2.優しい風
それからの祖母の容態は
鎮静剤を使用しながらだったけれど
なんとか不穏な夜をやり過ごし
少しずつ、快方に向かった。
チューブ類が一つ一つ外されていくにつれ
祖母の顔つきははっきりしたものになり
数日後には、まるで何事もなかったかのように
いつもの祖母に戻っていった。
少しの遅れはあったものの、
なんとか全介助のもと
車椅子に移れるようになった日には
一族全員が喜びに沸いた。
「一時はどうなるかと思ったわ」
「ボケた祖母さん、大変だったでなぁ」
交代交代で、祖母の付き添いをしてくれた
母や叔母たちは、疲労の色もそのままに
笑った。
祖母には ”ボケた” 時の記憶がない。
「ほーやったか?」
と、一緒になって笑っている。
せん妄の、それが救いと言えば救いだった。
「まぁあとは、リハビリやな」
一番上の叔母、つまり祖母の長女が言った。
「また、頑張らんとな」
皆が頷いた。
確かにあとは、リハビリ次第だった。
けれど骨折から数えれば
もう2週間以上は寝たきりだった。
すでに普通に歩くのも困難な状況なのに
まだ動かせない重たい片足を抱え
おまけに、辛い痛み。
85歳。
「大変だけど、ね」
あたしは思わず呟いたけれど
叔母さんたちはヤル気をみなぎらせていた。
そんな中で、車椅子の祖母の手が
皆と笑い合う笑顔とは裏腹に、
手の甲が真っ白になるほど、車椅子の手すりを
ぐっと固く握りしめているのに気付いた。
あたしは祖母の横に膝をついて
小さく聞いた。
「痛い? おばあちゃん」
すると祖母は少し顔を歪めて笑った。
「ああ。……ちっとな」
やっぱり。
けっこうキツイんだ。
あたしは思った。
負けず嫌いの祖母、強がりの祖母、
人一倍、プライドの高い祖母。
その時ちょうど担当の看護師が来て
「そろそろベッドに戻りましょうか」
と言ってくれた。
あたしはホッとした。
それから数日して
あたしはカオルさんにLINEを入れた。
『来週の休みには
そっちに遊びに行けそうです』
『大丈夫なの?』
『はい。もうだいぶ落ち着いたから』
なかなか進まないリハビリではあったけれど
落ち着いているのは事実だった。
それでも、本当は祖母の元に
できるだけいようと決心していた。
けれど自分の仕事場の病院と、
祖母の入院している病院とを
ひたすら往復しているあたしを見かねて
母が言ってくれたのだ。
「あんた、ひっどい顔だわ。
たまの休みくらい、
病院じゃないトコ行って遊んどいで」
笑いながら言い放った母のそれは
命令ともとれる口調で、
この時あたしはあらためて
母には絶対に敵わないんだなと思った。
あたしは母に心から感謝した。
久しぶりにあたしの心は弾んでいた。
思っていたよりも早く
カオルさんに会うことができそうで。
『今度は波乗りは? する?』
相変わらずのカオルさんの問いに
あたしは嬉しくなった。
『したいけど、でも寒いから無理かも』
12月も半ばだった。
このところの冷え込みは一段ときつくて
初雪がちらついたほどだった。
『ヘタレだなぁ』
『だって寒いの、苦手なんだもん。
カオルさんは? 今日も入ったの?』
『もちろん。波はイマイチだったけどね』
あたしは海を思い浮かべた。
冷たい風の吹く、冬の海の中に
寒さをものともせずに
凛として波を見つめる、カオルさんがいる――
その瞬間、何故だか自分を取り囲む空気が
軽くなったように感じた。
まるで風が吹いたのかと思った。
吹いてはいない筈の、その風に乗って
このところの鬱々とした気分が
不思議にぱぁっと、霧になって消えていく。
……と、思った矢先だった。
不意に、思いがけず
自分の目には涙が浮かび始めていてた。
あたしは自分の涙に、びっくりした。
なんで、いま?
泣く? あたし?
泣きたい理由など、ないハズだった。
自分でも涙の訳はよく分からなかった。
一体、嬉しいのか
悲しいのか
それとも、淋しいのか。
ただただ、胸が詰まった。
カオルさんを想うだけで
滲みそうな涙。
あたしはそれを静かに飲み込んだ。
泣きそうになったなんてこと、
カオルさんにはとても言えそうもない。
あたしはそぉっと、
携帯電話を両手で包み込んだ。
目尻の涙を拭いつつ
それを、胸に抱いた。
会いたい。
カオルさんに会いたい。
早く会いたい――!




