鬼縁町での日々/1
昼頃にようやく雨宮は目覚めた。
ガリガリと頭を掻き毟ると、思い出したかのように私に視線を向ける。
「……おっす、おはよ」
「おはよう。もっとも、明確にこんにちはの時間だがな」
そうかにゃー? と気の抜けた返事をしながら、雨宮はのたのたと起き上がった。
寝ぼけ眼で廊下に出ると、剣道着を着た時雨崎と出くわした。大方、鍛錬を終えてシャワーでも浴びるつもりなのだろう。
「お早いお目覚めだな、雨宮宗平」
「そう言ってくれなさんな。あれだ、朝メシ代を浮かしてやろうっていう、親切心的な何かだよ」
的な何かとはなんだ、と時雨崎はかつかつと笑った。
「そういう事にしておいてやろう。食事はどうする? 使用人に作らせるか?」
なんというブルジョワジーな発言……! と雨宮が慄く。まあ、この規模の屋敷だ。居ても不思議ではないだろう。
「……や、今日は止めておくわ」
「遠慮など犬に食わせればいいぞ?」
「残念だ、エサにできるほど持ってねえや」
その物言いに時雨崎は「ははっ」といい笑顔で笑う。
「くくっ、すまんな。ここの家主としても、協会の異法士としてでも、そんな物言いをしてくる奴は珍しくてな」
不可思議そうな顔をした雨宮にそう告げると、ゆっくりと足を前に進めた。それに従うように雨宮も続く。
「だーろうわなぁ。俺がもうちょい臆病ならこんな風に喋らないと思うぜ」
「それが普通なのかもしれんが、全く七面倒な事この上ない。もっと気楽な付き合いをしたいものだ」
もっとも、無理なのかもしれんがな、と寂しそうに笑う。
だが仕方の無い事である。この広大な屋敷の主にして、二つ名を持つ少女の父だ。
長いモノに巻かれたがるのは日本人の気質なのだから、長いモノの最たる例の彼を相手取って下手に出ない者は少ないのだろう。
「そういや、アンタはなんで夜ん時に外に出ねぇんだ?」
ふと、雨宮がそんな事を口にした。
不躾な質問ではあると思うが、同時にもっともな質問でもあると思う。二つ名の父である異法士が、協会の助っ人が来てもまだ動かないというのは妙な話である。
その時、僅かに時雨崎は痛みに耐えるような表情を浮かべた。
「老い、だよ。技術はいくらでも積み重ねられるが、体はどんどん衰える。体をどれだけ鍛えようと、脳が衰え反射的な行動が年々鈍くなっている。これでは、娘の足手纏いだ」
もっとも、これは娘には言ってないがな、と。先程の表情とは裏腹の快闊な笑みを浮かべる。
ではな、と時雨崎は背を向けた。
「……なんだろうな」
時雨崎の言葉は、どこか嘘臭かった。
しかし、それは私たちを陥れるような嘘ではないだろう。自分を納得させようとした、そんな嘘の臭いがした。
◇
「そこでバスに乗ってここまで来たわけよ。まあ、あそこん家のお嬢ちゃんにだいぶ嫌われちまったけどさっ。やっぱ、こういう格好って真面目な奴に受け悪くてさ」
十分ほど歩いた場所にある商店街で、雨宮は暇そうにしていた四十代前後の女性と語らっていた。
初めは興味津々かつ紛れ込んだ異物を怪しむように見ていた彼女だったが、雨宮が語りだすと思いのほかすんなりと会話に花を咲かせる。
もともと話し好きというのもあるのだろうとは思う。だが、雨宮自身、こういった見知らぬ土地に溶け込む事を得意としているのだから、この流れは必然だったのかもしれない。
「春香ちゃんも真面目だからねえ。けど嫌わないであげてね、ちょっと迷信深いところがあるけど親切ないい子なんだから。この間だってそうよ。私が買い物帰りの時に買いすぎてねぇ、重たい買い物袋を引き摺って帰ってたら、ひょい! と持ち上げて『家まで持って行きますよ』ってねぇ!」
きっと細マッチョなのね! と言っているが、奥方よ、それは女性に対する褒め言葉ではないだろう。
「嘘!? マジでそんな優等生タイプ!?」
「マジもマジマジよ。まあ、そういう子だからチャラそうな男の人と同じ屋根の下ってのは抵抗あるんじゃないかしら?」
真面目な子には受けが悪いでしょうしねその格好、と笑う彼女に、雨宮は大仰に肩をすくめた。
「本人の目の前でチャラ男ってよく言うな、おねーさん」
「まあまあまあ! お姉さんなんて、都会の子ったら上手ねぇ」
「いやいや、ホントにホントに。やっぱこういう綺麗な空気の場所に住んでると、女の人も綺麗になるんだなって思ったもンなァ!」
……いつの間にか、雨宮の周りは熟女で溢れかえっていた。
一人と楽しげに話すと、その知り合いが集まり、その知り合いと話すと別の知り合いが来て――と、連鎖でもするように集まってくる。
動物園のパンダでも見るような集まり方に雨宮は小さく苦笑していたが、閉鎖的よりはマシだと思い直したのか口と喉、そして脳を最大限に使って会話に専念していく。
「でも宗平ちゃんも悪い時期に来ちゃったわねえ」
不意に、一人の熟女が同情的な言葉を口にした。
「ん? なんかあんのか?」
一瞬、雨宮の瞳が鋭くなった。
しかし、すぐさま軽薄な笑みに戻る。
「聞いたことなぁい? 鬼が出るって話」
「えー、鬼とかちっとばかし時代錯誤じゃねェ?」
「それがホントなの! みんな祟りか何かじゃないかー! って噂してるのよぉ」
「そうそう! あのデパートが建ってからねぇ。あのデパートは便利でいいんだけどね!」
「元々はあの辺りに神社があったのよ。なんでも、代々鬼を封じていたとかいう話。そんなの全く信じてなかった、どころか最近知ったくらいだけど、あれからよねぇ」
「道路がひび割れてたりするんでしょう? 重機か何かの跡じゃないかって話だけで、あれはきっと鬼の仕業ね」
「ついでにわたしの体重が増えたのも鬼のせいね」
「息子が反抗期なのも鬼のせいね!」
「ダイエット中なのに日本酒が美味しいのもきっと鬼の仕業だわ! 日本酒は太るのに……!」
「鬼だわ! 鬼の仕業だわ!」
「おねーさん方、後半自分の都合の悪いこと鬼のせいにしてるだけだよね!?」
主婦たちが語るそれらは、有用な情報とは言えない。どうあっても噂話の域から出ないものだ。
だが、幻想という観点から見れば、その噂話も馬鹿には出来ない。多くの人間が語った噂、それらが形を成した存在が『幻想』なのだから。
……つまり、他人の体重を増やす鬼が産まれる可能性も微粒子レベルで存在する――の、だろうか? いや、ないな。
「サンキューな、おねーさん方」
愛想のいい笑いと共に去ろうとすると、こういった主婦の心理なのか何だか知らないが、飴玉やちょっとした菓子などを手渡される。
それを私を入れたバッグにしまいながら礼を言って、雨宮はようやく解放された。もっとも、私は逆に甘ったるいモノに包まれてしまったのだが。
「おばちゃんってなんで飴玉とか常備してンだろうな?」
「知らん。それよりもさっさと食え、バッグの中が甘ったるくなりそうだ」
へいへい、と飴玉をニ、三個ほど纏めて口に含む。それなりに幸せそうな顔で舐めてる姿は幼く、やはりこの男も二十代前半程度の子供なのだなと思う。
無計画な散策を続けていると、爽やかな風が吹きつける。春の風は強いが、同時に暖かく苦にならない。
「ん……? ありゃぁ……」
不意に雨宮が呟く。
視線の先を追ってみると、そこにはこの地では初見の、けれどもそれなりに見慣れた建物が存在していた。
鉄筋コンクリート製の三階建てであり横に長い。その背後には大体同じ構造の建造物があり、渡り廊下で繋がれている。そして屋上のほんの少し出っ張った部分に大きな時計が備え付けられていた。
「学校、か――なっつかしいねぇ」
どこか遠くを見るような目で呟く。
大学という教育機関に所属していない雨宮にとって、目の前の高等学校は風化し始めた学生の記憶を思い起こされるモノなのだろう。
吸い寄せられるように近づくと、女の声とそれを叱咤する男の声が聞こえてきた。
都心部に比べてだいぶ広いグラウンドを、ブルマー姿の女子高生が必死に走っている。今は大体、六限の始めくらいだろうか。気だるそうにしてる者も多いが、昼食前に走らされるよりはマシだろう。頑張れ若人よ。
「絶滅したと思ってたけど、まだ残ってたんだな」
視線の先は女生徒の尻――正確にはブルマと呼ばれる紺色の体操着がある。
都心では大体ショートパンツがスパッツになっているが、あるところにはあるらしい。私たちの上司が知れば、とても悔しがりそうだ。『ああ、なぜ俺はそこに居なかったんだ畜生』――と血涙を流す真似をしながら。
「しかし――ああ、素晴らしいな」
延髄反射で言った言葉に、すぐさま「しまった」と思う。
にやにや、とからかうような笑みを浮かべた雨宮がバッグを後ろ手で叩く。
「無機物の癖して素晴らしい性癖をお持ちのようで」
「人が武器に機能美を感じるように、無機物が女性の姿に美を抱いて何が悪い」
「べっつにー」
……腹立たしい事、この上ない。
なにか文句の一つでもつけてやろうか、と思ったがすぐさま口をつぐんだ。
ん? と突然黙り込んだ私を不自然に思ったのか、辺りを見渡し――
「あっ」
濁点がつきそうな、濁った驚きの声だった。
「……そこで何をしている?」
――ジャージ姿の体育教師が、腕を組んで雨宮を睨んでいた。それはもうギラリと、変質者を見る目で。
考えてみれば当然な話だ。この辺りでは見かけない怪しい男が、学校の前で女子の体育を眺めている姿は変質者以外の何者でもない。
しかし、私は雨宮が言ったとおり無機物なので、眼前の男の眼中にはない。ざまあみろ。
「あー……ほら、散策っすよ散策。ここら辺、初めて来たもんで」
軽薄な笑みが他人との距離を詰める事はあるにはある。
が。今、この状況でそんな笑みを浮かべても、悪い印象しか与えない。
私の想像通り、体育教師の眉がが顰められた。
ついさっき奥方たちが言っていた言葉――『真面目な子には受けが悪い』……うむ、まさしく、だ。子という歳でもないだろうが、堅物という点は似通っている。
「それに……ほら! 俺、時雨崎って人の家で厄介になってるんですけど、そこのお嬢ちゃんが丁度高校生くらいなんすよ! だから、この学校なんじゃねーのかな、って思って眺めてた的なアレなんすよ!」
「時雨崎?」
焦りに焦った雨宮の言葉に何かが引っかかったのか、僅かに困惑するような表情を浮かべる。
「……来い」
腕を捕まれ、そのままグラウンドに引きずり込まれる。
ストップ! スタップ! 痛いって痛いって! という雨宮の叫び全て無視されていた。まあ、当然だろう。
「時雨崎!」
「先生、どうしたんですか?」
む。
突然去っていった教師を尻目に姦しくお喋りをしている女子生徒。その中から、見知った顔が出てきた。
ブルマー姿の春香嬢、である。健康的なふとももが最大限に露出し、胸元に書かれた名前とクラス番号などは豊かな山で大きく歪んでいる。
まさしく女性らしい姿だ。非常に素晴らしい。
「コイツが君の知り合いだと主張しているんだが……どうなんだ?」
「一体だ……、は?」
雨宮と目が合い、文字通り瞳を点とする。「よ、よう」となるだけフレンドリーに挨拶する雨宮。
二人の間に、しばし沈黙の帳が降りた。雨宮の額にじわり、と汗が浮く。
知り合いではある、が仲が良いわけではないのだ。
『いいえ、こんな人知りません』
ならまだしも、
『そいつ、わたしのストーカーなんです、困ってるんですよ』
などと言われたら破滅しか道が残っていないような気がする。
春香嬢は数秒ほど思い悩むように俯き――
「ふふっ」
あろう事か、雨宮に微笑みかけた。
「はっ!?」
私と雨宮の驚愕がリンクするのを感じる。
おかしい、ありえない、ホワイ? と。一般の人間が村を闊歩する鬼を見た時のような驚愕が私たちの体を突き抜けた。
「宗平さん、どうしたんですか?」
ソウヘイサン!? どこの異次元の言葉だ、私はいつパラレルワールドへの扉を開いたんだ!?
「え? ――あー、散策してる時に学校見えたから、お前もここで授業受けてんのかなー、と」
ガリガリ、ガリガリ、と普段よりも多めに頭を掻いている姿が雨宮の困惑っぷりを物語っている。
「あら、そうなんですか? でも、ダメですよ。この辺りって皆が皆知り合いなんですから、宗平さんみたいな他所の人が歩いてるとそれだけで変な目で見られちゃいますから」
気をつけてくださいよ、もー。春香嬢はウィンクなどをしながら、嗜めるように言った。
――本当に誰、だ。
目の前の少女は、春香嬢に似ているこの人間は誰だ!?
可愛らしい仕草ではある、愛らしい仕草ではある。
だが、初対面から今の今まで、こんな風に笑い合える関係になる要素など皆無だ。どうした、雨宮。私が眠っている間に、このいたいけな少女に何をやらかした!?
しかし雨宮といえば鳥肌と冷汗のフルコースで『私はこの人に対して非常に気持ち悪いという感情を抱いてます』というジェスチャーしており、とても友好を深めていたとは思えない。
「時雨崎さーん、その人だぁれ?」
「雨宮宗平さんって言うの。お父さんの実戦剣術の稽古相手に招かれているのよ」
クラスメイトらしき女子の言葉に、ふふ、と礼儀正しい優等生のように微笑む。その姿だけなら、非の打ち所もない大和撫子にも見える。
だが、違和感があった。これ以上ない、という程に。
「ああ、そうだ。宗平さん」
用事を思い出した、とばかりに春香嬢が雨宮に近づく。
ギリギリまで接近し、生徒や教師から死角になった瞬間――べろり、という音が聞こえた気がした。
顔に張り付いた笑顔の皮が剥がれ、不機嫌そうな顔が現れた。
「さっさと帰ってよ」
低く、重い声だった。
「ちょ、お嬢ちゃんさっきと態度違わね!?」
「あら、優等生って被り物、便利なのよ?」
猫かぶり、か。
他人に見えない角度で「しっし!」とばかりに手を動かす。
全く、いい根性だ。雨宮も似たような事を考えたのか、呆れを含んだ溜息を吐いている。
「まあ、迷惑かけた。……そっちの子たちも、縁があったらまたなー!」
いつも通りの軽薄な笑みを浮かべ、背を向ける。
わたしの知り合いに手とか出したらタダじゃおかねぇぞコラ――といった感じの刺すような視線には気づかないフリをしておく。
「ははっ」
その視線を受けながら、雨宮は心底楽しそうに笑った。
「どうした? 変質者に間違えられたのが、そんなに楽しかったのか?」
「アホか。……なんか、懐かしいんだよ。こう、先公に引き摺られたりフォローしてもらえたりとかさ」
その表情は楽しげだった。
けれど、それは今を楽しむモノではなく、楽しかった日々を懐かしむような――そんな儚さに近い感情を抱いた。