第1話 七風兄妹
俺は冷たいコンクリートの地面の上にへたり込んで、ぼんやりとその光景を──長い金色の髪を両耳上部で一房結ったツーサイドアップにした小柄な少女の背中を、ただじっと見つめていた。
少女の目の前には真っ黒いヒョウ──のようなもの──がいる。
体躯の感じがヒョウっぽいというだけで、あれはヒョウではない。
あれは恐らく《実体化》していない《魔の物》だ。
体の黒は毛の色ではなく、あれが《実体化》していない《影の存在》だからだろう。
《魔の物》というのは、憎しみ、悲しみ、苦しみ──等のそう言った人の《負の感情の塊》が形を成した物だ。
《魔の物》自体は普通の人には見えない。
見える人は大体その手の血筋の場合が多いが、稀に血筋が関係なく見える人もいる。
《魔の物》自体に害はないが、《魔の物》が《負の感情》を吸収して力を付けると、《実体化》し、人間に被害が及ぶ。
《実体化》しない限りは害のない存在のはずなのに、あの《魔の物》からは酷く嫌な印象を受ける。
辺りの闇に呑まれそうなそれは、真っ直ぐに少女を見据えると少女に襲いかかっていく。
「ッ!」
それに驚きながら口を、体を、動かそうとするが、指一本動かすことは叶わない。
実体のないそれはまるで少女の──妹の体に吸い込まれるかのように、徐々に姿を消していく。
目の前の光景に俺はただ、目を丸くすることしか出来ない。
完全にそれが妹の体に入った瞬間、妹の体が大きく揺れて、ばたん! と地面に倒れ臥した。
──夢奈!
妹の名を叫ぼうとするが、口は全く動いてくれない。動かない自分の体に腹を立てながらも、俺は動かそうと必死になってみる。
動けよ俺の体! 早く状況の確認をしないと夢奈が……! 俺はまた、夢奈を……!
為す術もなく呆然と、睨み付けるように夢奈を見ていると、突然口が動かせるようになった。
俺は大きく息を吸い込み、妹の名前を──
……呼ぼうとした瞬間に、『じりりりりりりりり』と言う音が鳴り響いた。
「っ!」
頭の上で鳴り響くその音で俺、七風出雲は珍しく目を覚ました。朝に弱い俺は週の半分は妹に起こしてもらっていたりする。
カーテンの隙間から日が差し込み、小鳥の鳴き声が聞こえてくる。ああこれは完全に。
──夢オチ。
ですよねー。と思いつつもうるさく鳴り響く目覚まし時計に手を伸ばして止める。
「ふにゅぅ……」
すると耳元でそんな可愛らしい声が聞こえてきて、考えるまでもなく現状を理解した。
俺の身体に全身を乗っけて、俺の首に両腕を回してがっしりホールドしながら柔らかい胸を俺の体に押し当てている『これ』が、間違いなく悪夢の原因だ。
耳元で幸せそうな寝息を立てるそいつの頬を思いっきり引っ張る。柔らかいほっぺたはよく伸びる。
「むー……」
「さっさと起きろ、重いぞ。お前は俺を窒息死させるつもりか」
まぁ実際は重いどころか軽すぎるぐらいなんだけど。
目を覚ましたそいつはもぞもぞと起き上がり、「んー」と背筋を伸ばしている。それはいいんだが、なんで俺に馬乗りになったままなんだよ。絶対わざとだろ。
「おはようございます、お兄ちゃん」
そう言ってそいつは──妹の夢奈は寝ぼけ眼を俺に向ける。
腰まで伸ばされた長い金色の髪は朝日を受けてキラキラしていて、とても綺麗だ。肌は雪のように白く、なめらかだ。まだ眠気が抜けきっていないからか、とろんとしているつぶらで大きな瞳は紺色。角度や光の加減によっては蒼にも黒にも見える不思議な色合いだ。
それからちょっとだけ低い鼻に薄桃色の唇。ちっちゃな顔にそれらがバランスよく収まっているその顔の雰囲気は小学生みたいだ。ぎりぎり中学生に見えなくもないけど、小学生、と言った方がしっくりくる。そんな童顔。
妹は兄の俺から見ても美少女である。そんな妹はなぜか俺のYシャツを身につけていた。
おまけに胸元のボタンを外して、童顔に加えて身長141センチという低身長なくせに、同級生など目じゃないぐらいにやたらでかくて白い胸を晒していた。
「今日もいい朝ですねー」
「俺は悪夢にうなされたお陰で朝から気分が最悪だがな……」
思わずそう呟くと、夢奈は驚いた様子で目をぱちくりさせる。
「うなされたんですか?」
「ああ、どっかの誰かさんが俺の体にのしかかってくれたお陰でな」
恨めしげに夢奈を見ながらそう皮肉を言うと、夢奈はむっとした顔になった。
「それって遠回しにゆめのことを『重い』って言ってます?」
「そうは言ってない。そうだな……寝てるときにみゃーちゃんが腹の上で丸くなってたりしたら、みゃーちゃんそんなに重くないけどうなされるだろ?」
夢奈はちょっと納得いかない顔はしているが、「まぁそうですね」と同意してくれる。
みゃーちゃん(命名・夢奈)というのはうちで飼っている真っ白い毛並みの猫のことだ。
元々はうちに迷い込んできた野良猫だったのだが、餌を上げたりしている内に居着いてしまって、そのまま飼っている。
そんな会話をしていると、いつの間にか部屋に侵入していたらしいみゃーちゃんがベッドの脇で「みゃぁ」と鳴いた。
「あ、みゃーちゃん」
みゃーちゃんはまた「みゃあ」と鳴くと、ぴょんとベッドに飛び乗って夢奈の脚にすり寄った。夢奈は嬉しそうに目を細めながらみゃーちゃんの頭を撫でている。
「ところで夢奈。いつ潜り込んできたんだ?」
「お兄ちゃんがナニをして寝付いた後です」
「……は?」
「お兄ちゃんがナニをし──」
「いやいやいやいや、待って! 言わなくていいから! つーかおおおまっお前! みみみ見て……!?」
「なにをそんなに焦ってるんですか? 安心して下さい、お兄ちゃん。ゆめはいつも見ています!」
きりっ! とか効果音がつきそうなぐらいのいい顔で夢奈は言った。それはすごく安心できないです。
「ど、どこから!?」
「クローゼットの中から、こっそりと。というか他にのぞき見できるところはないと思いますよ」
なんでそんなに誇らしげな顔してるのこの妹。つーかなにしてくれてるのこの妹。
まぁいいや。いや、よくはないんだけど考えても仕方ない。これ以上考えるのは俺の精神衛生上よろしくない。見られて興奮するような趣味もないので既に死にたい。聞かなかったことにしておこう。そしてこれからは寝る前にクローゼットのチェックだけ忘れないようにしておこう。これ以上、心の傷を増やさないためにも。
「ゆめの着ていた服の匂いを嗅ぎながらハァハァしているお兄ちゃんの姿は今思い出してもどきどきします……」
「!」
……更なる爆弾落としやがったせいで──違った、原因は不明だがなんだか目眩がするのは朝だからだろう。そう、起きたばかりだから。俺はなにも聞いていな死にたい。
そもそも別に妹の匂いに興奮してたわけじゃないし。女の子の匂いに興奮してたんだし。俺は妹に欲情するような変態じゃないし。
「あー、ところでさ。お前なんで俺のシャツ着てるの?」
かなり強引に話を逸らすが、夢奈は気にする様子もなく着ているシャツを引っ張りながら口を開く。
「これはお兄ちゃんのシャツでもあり、ゆめの寝間着でもあるんです」
「残念ながらそれは俺だけのシャツだ」
「安心して下さい。これはそのまま着ていっていいですからっ!」
「なにをどう安心しろと? 俺の話聞いてる?」
「お兄ちゃんがあまりにもツンデレのツンな発言ばかりを繰り返すので、ゆめがデレられるように誘導しようかと」
「お前は俺の発言をどう解釈したんだよ……」
「そ、それは俺のシャツだから今日着ていきたいんだからねっ!」
どうやったらそう解釈できるんだよ……。
「大丈夫ですよお兄ちゃん。お兄ちゃんがゆめの匂いに包まれてむらむらしながら授業を受けているのは二人だけのひ・み・つです♪」
人差し指を口に当てながらウインクしてみせる夢奈は可愛らしいが、発言が最悪極まりない。秘密もなにも、仮にそれを着ていったとしてもむらむらしたりしねぇよ。
……しねぇよ。
俺は思考をかき消すために盛大に息を吐き出し、にっこり微笑んで口を開く。
「そーかそーかー。秘密にしてくれるなんて、夢奈はいい子だなー」
実にわざとらしい物言いだというのに、夢奈は「えへへー」と本当に嬉しそうに微笑んでいる。
「じゃあ、シャツはちゃんと洗濯機にいれような」
「お兄ちゃんは照れ屋さんですね♪」
「うん、ちゃんと洗濯機に入れような」
「……」
「……」
俺達は無言でじっと見つめ合う。
「お兄ちゃんの意地悪っ」
「……」
ぷっくりと頬を膨らませた夢奈に無言でジト目を向けると、夢奈は「むー」とうなる。そして渋々といった感じでこくりと頷き、
「わかりましたよー。ちゃんとお洗濯します」
と、ため息まじりに言った。
それから夢奈はじっと俺の顔を見つめて、表情を無邪気な笑顔に変えながら俺の髪に手を伸ばす。
「キラキラしてて綺麗です♪」
「あー、そりゃそうか」
夢奈の言葉に思わずそう返すと、夢奈は不思議そうに首を傾げる。
「? どうしたんですか?」
「あ、いや。夢奈の髪がそうなってるってことは、当然俺の髪も同じ状態になってるんだなってことに今更気付いて」
「それもそうですね」
言いながら夢奈は自分の髪を手にとってじっと見つめている。
俺と夢奈は双子だ。と言っても、全く似ていない。
俺は身長は百七十ちょいあって小柄じゃないし、夢奈みたいな可愛らしい顔もしてない。髪の色が同じなのも兄妹ならよくあることだろう。
俺が唯一双子らしいと思っているのは目だ。
この髪と瞳はイギリス人とのハーフであった母親譲りの物だが、母親の瞳の色はもっと色素の薄い蒼だった。それに比べて俺達の瞳の色は全く一緒で紺色。しかもちょっと特殊な。
これは双子だからこそなんだろうと、俺は勝手に思っている。
「とりあえずどいてくれ。身動きが取れない」
夢奈は楽しそうに「はーい」と返事をしながらどいてくれる。ベッドの上にいるみゃーちゃんが夢奈を見上げるので、夢奈はみゃーちゃんを抱きかかえた。
「お兄ちゃん、ゆめがこっそり潜り込んでくるのはもうわかってるんですし、諦めて一緒に寝て欲しいです」
「いやだ」
上体を起こしながらそう返すと、夢奈は「そうですよねー」としきりに頷く。
「ゆめがいたら、さすがにナニが出来ませんよねー」
聞こえない。なにも聞こえない。
「もうお兄ちゃん、恥ずかしがる必要はないんですよ? なんならゆめがお手伝いしますからっ!」
夢奈がなにか言っているような気がするが気のせいだろう。俺はなにも聞いていない。俺の耳に届くのは小鳥とみゃーちゃんの鳴き声だけである。
「つーかさっさと用意しないと遅刻するぞ」
「大丈夫ですよ。今日はお兄ちゃんが早起きなので、余裕はあります。ゆめは朝もこうしてお兄ちゃんといちゃつきたいので、早起きしてくれると嬉しいんですけど」
「努力はしよう。一応言っておくが、別にお前といちゃつきたいわけじゃないからな」
「はい、わかってます♪」
夢奈は楽しそうにそう言いながらみゃーちゃんを抱えたまま部屋を出て行く。小さく、「全くもう、本当にツンデレさんなんですから♪」と言っていたのは聞かなかったことにしておこう。
それにしても……いつものこととはいえ、朝っぱらから元気なやつだな……。