10.晴天の霹靂
あたしは浴室の鏡の前で
少し薄くなってしまったキスマークを
そっと指先で触れた。
この歳になってキスマークが
これほど嬉しいと感じるだなんて
自分でも驚きのことだった。
バカップルの象徴、独占欲の証。
日常生活への、ありがた迷惑。
そのくらいにしか思っていなかったのに
あたしはそれを大事に、
とても大事にしていた。
けれどそれは、とても頼りなくて
明日にでも消えてしまいそうだった。
また、つけてもらいたい。
一人でドキドキしながら
そんな事を考えている矢先、
思わぬ事態が起こった。
その電話は、母からだった。
夜にかかってきた、実家からの電話。
嫌な予感がした。
電話の向こうから、母の大きな声が響いた。
『おばあちゃんが骨を折ってね、入院したんだわ』
その言葉に、あたしは天を仰いだ。
なんてこと……!
『トイレで転んでね。動けんって言うもんだから
慌てて救急車呼んで――』
母はあたしの相槌も待たずに、話し続けた。
同居していた、父方の祖母。
あたしは今は一人暮らしだけれど
実家にいる頃は、祖母と寝室を隣にしていた。
決して裕福ではない共働きの両親のもとで
祖母は、あたしにとって育ての親も同然だった。
幼稚園の送り迎えも
大嫌いだったお風呂の時も
学校から帰った時におやつをくれるのも
一緒にアニメを観てくれるのも
全部、祖母だった。
あたしにとってかけがえのない
大切な人なのに
最近は、あまり会っていなかった。
理由は自分でも分からなかった。
反抗期をこじらせたのか
いつまでたっても素直にはなれず
仕事が忙しいのを理由にして
実家にもあまり帰っていなかった。
『でも今んとこは、なんとか落ち着いとってな。
あんたは仕事が大変だもんで
ばぁちゃんの面倒はお母さんたちが看るからいいけど』
母はいつもあたしを気遣ってくれる。
『でもこの先、手術するか、しないかって
先生に聞かれとってね。
家族で話し合いなさいって言われとるんだわ。
あんた、近いうちに帰って来れる?』
『行くよ。明日にでも』
あたしは即答した。
『ああ良かった! お父さん、シノ来れるって』
電話の向こうで低い声がする。
『シノが来てくれると助かるわぁ。
あたしらでは専門的な事は、ちっとも分からんで』
『うん』
看護師という仕事柄、何かと頼りにされるのは
嬉しいことでもあった。
『仕事終わってから来る? 晩ご飯は作ってやれんけど
どっかで寿司でも食べたらいいし。
気を付けておいでな』
あたしは電話を切ってから、大きくため息をついた。
こんな時に寿司だという母の相変わらずさは、ともかく
祖母の置かれた状況が分かるだけに、辛かった。
祖母はトイレから出たあと、ステンと転んだらしい。
たいした事はないはずなのに、動けなかったという。
病院で検査をした結果、
大腿骨の付け根のあたりが折れていた。
骨が脆くなった年寄りには、よくある外傷だった。
だからこそ、その後の経過がいかに困難なものか
あたしはよく知っていた。
85歳の祖母。
手術をすれば、歩けるようになる可能性はあるものの
老体がそれに耐えられるかどうか、
危険な賭けだった。
その上、もし手術に耐えられたとしても、
リハビリは決して容易ではない。
今も共働きの両親に
どれほどの負担がかかるのかと思うと
とても難しい選択のように思える。
かといって手術をしなければ、寝たきりか
せいぜい車椅子での生活しか望めない。
これからそれを支える両親たち、
それに何より、昔から気位の高い祖母に
一人ではお風呂はおろか
排泄もままならないような生活をさせるのは
あまりにも酷いことのように思える。
治る、治らないではなくて
患者本人と周囲の人間の
今後の生活、そのものの問題だった。
だからこそ医師は、家族でちゃんと
話し合って決めるように促している。
あたしは祖母の孫として、
両親の娘として
それから、看護師として
よく考える必要があった。
あたしは自分の胸に、手を置いた。
場合によってはしばらく
カオルさんの元へ行けなくなるかもしれない。
淡い印。
このまま、消えないでほしい。
あたしは心から願った。




