終章
「――ま、そんな所だ。報告が遅れたのも、そういうワケだな」
許してくれ、と対面に座る老婆に軽薄な笑みを投げかけた。
話を黙って聞いていた老婆――姫凪東子は表情を緩め「全く――」とぼやく。
「人騒がせな若造だねぇ」
神社を建造する土木作業員たちの声を聞きながら、修復の済んだ自宅のジビングで姫凪東子は苦笑した。
「そこは普通に、よく生き残ったなァとかいってくれねェかな」
出された茶で喉を潤しながら、不満気な声で言う。
――事件の解決から少々遅れたものの、約束通り事件の顛末を語り聞かせに来たのである。
「『妖刀が不完全で、結局魂を喰らい尽くせなかった』――だろう? 生き残ったというよりも、未熟故に死に損なったってだけじゃないかい」
「まあ、その未熟さで生き残れたわけだ。俺としちゃァオールオッケー」
言って立ち上がると、私が収められたバックを背負う。
「もう行くのかい?」
「ああ。第一、長居すると法子ちゃんに悪いだろ」
実際、菅野嬢――菅野法子を私が来るやいなや二階に上がり、リビングには一切顔を出していない。全く、嫌われたものだな、と思う。
それじゃあな、と軽く手を振って玄関へ。
外に出ると、外見は既に前と同じ――いや、前以上に豪華に見える神社の姿があった。傍から見ればもう完成しているように思えるのだが、内装やら何やらでやる事はまだ多いらしい。
――あれが完成すれば、もうここで鬼が暴れたという痕跡は全て塗りつぶされる。
故に、早く完成してくれと心より願う。菅野嬢からあの夜の記憶と、雨宮宗平がしでかした馬鹿げた行動の記憶を風化させるために。
「――――待って!」
不意に、上から声が降ってきた声が帰路につこうとする足を止めた。
しばしの沈黙。その後、ゆっくりと振り返り、声がした方へと顔を上げた。
菅野嬢が、自室の窓から顔を出し、こちらを見つめていた。
「……一応、文句や怒りなんかを受け入れる準備はしてるぜ」
「……」
返答は、ない。
何か言葉にしようと口を動かしているものの、それらは言葉にならず霧散しているようだった。
怒りのあまり言葉が出ない――そういう事だろうか。
「その……」
小さな唇が震え、小さく小さく、僅かに聞こえる工事現場の音にかき消されかねない音で呟く。
来るか、と小さく身構え――
「ありがとう、ございました」
微かに響くその単語を、一瞬理解できなかった。
「……あー、その、嫌味か何かだと思うんだが……悪い、上手く伝わってない。糾弾すンなら、ストレートにしてくれねェと本当に感謝してると勘違い――」
「勘違いじゃ、ありません」
凛とした声音で、私の言葉を否定する。
「確かに、失望はしましたけど――それ以上に色々したもらって。けど、やっぱりムカついて、お礼の言葉もずっと言いそびれて」
でも、つい最近まで言うつもりはなかったんです――と。
そう付け加え、私の目を見て語りかける。
「けど、事件を解決してから、しばらく意識不明だったって聞いて――少し、怖くなって。言うべき事も言えずに、その人が居なくなっちゃうのは」
ちょっと自分勝手な理屈でしょうか? と首を傾げる。
デパートでの事を忘れているワケではなく、それを許したワケでもなく――それでも、それまでにしてくれた事に感謝を、と。
全く――春香嬢にしろ菅野嬢にしろ、真っ直ぐで眩しい。自分の為だけに自分勝手を貫いてきた私たちとは違う、他者の為に勝手を通す精神。それを『余計な事を』と言う者も居るだろうが――私たちには丁度いい。
太陽のように輝き、照らし、自分では輝けない私たちに道を示してくれた。本当に――頭が下がる。
「『前に進むために迷うのはいいけど、迷うために迷うような生き方はしちゃ駄目ですよ』……だったか」
いつだったか、彼女に言われた言葉を口にする。
「法子ちゃんに会わなけりゃ、気づけなかった。こっちこそ、ありがとう。おかげでいい人生を送れた」
言った瞬間、菅野嬢がくすり、と笑った。
何かおかしな事を言ったか、と首を傾げると、
「いい人生が送れた――って、まだこれからじゃないですか。それをまるでもう終わったみたいに」
「ああ――」
そうか――そうだな。
「仕方ねェだろ、俺は正しい日本語使えるタイプじゃねェンだからよ」
言って、困ったように微笑んだ。
その仕草に、菅野嬢は「あれ?」と小さく怪訝そうな声を漏らした。
「ン? どうした?」
「あれ……すみません、なんかちょっと違和感があったんですけど……気のせいみたいですね」
「ならいいンだけどよ」
……さすがに長居し過ぎたな。
菅野嬢に背を向け、軽く右手を上げる。
「じゃあな」
「ええ、またいつか」
――僅かに口をつぐみ。
「ああ、またいつか――な」
それだけ答え、石段へ向かった。
◇
「よう、おっさん。会うのは久しぶりだな」
――白い病室。
清潔感と薬臭さに満ちたそこで、私と彼は対面していた。
時雨崎蓮児――片腕を失った彼は、白い寝台の上で上体だけ起こしている。
時雨崎は虚ろな声で問いかけた。
「……君は、なぜ自分を生かした?」
「俺がお嬢ちゃんから父親を失わせたくないと思って、お嬢ちゃんもまた失いたくないと思ったから――ただ、それだけだ」
時雨崎蓮児は娘と妖刀使いと共に潜んでいた黒幕と交戦し、勝利するも腕を失った――私と春香嬢がそう口裏を合わせ協会に報告した。
あの戦闘以来、鬼縁町に鬼が出現していない事実もあり、なんとか信じさせる事が出来た。一先ず、一安心といったところか。
……しかし、電話越しの私の上司が「そういう事にしておこう」と意味ありげに笑った事から、私たちが嘘をついた事は理解しているはずだ。
だが、嘘は嘘でも妖刀使いと二つ名持ちの嘘だ。
それを暴いて両者の感情を逆撫でするよりも、見て見ぬフリをし恩を売る方が得だと考えたのだろう。
「あれだけ最低晒してもまだおっさんを『大好きな父親』と認識してくれてるんだぜ、親子でちゃんと腹割って話せよ」
「……自分は、一体なんと言えばいい」
時雨崎は、俯き掠れた声で問う。
それは迷子になった子供の不安そうな声に聞こえた。
「昔のように心から娘を応援してやることもできない、力も無く嫉妬を隠すこともできない――こんな醜い自分が、どうやって娘と語らえばいい」
「その醜さをさらけ出しゃいいんだよ」
見舞客用の椅子に座り、時雨崎と視線を合わせた。
光のない、虚ろな瞳を睨みつけるように直視する。
「俺たちもそりゃ醜い者と物だったが……それで関係が壊れたりはしなかったぜ。てか、生き物なんて大概どっかで醜さを持ってるモンだろ。それを隠して理想を演じようってのは分からない話じゃあねェけど、家族相手にそれをやり通そうとするのは、無茶が過ぎってモンだ」
醜い心を持っているモノが他者との関係を築けないのなら、私や雨宮はこうも長く相棒としてやっていけなかったはずだ。
誰かと接するということは、その醜さを直視しぶつかり合いながら互いを受け入れることだろうと思う。
雨宮と春香嬢もそうだ。春香嬢とて雨宮を聖人君子だと思ったから好いたワケではない。気にすれば気にするほど見えてくる醜さを理解し、それでも関わろうと思いぶつかったのだ。
「喧嘩もするだろうし、上手くいかないことは多々とあるだろうが――互いにちゃんと愛し合っていりゃあ問題ねェさ。少なくとも、お嬢ちゃんは意見が合わないからって他人を切り捨てるような思慮の浅い人間じゃねェよ」
それだけ言って、私は病室を出た。
これ以上、私に出来ることはないだろう。
◇
――――事件は終わった。
最良の結末、とは口が裂けても言えないが、それなりに上手く纏まった方だろう。
無論、私たちの位置にもっと出来た人間が居れば、最良とは言わずとももっと良い結末を迎えられたのかもしれない。
けれども無い物をねだってもしょうがない。理想は理想であり、現実は手元にある手段や人員でどうにかせねばならないのだから。
「本当に――春香嬢には頭が下がる」
荷物を纏めながら辺りを見渡す。当初は私と大きめのカバンくらいしか私物のなかった客間は、細々とした私物が散乱している。雑誌やら漫画やら――夜の仕事があるとはいえ、ヒモかニートか穀潰しの部屋にしか見えん。
もっとも、これが私室であれば食べ終えたコンビニ食などが畳の上に散乱していた事だろうが――さすがに客という立場を弁えていたらしい。
「いや――そもそも、この辺りにコンビニが無いからな」
物が無ければ散らからない――つまりはそういう事か。
雑誌などは後でゴミに出そうと思いながらカバンに詰め、立ち上がった。
きゅいきゅいと鳴る廊下に足を踏み入れ、一度だけ振り向く。
――そこにあるのは、かつて春香嬢に案内された時に見た客間。雨宮宗平という人物の痕跡が失せたそこを見て、時間が巻き戻ったのではないかと思う。
「全く――益体もない妄想だな」
戸を締め、玄関へと向かう。
見慣れた廊下を歩む最中、見慣れた割烹着姿が見えた。古川苗だ。
「もうお帰りですか? 別に、もう少し滞在していったも構いませんよ?」
「そう言われっと首を縦に振りたくなンだが、そうしたら最後、蹴り出されるまで居座りそうでな」
「そうですか――寂しくなります」
「おっさんこれから――仕事も生活も大変だろうからさ、支えてやってくれよ」
「さー、それはどうでしょうねー、金の切れ目が縁の切れ目、ここはお嬢様に媚を売る方がいいのではー」
「悪女だなァ、オイ」
「少しくらい黒い方が魅力的ですからー」
けらけら笑う彼女を見て、小さな笑みが漏らした。
今後時雨崎が屋敷に帰り、春香嬢と対面するその時も――彼女が居ればなんとかなるだろう。
ぎくしゃくとする二人を取り持つ潤滑油として、屋敷を奔走する姿が目に浮かぶようだ。
「……でも残念ですねー」
「ン? まだ何かあったか?」
「何言ってるんですかー。むしろこれがメインディッシュでしょう――お嬢様ですよ、お嬢様」
「ああ――」
「お嬢様、ここ最近は雨宮さんの事を避けてるようで――何があったかは知りませんが、最後の見送りくらいはと思っているのですけども」
何かあったんですかー? と首を傾げる古川苗に、
「ねェよ」
言い切る。
「何も――な」
◇
「ふう――」
古びたバス停のベンチに腰掛ける。ぎし、と軋む音を聞きながら錆びた時刻表を眺めた。
次のバスまで後、三十分程。待つには辛いが、今から時間を潰しに出かけるには短すぎる。
少し前ならばすぐ近くのデパートの中でウィンドウショッピングなどを出来たのだが、
「……次来る時は、中の店舗は総入れ替えかもしれんな」
シュタルク――三島正平の死後、あのデパートはリニューアルという名目で多くの店を有名チェーン店に差し替える事になったらしい。
元々、あそこは採算が取れていなかったのだろう。だが、トップであるシュタルクの言葉で維持されてきたが、彼亡き今はそのような負債を背負い込む気は無い、という事なのだろう。
それを当然だと思うのと同時に、雨宮と春香嬢と巡ったあそこが失われるのは酷く悲しい事実だと思う。
「ここに居た時間は濃密だった――ずっと前からここに住んでいた錯覚する抱く」
雨宮と二人で空回り続けた日々が無為だとは思わないが、それでもこの地での日々に比べれば水で薄めたようなものだ。自然と、この町に愛着を抱く。
だが――駄目だ。
俯き、唇を噛み締める。
私はここに居てはならない。
本来なら、最後の仕事を終えた瞬間にでも、この地を離れなければならなかった。
「随分と陰鬱な顔、してるのね」
似合わないわよ――と。
慣れ親しんだ声を、聞いた。
「あ――」
顔を上げる。
そこには、桜色のワンピースを着た、ポニーテイルの少女が一人。
――ああ、初めて会った時と同じ格好だ。
彼女の――時雨崎春香の登場に驚くよりも、そんなくだらない思考が頭を過ぎる。
「春――お嬢ちゃん、か。一体どうしたんだ」
「最後くらい見送りすべきでしょ? 宗平には色々と世話になったからね」
「ここしばらくのスルーっぷりは、世話になった奴に対するモノとは思えねェけどな。あれか? ツンデレってやつか?」
「くだらないことを言わないの」
悪ィ悪ィ、とひとしきり笑い、彼女の顔を見る。
その表情は、軽口を言った後にしては寂しげで、今にも泣き出しそうに見えた。
「ねえ――」
小さく、春香嬢が呟く。
「この町に残らない? わたし――ね、宗平、貴方のことが好きみたい」
告白は、その内容とは裏腹に、酷く悲しく響く。
長年ベッドに横たわる少女が、いつか外を駆けまわりたいと呟いた時のような――叶わぬと知りつつも呟いてしまった願いのよう。
「……悪ィけど」
それに応えてあげたいと、願いを叶えてあげたいと思いながら、私はそれを否定する。
「これから忙しくなるからな――ちっとばかし無理そうだわ」
悪ィな、と。
叶えてやりたい願いを、しかし叶えられぬのだと、自分にそして春香嬢に告げ、笑った。困ったような、そして軽く、けれど苦い笑い。
「あ――」
その仕草を見て、春香嬢は量の瞳からしずくをこぼした。頬を伝い、アスファルトに叩きつけられていく。
「そっか――」
悲しそうに、そして諦めるように、
「やっぱり――――宗平はもう居ないんだね」
掠れた声で、呟いた。
ざあ、と『血の気が引くのを感じ』た。
「は――ハァ? オイオイオイ、何言ってンだお嬢ちゃん。俺はここに――」
「貴方は身近で、けどあまりに身近過ぎて、この癖を見過ごしてたのよ」
春香嬢は右手を頭に載せ――
「宗平はね、『困った』と思った時、『何かを誤魔化したい』と思った時はこうやって頭を掻くの」
ガリガリ、とその頭部を掻いた。
「あ――」
さあ、と血の気が引いて行くのが分かった。
冷えていく体を温めるのだと言うように、心臓はドクンドクンと脈打つ。
「わたしがあの夜、父さんと宗平が会う事に気づいたのはなんでだと思う?」
しずくを滴らせながら、隣に座る。ぎし、という音がどこか遠くで聞こえる錯覚。
「車で遊びに行ったあの日。電話の内容を聞いた時、こんな風に頭を掻いたのよ。困ったな、なんとか誤魔化さないと――とでも言うみたいにね」
だっていうのに、と。
春香嬢は雨宮を――否、私をじっと見つめた。
「お父さんとの戦いの後――どれだけ困らせる事を言っても、貴方はその癖を出さなかった」
ああ――なんて、失態。
「最初はたまたまだと思った。二回目は不安になった。三回目は――確信した」
けど、
「怖くて聞けなかった。『もう雨宮宗平は存在しないの?』なんて――怖くて、怖くて、ずっとずっと先送りにして、でも、それでも分からないまま終わらせたくなくて」
この場で、問うたのだ――と。
春香嬢は涙を絶やす事なく語った。
「ねえ、貴方――魂喰らいの妖刀。なんで宗平のフリをしたの」
「――相棒の、最後の願い。二つの内の一つさ」
もはや、雨宮宗平として喋る意味はなかった。
雨宮の体で、雨宮の口で、私の言葉を紡ぐ。
「『俺が死んだって事は内緒にしていてくれ。特にお嬢ちゃんには』……とな」
「なん――で」
春香嬢の体に満たされた悲しみ。それがぽたり、ぽたりと瞳から溢れた。
その姿を見て、私は己の無力さと無能さを感じながら掌を眺めた。それはかつて雨宮の掌であり、今は私が操る掌だ。
それを強く握り締める。失ったモノを、噛み締めるように。
――――雨宮宗平という男の人格は、魂と共に消滅した。私が、喰らい、食し、飲み込んだ。
「ハッピーエンドで終わらせたかったんだ、雨宮は」
だが、あの魂喰らいは私が劣等であるために、雨宮と私の意識が混濁するという事態が起こった。
私の刀身に雨宮が混ざり、雨宮の体に私が混濁した――その状態で雨宮宗平は消滅したのだ。
だが、雨宮の体に混ざった私は消えずに残り、結果、私は雨宮宗平と刀という二つの器を得る事となった。
……雨宮は、意識が混濁した時点で、自分が消滅した時こうなると理解したのだろう。だから、私に『雨宮宗平のフリをして欲しい』と頼んだ。
「父親が戻ってきた。異邦人は去る――それでこの地の物語を終えたかったんだ」
そうすれば、後は父親と歩み寄って――互いに喧嘩でもしながら理解していけばいい、そう思っていたんだ。
そう、最期の瞬間まで魂が繋がっていた私には、雨宮の想いを感じていた。
――自惚れで無けりゃ、俺が死んだらお嬢ちゃんは悲しンじまう。
――だから、頼むぜ相棒。
「なに――よ、いい歳して悩み腐ってた癖に、最期だけそんな風に覚悟決めて……! これじゃあ」
宗平は何も報われないじゃない――と。
苦しんで苦しんで、結局死んでしまうなんて――そんな結末はあんまりだと。
涙の粒を大きくしながら喘ぐ。
「それは違う」
その涙を拭ってやりながら、私は毅然と言い放った。
「確かに雨宮は消滅した。だが――何も報われてないわけでは、断じてない」
――そうだ。
確かに死んだ。魂を喰らわれ、消滅した。死が訪れた。
だが――それがバッドエンドだと、誰が決めた。
死の直前まで繋がっていた私には、雨宮の心がよく分かる。
「あいつは、ずっと迷っていた。復讐心と正義感の二つに挟まれ、延々と足踏みをしていた」
それは、暗い暗い汚泥の底へと泳いでいるようなものだ。
泳いでいればいつか水面に出られると、そう信じながら沈んでいた。
「だが、春香嬢。お前が雨宮に道を示してくれた。長い長い冬を、終えてくれた」
どこまでも真っ直ぐな声が、雨宮宗平が真に何を求めているのかを教えてくれた。
その結果、雨宮は死に近づいた。ならば、言わねば良かったか?
――否。否、否、否! 断じて否だ!
汚泥の中を泳ぎ続ける人生で天寿を全うしたとして――それが幸福な結末など呼べはしない。
「そんな春香嬢の為に命を使えたんだ。あいつは――何一つ後悔などしてはいない」
己のやりたい事に、やるべき事に気づき、それを成して逝った。
早すぎる死? 生きていれば違う道もあった? そんな言葉、反吐が出る。
「惚れた女を幸福にしたい――そう願い、成し遂げて死したのだ。ならば、これはハッピーエンドだよ、春香嬢」
「……何がハッピーエンドよ。結局、わたしを泣かしてる癖に」
「それは私の不始末だ。……全く、最期の願いすれまともに叶えられぬとは、私はつくづく劣等だ」
道路の果てを眺めると、こちらに向かってくるバスの姿が見えた。
もうそろそろ、時間切れのようだ。
「それで、もう一つの願いって?」
「ああ、それは」
バスが停車する。数時間に一本のバスだというのに、降りる人間は居ない。乗る人間も、私一人だ。
「――『お前には世話になったかンな。手間賃代わりに俺の体を好きに使っていい』だと、さ」
立ち上がる。
これからどう生きるのかなど、まだ考えていない。
だが、真っ直ぐに生きようと思う。信じた道を、ただただ一直線に。
バスに乗り込み、窓を開ける。バス停でこちらを見上げる春香嬢に、私は微笑んだ。
「それではな、春香嬢。良き人生を」
「……ええ、そっちも。嫉妬した宗平が地獄から怒鳴りつけてくるくらいにね」
バスが発車する。タイヤが回り、前へ、前へと進む。
私は彼女の姿が見えなくなるまで、ずっと、ずっとその姿を眺めていた。
「さて、と――名残惜しんでいる暇はないな」
これから、上司から色々と仕事を回されるに違いない、黄昏れている暇などありはしない。
これが物語なら春香嬢と別れた時点でピリオドを打つのだが――生憎とここは現実で、まだまだ続きが待っている。
「だが、それでいいさ」
きっとそれが人生なのだろう。
死が訪れるまで続く物語。それをどう描くかは私自身だ。
「面倒もあるだろうし、嫌な事をもあるだろう」
だが、それ以上の幸福を得るために死力を尽くそう。
――――さあ、良き人生を歩んでいこう。