鬼縁町での日々/2
屋敷に戻り玄関を開くと、見知らぬ靴が一組、綺麗に並べられていた。
スーツに合わせるような黒靴で、同じ黒でも雨宮のそれとは方向性が真逆だ。
「客かねェ」
すぐ近くで綺麗に並べられると、散らかすとすげぇ罪悪感あんだよな、と。ぶつくさ言いながら自分の靴を揃える。
そうしている間に、帰宅に気づいたらしい女中がぱたぱた、きゅいきゅいという足音を立てながらこちらに向かってきた。
年の頃は三十半ば、といったところか。平均よりやや肉付きがいいものの、肥満というよりふくよかといった感じだ。
名を古川苗と言い、使用人たちのリーダー格らしい。
らしい、というのは――だ。
「お帰りなさい雨宮さん。お風呂にします? ごはんにします? それとも……私ですか?」
「お風呂でメシ食いながら、同時に苗さんを食いたい気分だねっ」
「きゃーん、なんというワイルドっぷり。これが酒池肉林なのねーっ」
噂好きの主婦とはどこか違う、独特のノリでかつ陽気な人だからだ。
悪い人間ではないが、あまり――否、全く――地位が上の人間には見えない。
「……お前らは一体何を言っているんだ」
頭を抱えたくなる会話だが、残念な事に私には抱えるべき頭が存在しない。
唯一の救いはこの屋敷が異法士の物であり、そこで働く者たちがオカルト能力に理解がある事だ。せめてツッコミぐらい入れないとやってられない。
「まあ、メシは晩に頂くとしてだ。苗さんはまあ……俺にゃ勿体ないので遠慮して、所望するとしたら風呂かね」
「はいなー、もう湯を張り始めているのですぐ終わりますよー。あ、今日はお客人が来てるので、旦那様の部屋の近くで騒がないようにしてくださいね」
「オッケー……つっても、俺オッサンの部屋知らねぇけど」
「雨宮さんの部屋付近は大丈夫ですよ……たぶん」
不安にさせるような事を言い置いて、とてとてと廊下をきゅいきゅい鳴らしながら去っていく。
自室にバッグを置いて私を引き抜くと、ゆっくりと風呂場へと向かう。
「……私を連れて行く意図は?」
言うまでもなく私は刀剣であり、入浴の必要性など絶無である。
「俺の危機を教えなかった罰だ。脱衣所で一人寂しく俺が気持よくなってるのを見ているがいい!」
風呂に入れるお前を羨ましいなどと思った事は一度としてないぞ、と言いかけて止める。これで別の罰とやらを与えられても面倒だ。
脱衣所に着いた瞬間、私は脱衣籠に放りこまれ、その上にバサリバサリジャリジャリと黒服やら銀のアクセサリーやらがぶちまけられる。
……さっきの言葉、言っておいた方がよかったかもしれない。
無機物とはいえ、男性の意思を持っているのだ。男の洗濯前の衣服が体に纏わり付く現状は、少々、いやけっこう、いやいや正直かなり――嫌な気分にさせてくれる。
「雨宮、お前知っててやったな……?」
「当たり前だっての、刀が風呂入って錆びたらどうする」
「さすがに風呂の水で錆びると思われるのは心外なのだが」
一応、現在村を闊歩する鬼と同質の幻想という存在だというのに。
「知るか。俺がサッパリする間、ずっと俺の汗臭さに包まれるがよいわ!」
タオルすら巻かず丸出しのまま、フハハハハと笑う姿は滑稽ではあるが、そんな姿の奴に笑われているのが私自身だと思うと唐突に真っ二つに折れてしまいたくなる。
私の屈辱が伝わったのか満足そうに頷いた雨宮は、風呂に繋がる戸を勢い良く開いた。
内部は思ったよりも広かった。檜風呂を模した作りで、小さな旅館を連想させる。
だが、私がそれを体感する事はない。別に体感したいとは思わないが、童子のように「うっひょー、やっぱ広ぇなここー!」とはしゃぐ雨宮を見ると少しだけ羨ましいと思ってしまう。これもあいつの作戦か。
「……風呂に入っているのが、せめて女性ならな」
風呂桶から水を流す音も、体を洗う音も、それを洗い流す音も、湯船に入る音も。
女性ならそこから想像を巡らし楽しむ事も出来たというのに。男でも可能ではあるが、楽しくはないだろう。
全く、と小さく呟いていると、きゅいきゅいという音がこちらに向かって来ている事に気づく。
あの女中だろうか。シャンプーだか石鹸だかをわざと風呂の中から排除し、「すみませーん、石鹸出すの忘れてま……きゃ! たっ、逞しい……!」みたいな茶番をやる気なのだろうか?
そこまで考えて、ふと、何か重要な発言をスルーしていたような気がしてきた。
「……む?」
考えてみれば。
あの女中はなぜ、まだこんな明るい時間に湯を張り始めていたのだろうか。
夕飯前に風呂に浸かる習慣だったとしても、あまりにも早くはないか? せいぜい今の時間は、学生が帰宅するくらいの――
「はっ」
瞬間、点と点が繋がり線となり、真実が示された。
しかし、襲い来る危機を回避するには、それは少々遅知恵過ぎた。
「おっふろー!」
瞬間、ブレザーを身に纏った春香嬢が脱衣所に飛び込んできた。
優等生らしい淑女の微笑みでも、雨宮を睨む剣の如き剣呑さでもなく、花開くような満面の笑みで、である。
一瞬、「ああ、彼女もこんな表情が出来るんだな」とその笑顔に魅せられていたが、すぐさまそんな事をしている場合ではないと思い直す。
「待――」
て、と忠告する暇もなかった。ああ、圧倒的に速さが足りない……ッ! 圧倒的にスロウリィ……ッ!
後ろ手で脱衣所のドアを閉めながら、空いている手でスカートのチャックを開く。ぱさり、と床に落ちるスカートを片足でぽーん、と脱衣籠に――今現在、私が埋まっている場所に放り込んだ。柄に引っかかるスカートの感触は、別段特筆する必要のない布の感触なのだが――
「――……」
まずい。
色々と、本当に色々とまずいような気がする。
ここで下手に声を出そうものなら、私は翌日海の底で魚につつかれる生活が待っているかもしれない。
だが、ここで何も言わないのもまた、問題なのではなかろうか? これではまるで覗きではないか。
「やっぱり、六時間目に体育ってのは便利でいいね。すぐにお風呂に入れるし」
ああ、習慣だったのか……!
もし今日だけの気まぐれで、あの女中に風呂が湧いているかとでも確認してくれれば雨宮の存在に気付けたというのに! というか、既に脱衣箱に服が入っている事になぜ気づかない……!
するすると慣れた手つきで制服の上着を脱衣し、それをまた脱衣籠へスローイン。
既に春香嬢は下着姿だ。
やや小柄ながらも女性らしい肉体を、飾り気のない白で覆っている。
――ああ。
私はようやく、先日の雨宮の言葉を理解した。
言わば、裸身と下着の関係は、剣士と刀の関係に等しいのだと。
剣士が素晴らしければ、たとえナマクラであろうと常人以上の働きを見せる。だが、拳だけで剣士が実力を発揮出来るのか? 答えは否、断じて否だ。
故に、たとえ下着に飾り気がなく、どちらかと言えば地味な装いであろうとも――春香嬢が身に纏えば、他者がどんな下着を身に纏おうとも勝つ事は不可能なのだと。
見よ! 肌に貼りつく純白を!
見よ! 汗ばむ事によって下着の上から薄く見える肌色を!
見よ! 束縛から開放される事を今か今かと待ち望んでいる乳房を!
ああ、雨宮。雨宮よ。やはりお前は私の相棒なのだ、私が知らぬ世界を広げてくれる!
「よっ……と」
春香嬢の両手が背中に回される。
外すのか、外すのだな。神秘のヴェールが開かれようとしているのだな。
こうやって隠された聖域の開放を今か今かと待ち望むのもまた、衣類あってこそのモノ。なるほど、ああ、なるほど。確かに私は男の――いいや、人間の理解が絶望的に足りてなかった!
「うぇーい! どうだ汗臭く待ってやがったか相棒ー!」
「空気読め貴様ァァアアアアアッ!」
体から湯気を立ち昇らせながら戸を開けた雨宮に対し、思わず怒鳴った私を、一体どんな男が責められるというのだろうか?
「――へぅえ?」
それは、急変する事態に思考が追いつかない少女が漏らした吐息らしかった。
背中のホックを外す寸前の、両腕を背中に回したポーズ。
見に纏う下着も露出した肌も何一つ余すことなく見せたまま、否、むしろ見せつけるような体勢で春香嬢の時間は完全に静止した。
「お、おぉう」
雨宮もまた、風呂上りに雪原に放りこまれたような形で氷結していた。
無理もない、無理もないが――しかし。
それでも凍るワケにはいかぬと、我にはまだ使命があるのだと己を主張する存在があった。
それは、生まれ落ちた時から男性と共にあるモノである。
松茸、
人参、
とにかく長くてそこそこ太いモノ全般に喩えられるそれは、脱衣所という狭い世界で直立し叫んでいた。
俺を勃たせたという事は攻めこむべき城があるというのだな、と。
安心しろ、今すぐにでも攻め込み城門を撃ち貫いてみせようぞ、と。
それはなにだ?
それはナニだ。
「――ひゃおわうあああああ!」
悲鳴と怒声が混じり合った素っ頓狂な声音で。
羞恥と怒りが混じり合った顔の赤さで。
春香嬢は脚を跳ね上げ、顔面に足を叩き込んだ。
「ごぼふぅぅ!」
軽い身体能力強化でも掛かっていたのだろうか、勢い良く跳ね上げられた雨宮はびたーん! という音と共に湯船に叩きつけられた。しばしの沈黙の後、ぷかりと浮かび上がる。……仰向けでよかったな、うつ伏せだったら溺れているところだ。
湯船に突き刺さる伝説の聖剣が如く目立つそれから目を逸らした春香嬢は、キッ、と脱衣籠を睨んだ。
……な、なぜ、そこでここを見るのだろうか……?
「黙ってても無駄よ。アンタ、さっき思いっきり叫んだじゃない」
「ふ、不覚……ッ!」
――それからおおよそ一時間。
「あー……まあ、なんだ。お前たちは一体何をしているんだ?」
「いや時雨崎よ。これにはそこの湯船ぐらいには深い訳があるのだ」
「さして深くはないんだな」
「ああ――うむ、まあ、とりあえず引っこ抜いて頂けないだろうか……?」
客の対応を終えて一風呂浴びようかと思ったらしい時雨崎に助けられるまで、私は排水口の中に突っ込まれたままだった。