偽りの終幕/2
それから数日ほど、事件の原因を探す『フリ』を続けた。
無意味な事とは思わないでもないが、しかし一度任された事をたった一日ですっぽかすのもどうかと考えたのだ。
菅野嬢や老婆と時雨崎家両名を天秤にかけ、後者に重きを置いた私たちがそんな事を考えるのは非常に偽善的だとは思う。
しかし、偽善だろうと救われるのなら構うまい。たとえそれで救われるのが本人だけだとしても、だ。
「色々お世話になってるけど、今週の土日終わったら帰るよ。さすがにそろそろ報告しに帰らねェとマズいしな」
金曜日の夕刻。早めの夕食から僅かな間を置き、時雨崎の部屋を訪ね言った。
協会に渡す為の資料を作成していた時雨崎は、仕事を中断させられたというのに嫌な顔ひとつせず、私たちの会話に付き合ってくれた。
そうか――と時雨崎は腕を組み残念そうな声を吐き出す。
「君が居てくれると娘も楽しそうだからな、可能ならもう少し居て欲しいモノだが……」
「さすがに仕事もやんねェでずっと過ごすのは肩身が狭いって」
ま、そう言ってくれンのはありがてェけどな――と肩を竦める。
「仕方ないか――だが、時々こちらに顔を出してくれると嬉しい。世辞や建前などを抜きにして、君の事は気に入っているからな」
「ありがてェなホント。けど、前言った通り妖刀使いは廃業だかンな。こっちに来るとしても再就職決めてからじゃねェと」
嫌だ嫌だマジ生々しィんだよ、と苦笑する。
「君が望むならこっちの仕事を何か用意するぞ。こちらの協会支部にも力仕事もあるからな、異法を知っている若い男が来てくれるとそれだけで助かる」
「ああ――おっさん、確かに最近大人気だしな。その手の人事にだって口添え出来るワケだ」
少し前からは想像もできない大躍進に、鬼縁町の協会支部は大騒ぎだ。
自分たちが軽んじていた相手が事件の黒幕にトドメを刺し、その後の事後処理すら先んじられている。その為、鬼縁町の協会支部の責任者を時雨崎にするべきでは、という話も出ているらしい。
――もっとも、裏技めいた力を使っているのだが。
だがそれも、正しい方向に使う限り問題はないだろう。
「だけどよ、こっちに来てからアンタら親子には頼りになりっぱなしだ。さすがに『じゃあ、早速お願いします』ってのはどうかと思うワケでよ」
もっとも、ダメだったら遠慮なく頼るからな、と快活に笑う雨宮に時雨崎は同じ色の笑みを浮かべた。
「君が自分たちに感謝している事は分かった。ならば、君が感謝する時雨崎家の家主としてお願いがあるのだが――聞いてくれるか?」
雨宮の表情が僅かに引き締まる。
――さて、どうくる?
今のところ正しい方向でシュタルクの力を使っている時雨崎ではあるが、それが仮初かどうかは心の中を覗けぬ我々には判別がつかない。
――ここで無茶な要求をして来た場合――
それは力に酔っている片鱗かもしれない。
自分の欲望のまま力を操る前兆かもしれないのだ。
あらゆる物事において実力を持った者が扱えるその『お願い』は、同時に「これを無視した場合、二度とお前を助けない」という脅迫でもある。
それが努力の末にたどり着いた実力であり、その力を扱う者もその重さを知っている場合は問題ない。彼らは自分が刻んだ努力の道筋を知っているため、それを汚すような真似を――安売りをしたがらない。
だが、突然力を得た者は違う。
望むままに力を使い、己の欲望を満たそうとする。異能者がいい例だ。彼らは努力してその力を得たワケではない。故に、突然身についた力に狂喜乱舞し好き勝手に行動する。だからこそ協会は異能者の保護と始末に全力を出すし、高い地位を与えたがらない。信用できないからだ。
無論、今回のお願いとやらが無茶なモノだったとしても、時雨崎が異能者と同じだという証拠にはならない。だが、前兆だと疑う程度には疑わしい。
そもそも――私たちどころか己の娘にすら内密に事件の黒幕と共謀していたのだ。知り合いでもなければ、とっくの昔に協会に報告している。
「聞きたいのは山々なンだけどな。けど、金ならねェぞ? あと、もう戦えないからそっち系も勘弁な?」
ちらり、と雨宮がこちらに視線を向ける。
――ああ、分かっているとも。
もしここで妙な事を言い出したのならば、適当に理由をつけて滞在を伸ばそう。場合によっては、そこらの民宿に行っても構わない。
そして、欲望だけで動く異能者と同じだと判断した場合――協会に連絡し抹殺してもらう。
それが今の私たちの最良だ。
無論、本来なら事件の黒幕と繋がっている時点で協会に密告すべきなのだが、それをするには私たちは時雨崎という人間を知りすぎた。春香嬢がどれほど父を好いているか知ってしまった。無害ならば、可能な限り見逃したい。見なかった事にしてやりたい。
正義とは程遠い、手前勝手な理屈ではあるが、それが私と雨宮の本心だった。
「なに、お願いとは――これの事だ」
そう言って時雨崎がポケットから出したのは――
「携帯電話……だと?」
若干古いタイプのそれは、電話とメールが出来ればそれでいい、他の機能は不要なのだ! と胸を張って宣言しているようにも見えた。
「……あー……、えっと、おっさんよう。機種変の仕方が分からねェなら教えるぜ?」
それをじっくり見つめた雨宮が搾り出すように言う。今にも「あー、ぐちぐちと悩んでた俺が馬鹿みてェな展開だなオイ」などと口走りそうだ。
「違う違う、娘に携帯の契約をさせたいのだが、その説得をして欲しいんだ」
「……あ? と、待て待て、ちょっと待ての二乗くらい待て! 女子高生の癖になんであいつ携帯の一つも持ってねェーんだよ!?」
「正直、娘は機械に疎くてなぁ……自分も詳しい方ではないが、説明書読みながらならば人並みには使えるというのに」
……考えてみれば時雨崎嬢はDVDやPC、それどころかテレビすら自分で動かしている姿を見たことがないな。
最近は学校の授業でも『情報』というPCを用いた授業があるというのに、一体どうやって現代日本で生活しているのか理解出来ん。
「だというのに、通知表で情報科目を5などという数字叩き出してなぁ」
「私が思うに、その数字を与えた教師は即刻解雇すべきだ、と進言すべきではないか?」
「いや、実際自分もこれはおかしいと直訴してだな」
本気でしたのか!
評価が低くて文句をつけるモンスターペアレントという新人類は知っているが、評価高くて文句つける奴なんぞ私は聞いたことがないぞ。
「ペーパーテストは満点。実践はそもそも他の生徒も遊び呆けているから、だそうでな」
故に、マウス一つ上手く扱えない彼女も真面目に取り組もうとしているから相対的には優秀――らしい。
テストは文字の羅列を記憶する感覚で丸暗記したのだろうな、たぶん。大丈夫なのか現代に生きる若人として。
「オーケーオーケー。そんじゃあ土曜日にでも一緒に行く――って、おっさんおっさんおっさんよ、そもそもこの町でケータイショップ見たことねェんだが」
「ああ、隣町の駅前まで行かないと無いな。車は貸すから、適当に行ってきてくれ」
「え」
体内の歯車が錆び付いて回らなくなったが如く、雨宮の動きが不自然な形で停止した。
「む? どうした?」
「実は俺、免許はあんだけど運転マトモにしてねェんだよなコレが。ペーパーってヤツ?」
「……都心の若者が車使わないというのは本当だったわけか。まあ、いい。潰すつもりで乗ってくれ。運転なんぞは、一台スクラップにする頃には慣れているモノだ」
「どこの国の誰の理屈!? てか、ぶつけても弁償できる貯金ねェぞ俺!?」
「心配するな。むしろ完膚なきまでに破壊してくれたら新車が買える。いや、前々からもう一台くらい、と思っているのだが娘に止められてなぁ……」
これだから田舎の土地持ちはァァァ――!
雨宮と私が戦慄しているというのに、時雨崎本人はというとその行動が心底理解出来んとばかりに首を傾げている。ブルジョワめ。
「あ……オーケーオーケー、心からの理解は出来なかったけど、とりあえず頭で理解した。あ、後で前言翻すんじゃねェぞ!? ホント金無いからな俺!」
「あ、ああ……?」
こいつなんでこんなに挙動不審なんだ? という視線を向けるものの、それを説明する言葉を私たちは持ってはいなかった。
「価値観違いすぎて説明できる気がしねェ……」
うむ。
奇遇だな、私も心の底から同意見だ。
「そこまで言うなら頑張るがよ。しかしなんでおっさんが着いて行かねェんだ?」
「ああ、それはな」
机の上に散らばった書類を一枚、こちらに向け掲げた。
「明日、協会の本部から異法士が来るんでな。自分たち支部の異法士総出でお出迎えさ。面倒だが、自分が本部に顔を出すことを断ったためだからな、致し方がない」
電話やメールで済ませられたら楽なのだがな、と困り顔のまま笑う時雨崎を見て、私はやはり彼が誰かを仇成すために力を使うとは思えなかった。
――ならば、これでいい。
雨宮もそう思ったのか、安堵の笑みを漏らしていた。
古川苗に春香嬢の私室の場所を聞いた後、きゅいきゅいと鳴る廊下を歩く。
外は既に太陽が落ち、夜の帳が落ちていた。本来ならもう少し早めに行くつもりだったのだが、古川苗がハッスルしたために時間を取られた。
「避妊は大事ですよー、とかな。いやま、俺がいきなりお嬢ちゃん孕ませたら色々マズい自体になりそうだけども」
「時雨崎が笑顔で一刀両断するかもしれんな。『君に残って欲しいと言ったが、そこまでの勝手を許すとは言った覚えはない。死ね』とな」
さすがにそこまで突飛な行動には出ないだろうが、場合によっては本気でするかもしれん。怖い。
「一刀両断で済めばいいよなァ。おっさんのスタイル二刀流だしよ、ズタズタに引き裂かれそうだ」
確かにな、と思う。
今の時雨崎がどれほど強くなっているかは分からないが、仮にシュタルクの半分程度の身体能力を得ていると仮定しよう。
――一瞬で敗北するだろうな。
私が貯蓄している幻想が山ほどあり、雨宮の体調も万全で、私の攻撃でダメージが通り、かつ雨宮がシュタルク戦の経験を生かしている――考えるだけ無駄な夢想ではあるが、その夢想の中ですら勝てる気がしない。
シュタルクは身体能力こそ鬼そのものであったが、しかし戦闘技術という面では完全に素人だった。あくまで借り物の力をそのまま扱っているだけだ。
しかし、時雨崎がその力を扱えば――きっと、鬼の力を人間の技術と併用して扱うだろう。
前に軽い手合わせをした時の事を思い出す。足運び、構え、間合いの保ち方――どれも人間の技術としては一級品だ。『剣士としての時雨崎』と試合を行い、勝てる相手は一体どれほど居るだろう。
だが、異法士としては二流だった。剣術など学んだことのない雨宮の剣に敗北する程度に、『異法士としての時雨崎』は弱かった。
けれど、今はそれを埋める力を得た。
噂の力、
鬼の力、
幻想の力、
シュタルクの残した異能の力だ。
「ま――そんなのを敵に回さなくて良かったよな」
雨宮が笑いながら時雨崎嬢の私室の扉を、スパーンッ! と開けた。
「おまっ……!?」
ノックくらい、と怒鳴りつけようかと思う頃には扉は完全に開ききっていた。ああ、私には何よりも速さが足りない……!
「――む?」
開け放たれた扉の先には、おおよそ六畳ほどのスペースがあった。
床はこの屋敷には珍しくフローリングで、家具も他の部屋で用いられてるモノと違い西洋風なデザインの物ばかりだ。壁際にある古い学習机が若干浮いているものの、それ以外はカーペットから小物に至るまで日本人が考える洋風的な雰囲気で統一されている。彼女の趣味なのだろう。
そしてその室内には、やはりというか当然というべきか、春香嬢が存在していた。
しかし、今現在身に纏っている衣服は制服でも私服でも、ましてや異法士としての戦闘服でもない。
フリルで構成されたドレスだ。ロリータの中でも甘ロリと称される少女趣味なそれは、非常に見覚えが――というか、少し前に雨宮が購入したモノだ。
そのフリフリのドレスを纏った彼女は、スカートの裾を摘み、くるくると回転している。
舞踏会か、もしくはファッションショーのつもりだろうか。服装から推測するに、多分前者だろう。すっと伸ばした腕の先には、たぶん正装した男のイメージがあるのだろう、たぶん。
「らーん、らんらんらーん、らー……あ?」
心の底から自分と少女趣味な妄想に酔いしれています――といった風な調子外れな歌声が、雨宮の姿を確認した瞬間氷結した。凄まじい勢いで室温が氷点下まで下がったような錯覚を抱く。
スカートの裾を摘んだまま、片足を上げた状態で硬直する春香嬢を数秒ほど確認し――雨宮はそっと扉を閉めた。
静寂が訪れる。
とても気まずい静寂だった。
「……なあ、雨宮よ。お前はなぜこのパンドラの箱を不用意に開けたのだ? ノックという手段もあっただろう?」
「いやね相棒よ。ぬいぐるみとか抱いてゴロゴロしてる姿とか見て、プギャー、とか言ってやろうと思ってたのよ」
「……やらないのか?」
正直、指を指して笑うにはこれ以上ない状況だと思うのだが。
「……ああうん、そうなんだがよ? なんかホラ、超えちゃ行けない一線とかあるじゃん?」
一生モノのトラウマ負わしちまうじゃん? と視線を明後日の方向に向ける。
それから、おおよそ十分と少し。
大急ぎで着替えたと仮定し、更に深呼吸などをすれば大体このくらいの時間になるだろう。
テイク2。
軽くノックをした後に、ゆっくりと扉を開く。
そうすれば、平常心になった彼女の姿が――
「……」
存在しなかった。
スカートの両端を摘み、片足を上げた体勢――要するに十分以上前の姿から一寸も変わらない状況が保存されていた。
「お嬢ちゃん俺が珍しく気ィ使ってンのになにやってはりますかねー!?」
フリーズなげェよどこのOSを擬人化したらこんなに止まりやがるんだ、と固まったままの春香嬢の額をぺちぺちと叩く。
「は……ぇ?」
頭部への衝撃でようやく思考能力が回復し始めたのか、夢の国に不法滞在していた少女は現実世界へと無事強制送還、辛い現状とご対面したのである。
凍ったままの眼が溶け、雨宮をしっかりと認識する。困ったように後頭部をガリガリと掻くその姿を見て、ゆっくりと視線を下に――より正確に言うならば自身が纏っている服に向けた。
「……――ッ!」
おおよそ十五分。
それが、時雨崎春香が現状を正確に理解するためにかかった時間だった。
「ええっと、お嬢ちゃん」
返事はない。
無言のままこちらに背を向け、学習机へと向かい――片手で椅子を持ち上げた。
――物理的記憶消去術……!
頭部に向け鈍器などを振りおろし、その衝撃で脳にダメージを与え記憶障害を人為的に起こす必殺技である。
しかしその過程で脳内出血を起こしたり、頭蓋骨ごと脳を破砕される可能性がある。素人にはオススメできない。無論、玄人にも。
「あっ、雨宮!」
「どうした相棒! さっきから三択問題が頭をよぎるんだが、どうしても三番しか選べそうになくてすげェ困ってるんだがどうすっぺかね!? 現実マジ非情!」
「大丈夫だ! お前の現実はそんなに非情ではない! 手はある!」
ツンデレ+羞恥=暴力という方程式――深夜のアニメで覚えた!――は男女における絶対の法則であるものの、何事にも例外は存在するのだ。
「褒めろ。全力で、お前の少ない語彙が枯れる程の勢いで褒め続けろ!」
「……それ、逆効果じゃねェか? はっきし言って、脳挫傷の未来が頭部爆砕の未来に変わるだけな気がすンだけど」
「説明している時間は無い、やれ!」
ったくなんだってんだ――と乱雑に後頭部を掻いた雨宮は、
「しかしお嬢ちゃんもアレだな、酷い女だな」
「……?」
今まさに椅子を振り下ろそうとしていた春香嬢の動きが止まる。
なんだ、一体どういう意味だ? という疑問を瞳に浮かべ、視線と一緒にこちらに放り投げてきた。
――第一段階は成功、か。
どのような対処をするにしても、言葉を紡ぐ前に物理で殴られてしまうとどうしようもない。
動きが止まった事に若干安堵したのか、雨宮から弛緩した空気が漏れてくる。
「本番はこれからだぞ」
「わァってるよ」
小声で刺した釘を同じく小声で返し、雨宮は春香嬢の視線を真正面から受け止めた。
「だってよ、そんなに似合ってるっつーのに、一人で楽しんでやがるじゃねェか。そいつをプレゼントした俺にくらい見せてくれてもいいじゃねェか」
「あ、え――え、あ?」
呆けた声が漏れた。椅子を持ち上げている腕が、重力に従うようにゆっくりと降りていく。
「ああ、けどあんま見せられても困るな。綺麗過ぎて参っちまうし、道端でその姿思い出しちまうと、一人で鼻の下伸ばしてる変質者の出来上がりだ。いや、もう手遅れか?」
既に声すら出せなくなった。
いや、なにか言葉を紡ごうとはしているようだが、唇を金魚のように動かす事しか出来ていない。頬は熱を持ち、赤く赤く染まっていく。
「なら問題ない――いや、問題だらけではあンだが。どうせ手遅れなら、可能な限りじっくりとその姿を見続けたいンだわ。こんな綺麗なモノ、忘れちまったら後悔するからよ」
だから、と。
すっ、と顔を近づけ、言った。
「もっと、その姿を見せてくれよお嬢ちゃん」
瞬間、春香嬢は崩れ落ちた。漫画の描写ならば頭部から蒸気が噴出していた事だろう。
ぺたん、と女の子座りをし「待って、待って、待って、え、待って、え、え?」と両手で顔を覆いながら延々と呟いている。
「……おお、すげェ。ホントになんとかなったよオイ。これ一体どういう原理だ?」
「さっきの時雨崎嬢は羞恥の熱を利用した兵器みたいなものだったからな。だから、」
「限界まで辱めてオーバーヒート狙い、ってわけだな。いや、効いてくれてよかったぜ。歯が浮きすぎて全身空中浮遊可能みたいな言葉吐きまくったのに、なんの効果もなく無言で殴られでもしたら、頭蓋と一緒に精神も砕かれてたわい」
……いや、間違ってはいないのだが、その言い方はいかがなものだろう。
私たちがぼそぼそと喋っている間に、春香嬢はゆっくりと立ち上がった。
「その……本当、に?」
未だ顔を上げず、風でも吹けばすぐに掻き消えてしまいそうな小さな声で問う。
その疑問を、雨宮は満面の笑みで答えた。
「おう、馬子にも衣装ってヤツだな」
馬鹿――と罵る暇もない。
流れるような動作であり、同時に的確な攻撃であった。
足元に落ちた椅子をつま先で引っ掛け、蹴り上げ宙に跳ね飛ばす。遠心力でくるくると回るそれを右手で引っつかむと、掬い上げるように振り抜いた!
ズバン! という快音。
顎に直撃。浮かぶ体、揺れる脳、震える視界、薄れる意識! ざんねん、雨宮のぼうけんはここでおわってしまった!
「……やはり無理だったか」
雨宮ごと部屋の外に放り出されながら、私は小さくため息をついた。
◇
「てかお嬢ちゃんもよ、もう少し現代テクノロジーに触れようぜ。パソコンのネットが出来ねェって奴は今でもそこそこ居るけどよ、携帯持ってないってのは花の女子高生それでいいのかよ。花ってか鼻になンぞ。ランク大幅ダウンだ」
その後。
二十分近い記憶を生贄に復活した雨宮は、当初の目的通り春香嬢の部屋を尋ねた。
――無論、ノックは絶対にしろと十度は念を押した。
「なによ、そっちは古めかしさ全開の相棒居るくせに。どうせ、そいつも機械の事なんて全然分からないんでしょ!?」
小動物が威嚇するようにきしゃーと喚く春香嬢。それを楽しげにあしらう雨宮を見ていると。
――もう少し、ここに居たい。
そう思ってしまう。
この二人がもっと長く、可能なら末永くこうした関係であって欲しいと思うのだ。
「いや、こいつ自分で触れねェだけで、DVDの録画予約の仕方から始めネットで料理のレシピ探すのも完璧にマスターしてやがるぞ。その上、パソコンの動作環境も完全暗記してやがるから、どのソフトが家で動くのかとか一発で言い当ててくれやがんだ」
「細かい操作どころか動作環境一つ覚えんお前が悪いのだろうが! せめて自分のPCのOSくらいは覚えておけ、この典型的エンドユーザーがっ! 私はいつからお前の外付けハードディスクになったんだ、フラッシュメモリには入らない量のムダ知識をガシガシと詰め込んでからに!」
そもそも、説明書という奥義書に等しい書物があるというのに、なぜ読まぬ。なぜ貴様はとりあえずとばかりに手当たり次第にボタンやスイッチを押す!
「う"あ"あああっ、この刀が語る言葉と比喩の意味が全然分かんない……! 字面的になんか近代的な気はするんだけど……ッ!」
「刀以下の現代知識ってすげェな。なんだ? 未来から来ンのは猫型ロボだけど、過去から来ンのは女子高生なのか? まァ確かに俺とか健康的な若人はそっちのが嬉しいけどよ」
けたけたと笑う雨宮は、柔らかなクッションに体重を預けながら背を壁に載せた。
「うう……いいじゃない。携帯とか無くたって生きて行けるわよ人間。父さんが若いころはそんなの無かったわけだし」
「昔は昔、今は今だぞお嬢ちゃん。それに、今後も連絡取り合うなら携帯は必須だろうよ。……っつーかおっさんですら旧式とはいえ持ってるじゃねェか」
そりゃそうだけど――とぶつくさ言う春香嬢を見つめながら、私は両者にとっての助け舟を出した。
「だがな春香嬢。今後連絡を取り続けるには、携帯電話は必須だぞ」
「別にそんなの直接――あ」
表情が陰る。
黄昏時に遊園地を振り返る子供のような寂しげな瞳は、楽しい時間はなぜ終わってしまうのだと問うていた。
「そういうこった。しばらくこっちにゃ来れんだろうし、最後の思い出作りのついでにどうだ? あ、奢ンのは無理だぞ。再就職決めるまであんま無駄遣いは出来ねェし」
「うん……そっか。まあ、うん――うん……そういう事なら」
俯いてボソボソと呟いた春香嬢は、仕方ないと言いたげな表情で雨宮を見つめた。
「そういう事なら付き合うだけ付き合ってあげるわ。ちゃんとエスコートしなさいよ」
「生憎とそういう経験はねェから期待に見合う働きが出来るか知んねェけど、まあ頑張るさ」
そんじゃ明日の朝な、と手をひらひらと振って退室した。