど意外とずぼららしい。人は見た目じゃわかんないな。
夢奈にちょいちょいと服の裾を引っ張られて、俺は夢奈を見る。
「ん?」
「大丈夫ですか?」
「ん、ああ。平気だよ。夢奈は水かかんなかったか?」
少しだけ申し訳なさそうな顔で夢奈はこくんと頷く。俺はもう一度委員長に視線を戻す。
「ああ、俺は大丈夫だから」
それだけ伝えると委員長はもう一度深々と頭を下げて「ごめんなさい」と言って、窓を閉めた。それを確認してもう一度夢奈に視線を戻す。
「着替えるついでにシャワー浴びてくるから。夢奈は近くのファミレスで待っててくれるか?」
「はい、わかりました」
「んじゃ」
と言って俺はシャワールームの方へ数歩歩き、ぴたっと動きを止めた。
「なぁ夢奈さん。話聞いてたか?」
「はい勿論。お兄ちゃんは今からシャワー浴びにいくんですよねっ」
夢奈はついついうんうん、えらいなーとか言いたくなっちゃうぐらいの無邪気な笑顔を浮かべている。
「うん、それで、なんでついてこようとしてんの?」
「ほら、体育の授業がありましたよね? ゆめは汗だくです。汗でべたべたで気持ち悪いです。だからついでにお兄ちゃんと一緒にシャワーを浴びようかな、と」
「ああ、なるほどな。じゃあ女子用の方にいこうか。忘れてるのかもしれないけど女子用はあっちな」
シャワールームは男女別で、位置もかなり離れたところにある。俺と同じ方向に向かっても女子用のシャワールームはない。
「大丈夫ですよ。今の時間帯、シャワールームを使用する人はほとんどいません」
「ああ、『ほとんど』、な。いないとも限らない。兄ちゃんとしては妹の裸が見知らぬ男に見られるのは耐えられない訳よ。だからファミレスで待っててくれるな?」
「……し、仕方ないですね~。そこまで言うならゆめはファミレスでお兄ちゃんを待っているとします。全く、シスコンで独占欲の強い兄を持つと苦労しますね~」
そんなことを言いながら夢奈はにやけそうになる頬を必死に堪えているようだ。夢奈は基本的に単純だ。
「それじゃあファミレスで待ってますね」
「あ、車には気をつけろよ? 道路を渡るときは横断歩道を手を上げて渡るんだぞ? あと、変な男に声をかけられても答えちゃ駄目だぞ。聞こえないふりしてファミレスに駆け込め」
「もうお兄ちゃん、心配してくれるのは嬉しいですけど、ゆめはそこまで子供じゃないですよ」
夢奈はぷくーっと頬を膨らませてみせる。確かに完全に小学生に向けるような言葉だったかもしれない。
俺はごまかすように夢奈の頭を撫でて、それからシャワールームに向かった。




