開放/2
借りている部屋に戻った雨宮は、無言で壁に寄り掛かる。そのままずるずると滑り落ち、畳に腰を降ろした。
「なに――やってんだろうなぁ、俺」
窓から空を見上げる。
既に海の底のように暗いそこに、月が煌々と輝いていた。
「俺は仇を討ちたいはずなのに」
なんでこんな些末な事で心を揺らしいるのだろう、と。
自嘲、自虐――二つが瞳の中で混ざり合い、今にも腐り落ちてしまいそうな淀んだ色を見せる。
「それにな、分かんだろ相棒。俺は――俺は、言動ほど仇の野郎の出現に喜んじゃいない」
「……なにを」
「あいつを殺してやりたい、って想いは確かにある。けどよ、それは少し前に知り合った女の子の言葉で揺らいで、数日前に出会ったオッサンを殺してでも――と思えるほど強い感情じゃない。それは、お前もうすうす感じてるんじゃないか? 魂喰らいの妖刀さんよ」
そうだ――私は願望を叶える手助けをし、その対価として魂を奪う存在。
もしも敵討ちが雨宮の真の願望であれば、三島と相対した瞬間に気づけたはずなのだ。
ああ、なんて愚かな。
口では『私は魂喰らいの妖刀だ』と言いつつも、その自覚は自分が思っている以上に薄いらしい。
それは、雨宮との付き合いが長すぎるから。
己が使用者の魂すら喰らう呪われた存在だという事を、忘れてしまうほどに長く過ごし過ぎたから。
沈黙の帳が降りた。
雨宮に語るべき言葉はなく、私もかけるべき言葉が出てこない。
抜け殻となった雨宮にとって、唯一の指針が復讐だったのだ。
それが道しるべであり、暗い夜道を照らす光であり、達成すべき目標だったのだ。
それだけを頼りに、この男は歩き続けてきた。だというのに、今になってそれが間違いだったかもしれないと突きつけられたのだ。
それが他人の言葉でもたらされたモノなら、雨宮は悩みなどしない。己の在り方に僅かな違和感を抱いたかもしれないが、すぐさまそれはかき消えてしまった事だろう。
だが、雨宮に突き刺さっているのは他者の言葉でもなく、己の心によってもたらされたモノだ。
他人の言葉なら誤魔化しようもあるだろう。忘れる事もできるだろう。
しかし、自分の内よりい出るそれは、常に心に居座り続ける。違う、違う、と常に囁き前に進む脚を止めてしまう。
一体、どれほど無言で過ごしただろうか。不意に、きゅい、きゅい、とうぐいすが鳴いた。
「誰、だ?」
「父さんから聞いてたけど……想像以上に重症みたいね」
戸から顔を覗かせる春香嬢が、ぽつりと呟いた。
雨宮はそちらに顔を向けず、口の中につまった血を吐き捨てるように言った。
「生憎と、お嬢ちゃんの相手する気分じゃない」
「気分じゃなくても、こっちには用があるのよ」
時間よ、時間と壁に吊り下げられた時計を指さす。
普段なら、夜の巡回に出ている時間だ。なるほど、いつまで経っても来ないから様子を見に来た、というワケか。
だが、部屋に入る春香嬢の服装が、私の想像に否と告げる。
部屋着らしいラフな長袖のシャツとショートパンツという出で立ちだ。室内なら問題はないけれど、外を出歩くには春の夜は肌寒い。
「菅野さんから聞いたわ」
「そうか……説教か? それとも見下しに来たのか?」
「両方よ」
雨宮は歯を食いしばり、手を思い切り強く握りしめた。
強く、強く、力の限り抑えこむ事によって感情すら握りつぶそうとするように。
その様を見下ろす嬢の瞳は、しかし悲しげであり、とても雨宮の言葉を実行しようとしている風には見えない。
「やっぱり、そうなんだ。こんなに分かりやすいのに、なんで自分で気付けないのかしら。ううん……近いから、逆に気付けないのかも」
意味深な言葉の意味を問う暇もなく、雨宮の腕は捕まれ、思いっきり引っ張り上げられた。
軽度の身体能力強化で筋力を増大させた春香嬢は、そのまま引きずるように廊下を歩き出す。
「春香嬢……一体、何を」
「わたしはね」
私の言葉を無視して、春香嬢は語り出す。
「きっとアンタよりも雨宮の事を知らない。当然よね。知り合って数日しか経ってないわたしが、全てを知り尽くせるわけじゃない」
脚は止まらない。
言葉も止まらない。
どちらも明瞭である目的地へと進み続ける。
「でもね、わたし思うのよ。長い時間を隣で過ごして分かる事もあれば、その逆もあるって」
それは――どこかで、聞いた言葉だった。
思考を数秒ほど巡らせ、ようやく思い出す。
――知らない口だよ。お前さんの心を理解していたら、お前さんの感情に引っ張られて何も言えなくなる。そこの妖刀のようにな――
老婆の言葉。
私たちに対する忠告。
「ここ」
私の思考を断ち切るようなタイミング。ハッ、として辺りを見渡した。
そこは道場である。初めて彼女の父である時雨崎に出会い、そこで試合をした場所だ。
雨宮は苦い表情で床をじっと見つめていた。
春香嬢が通う学校――その道場での出来事を思い出しているのだろうか。
「わたしの部屋に連れ込んで、腹を割って話そうかな、とも思ったんだけどね。けど、駄目。どんな風に会話したらいいのか分からない。だから――」
居合の構えを取り――物質創造。抜身の刃を生み出し、握る。
「剣と剣をぶつけ合って、その刹那の間に思いついた言葉を吐き出す――それが一番やりやすい」
「いきなり引っ張って、そして試合ってくれってか? お嬢ちゃん、ちっとばかりいきなりが多すぎるぞ」
ようやく顔を上げた雨宮は、頭をガリガリと掻きながら苦笑した。
笑みは軽薄、動作はテンプレートだ。このようなタイミングでなければ、真面目な少女を茶化しているチャラい男に見えるだろう。
「そうは思うけどね」
けど、と。
小さく前置きをし――
「これでしか、アンタの本気は見れないから――!」
ダンッ! と。思い切り足を踏み込み、一気に飛び込んで来た!
「ッ! こんの――」
雨宮が私を抜き放つと同時に、幻想を変換し雨宮の体を強化する。
その僅かなタイムラグすら逃さぬ、そう叫ぶように春香嬢は裂帛の気合と共に刃を薙いだ。
鞘こそ無いものの、それは居合の軌道。角度の鋭い弧を描く軌道は、正面から見れば刺突されているように感じる。
「うお……っと!」
背後へ跳躍。銀の鎖の装飾が剣先にひっかかり引きちぎられるのを見ながら壁に着地し、重力に囚われる前に壁を蹴り加速する。
矢の如く宙を疾駆し、その勢いに任せて私を振るう。
しかし、
「……お嬢ちゃん、居合とか必要ないだろ」
春香嬢の刃は蛇の舌のように二股に分かれ、私を絡めとり雨宮を空中で固定した。
長さどころでは、ない。
形状する自由に変更するのか。
「何年か前はそう思ってたんだけど、ね!」
バットをスイングするようにして、思い切り放り投げられる。慌てて空中で姿勢を制御するが、間に合わない。ドン、と背中から壁に叩きつけられた雨宮は、肺の中に溜まった空気を残らず吐き出した。
追撃は、ない。
刀を通常の形状に戻し、居合の構えを取るだけだ。
――攻め辛い。
喉元に針を突付けられたまま戦いを強要されている感覚、じわり、と雨宮の掌から汗がにじむ。
「来ないの?」
「お嬢ちゃん隙無さ過ぎ。ってか、もういいだろ。だって俺はお嬢ちゃんを――」
そこまで言いかけて、首を傾げる。
「……? どうした、雨宮」
「いや……なんというかこう……自分でもよく分かんねぇ」
脳の奥底にある情報を発掘するかの如く、ガリガリと頭を掻いている。
要領を得ない言葉。しかし、要領よく説明するピースが己の中に存在せず、上手く言葉に出来ていない。そのように見えた。
「やっぱり、そういう事ね」
けれど。
そんな言葉でも己の確信を裏付けるには十分だと言うように、春香嬢は小さく頷き――床を蹴った。
「ッ! そういう事って、どういう事だよ」
振るわれた刃を私で受け止める。火花が爆ぜ、刃と刃が密着する。
……妙だ。
春香嬢は身体能力強化にそこまで秀でていない。
居合いの技と自在な物質創造による刀。その二つはどちらも、これ程までに密着しては扱えないモノだ。
もちろん、やりようはある。
先程と同じように私を絡めとり、更に刀身から別の刃を生やし、それを心臓へと突き出せばいい。
だがそれも、接近せずとも出来るはずだ。
他に手段があったとしても、ここまで接近するデメリットに比べメリットが薄い。
……なぜなら、雨宮は春香嬢の身体能力を大きく上回っているからだ。
ここまで密着して無事なのは、雨宮自身がこの戦いに乗り気ではないからである。
もしこれが本気の殺し合いだったのならば、既に雨宮は春香嬢を押し倒し、強化された身体能力に任せて踏み砕いているはずだ。
それは、きっと春香嬢も気づいているはずだというのに。
「宗平、貴方が――仇討ちなんて、実は興味がないってことよ」
呼吸が、そして胸の鼓動すら止まったのではないかと思うほど完全に、雨宮は静止した。
人形のように、死体のように。
「――お前に」
――雨宮の心には炎がある。
上っ面を軽薄な仮面で隠し、激情の紅蓮をひた隠しにしていた。
けれども、それで炎が消えるワケではない。燃え盛るそれは常に雨宮を焼き、燃やし、灰に帰そうとしている。
そして、今――仮面が剥がされる。
学校の道場の時と同じく、
仇の存在を確信した時と同じく、
「何を、分かるってんだ――!」
炎が顕現した。
鍔迫り合いの体勢のまま、力任せに春香嬢を押し飛ばす。
「ッ!」
その場に留まる事すら出来ず弾き飛ばされた春香嬢は、その勢いで窓を突き破り中庭に飛び出す。
それを追う雨宮の表情には、ここ数日に戦ったどの鬼よりも鬼めいていた。
――そうだ、狭い場所に閉じ込めた炎は、酸素が不足し燃えないのだ。
だが、今はそれが表に出た。
大気を好きなように取り込み、好きなだけ燃え盛ろうとする感情は怒りと殺意。
壊せ、壊せ、壊せ、
殺せ、殺せ、殺せ、
土足で踏み込んで来たあの女を――と。
雨宮は獣の如く吠え、春香嬢に飛びかかった。
「そうだ――思い返しゃ、気に入らなかった!」
叫び、怒鳴り、罵る。
「めんどくせェ女だよなお前はよォ! 初対面で気ぃ使って話題振りゃ『二番目って呼ぶな』とか! ツンケンしてるかと思えば、無駄に博愛精神に溢れてらっしゃるしよッ!」
「面倒くさいとか……宗平、貴方が言うっ!?」
鋼と鋼がふれ合い、火花を散らす。
「貴方は貴方で繊細なんだか粗野なんだかさっぱり分からない混ざりっぷりで! 対応に! 困るの――よッ!」
火花を散らす刃と刃。その速度は衰える事無く、むしろ徐々に加速していく。
「うっせうっせ、二面性あんのが人間だろぉがよ! てかさっきも言ったがお前だってツンケンしてんのか優しいのか分かんねぇよ、全力で棚上げしてんじゃねぇ!」
跳ね上がった刃が春香嬢の胸元に向かう。剣先が僅かに乳房に触れ、撫でるように裂いた。ほんの僅かだけ、赤い飛沫が舞った。
「ッ……!」
瞬間。
遮二無二に剣を振るっていた雨宮の動きが、そして恐らくは思考も停止した。
――ああ。
そこに至り、私はようやく――本当に、ようやく気づくことが出来た。
「どうしたの? このくらいで終わりってわけじゃないでしょ――!」
挑発的な物言いで叫ぶと、一閃、二閃、三閃、と刃を振るう。
だが、その勢いは先程までのモノより鈍く、思考の滞った雨宮でも受け止められる程度の速度だ。
そう、受け止めながら思考できる程度に緩く。
そしてネガティブなことは考えられない程度に激しく。
「ねえ、本当に貴方は復讐をしたいの?」
剣呑な剣戟の音とは真逆の、春風めいた優しい声音で彼女は問うた。
「なに――を」
「だって、そうじゃない。復讐こそ唯一の目的で、それ以外は些末――そんな人が、ちょっとわたしが貴方の刃で傷つけたくらいで動揺するの?」
おかしいではないか――そんな些末な事で。
道理が合わないではない――感情が死に、軽薄の仮面を被り生きている者の行動ではない。
「だ――けど、よ。だけどよ! 俺は憎い、あの男が、三島とか言う奴が。この感情は本物だ!」
怒声と共に私を丸太の如く力に任せ振るう。横っ腹を叩かれた春香嬢の刀は醜く歪むが、すぐさま物質創造。折れ曲がった刃を刹那の間だけ消去し、すぐさま同サイズの刃を創造する。
第二撃が来る前に後ろへ跳躍した春香嬢は、すぐさま居合いの構えを取り雨宮を迎え撃つ。
「それはそうなのかもね。けど――」
「オオオラァアア!」
力任せに振るわれながら、雨宮の感情が時化た大海原の如く震えているのを感じていた。
それは軽薄を装った表面でもなく、感情の亡い深層でもなく、もっともっと深い場所のモノ。
理性と呼ぶには獰猛で、本能と呼ぶには理知的な感情そのままに、雨宮は私を振るう。されどたやすく回避され,ズガン――という衝撃と共に床を砕いた。木片が宙を舞う。
「それがどうして、仇討ちなんていう結論に至るの?」
「どうして、だって? んなもん、当たり前じゃねぇか――!」
「いいえ」
否と。
それは違うのだと、春香嬢は言う。
「そうだ。ああ、そうなんだよ、雨宮……」
それは空に架かる虹の如く。
虹の中に居ても自分が虹の中に居るのだと気づけないように、近しいからこそ気づけない事がある。
実際、近くに居た私は気づいてやれなかった。
しかし遠い、知り合ったばかりの誰かが見つめれば明瞭過ぎるほどに明瞭なのだ。
「貴方はね――宗平」
彼女は木片の間を縫い、一息の間に間合いを詰め――抱き留めた。
かしゃん、という乾いた音。視線を向けると床に転がった春香嬢の刀が崩れ、柄だけになっていくのが見えた。
「誰かが傷つくのを見たくない、そんな子供みたいな人なのよ」
「え――」
春香嬢の行動も、その言葉も、何もかもが想定の埒外だと言うように呆けた声を漏らした。
私を握る掌にも力はなく、再び私を振るう気は失せているようだ。
「お嬢ちゃん、一体、何を――」
「だって、宗平は笑えるもの。日常を楽しめる人だもの」
「けど、それは演技で――」
「それは嘘。わたしに対しても、そして自分自身に対しても嘘」
「嘘なんかじゃ――」
「じゃあ」
言葉を遮り、じっと春香嬢は見つめた。
虚偽を許さぬ裁判官の目のようで、しかし同時に寒さに震える子を抱きしめる母のようにやさしい。
「なんで、菅野さんを殺せなかったの? なんで、お父さんを傷つけられなかったの? なんで――わたしを傷つけたくらいで、あんなに辛そうな顔、したの?」
それはおかしな事だと。
看過出来ぬ程の矛盾であると、春香嬢は告げる。
「……分から、ない。全部、全部、理解できねぇよ。俺は、あいつを殺して楽になりたいはずなのに」
掠れた声で呟く雨宮を、春香嬢は更に強く抱きしめる。
「それはね――きっと、自分の感情を勘違いしちゃったから」
「勘違――い?」
「宗平の幼なじみさんが殺された苦しみや怒りは本物なんだと思う。けど、それを解消するために『全てを犠牲にしてでも復讐を完遂する』ことが必要だと思い込んでしまったから――」
だから辛いのだと。
前提条件を大きく履き違えているから、こんなにも苦しんでいるのだと。
「貴方は過去と同じくらい現在を大切に思ってる。わたしには、そう見える」
雨宮は答えない。
何か反論すべく口を開き、しかし言葉を紡げず閉じるという行動を繰り返していた。
「だけど、その幼なじみさんもきっと大事で――それを忘れて毎日を楽しく過ごす事が許せなくて、楽しく毎日を過ごす間にその人を忘れてしまうのが怖くて……だから『復讐』っていう二文字で本音を覆い隠してしまったんじゃないの?」
「そんな、俺は――」
「もちろん、わたしは雨宮宗平じゃない。これはわたしの推論。的外れな妄想かもしれない」
だから、と赤い唇を震わせ、
「考えて。自分自身の渇望を理解してあげて。その結果、復讐が大事だっていう結論を出すなら、わたしはもう何も言わないから」
雨宮は答えない。
いいや、答えられない。
それは、きっと図星を突かれたから。
自分ですら気づかぬ己の求めるモノを、誰かに指摘されたのだから。
なのに、それに気づかずに過去に偏り現在を蔑ろにしようとして――その矛盾が心を蝕んでいる。
――つまりは、ボタンを掛け違ったシャツのようなもので。
最初を違えた故に、それ以降どう試行錯誤しても上手く着る事が出来ないように、雨宮の心が満たされなかった。
当然だ。
本来、自分が大事だと思っているモノを捨てながら、輝きを失った宝石を求めて走り続けていたのだ。
走れば走るほど傷つき、失って行く。
だというのに。たとえ目的を達成したとしても、決して満たされる事はない。
だから、私を振るっても魂を喰らわれる事などなかった。
当然だ。
どうして当人すら気づかぬ願望を叶えられるというのだ。
雨宮の脚から力が抜ける。
春香嬢は抱き留めたまま、ゆっくりと腰を降ろした。
何も言わない。親鳥が卵を温め続けるように、やさしく雨宮を抱き続ける。
「あ――は、ははっ、全く……そういう事かよ。馬鹿みてぇだ」
「みたい、ではなく馬鹿なのだろうさ。お前も、私も」
違いねぇな、と笑う。
今までの行動が徒労だと気づきつつも、その表情に失意の色はない。
「はは、はは、ははははははは――」
狂ったように笑う、笑う、笑う。
一呼吸分笑う度に、歯車がかち合っていく気がする。ズレにズレたそれらが絡み合い、繋がり合い、雨宮宗平という男を再構築していく。
「あはは、ははは……」
永遠に続くのではないかと思われた笑い声は不意に止み、静寂が満ちる。
僅かな間を置いて開いた口から、言葉が漏れ出す。
「なぁるほどな、それが『俺』かよ」
とても懐かしい声音だ。ふと、そう思った。
軽薄と言えば軽薄なのだろう。粗雑で、聞く者が聞けば嫌悪感を示すような乱雑な言葉遣いだ。
けれども、それは上っ面だけの言葉ではなく、雨宮の心が反映された言葉に聞こえた。
――ああ、そうか。
この声音は、私が初めて雨宮宗平という男を認識した時に聞いたモノ。明日を夢見て走る、少年のような声だ。
◇
一体どれだけそのままで居たのだろう。
数秒だったような気もするが、数時間だったような気もする。
時計を見ればすぐに分かりそうなモノだが、けれどもそのような行動は酷く無粋なように思えた。
幻想は、幻想であるからこそ美しいのだ。近代の技術で何もかもを解明すれば、それはただの現象であり、陳腐に――
「おっ。あれからまだ十分も経ってねぇのかー」
速攻で幻想を陳腐に貶め腐りやがったコイツ……!
「空気を読め貴様はなぁあああああッ!」
「うおぅッ!? なんだよ、時間確認した程度で切れるとか、お前どこの若者だ!」
――道場に備え付けられた時計を真っ直ぐ見つめる愚か者に対し思わず怒鳴り声を上げてしまった私を、一体誰が責められるというのだろうか?
「ところで」
不意に、すぐ近くから春香嬢の声が聞こえてきた。
「そろそろ、離れてもいい?」
雨宮の体をぎゅっと抱きしめた春香嬢が、顔を緋色に染めていた。
「ああ、スマン。すっかり忘れてたわ」
「わ、忘れ――忘れてた!? ふ、ふざけないでよふざけないでよふざけないでよ! 恥ずかしいんだから!? ずっと抱きしめてるのって、かなり恥ずかしいんだからね!?」
「いや、だがなお嬢ちゃん。ずっと触れ合ってると段々と触れ合ってんのか触れ合ってねェのか分かんなくなってくるじゃんよ? 一心同体っつーか、あたしたちやっと一つになれたね的なばぶふううう!」
鼻頭に額を叩き込まれ、「縮む!? 日本人これ以上鼻縮んだらいかんだろぼぼぼぼぼ」とのたうち回る雨宮を、異法で創造した刃もかくやという鋭さで睨みつけてくる。自分に向けられたモノではないが、ちょっと怖い。
「それで? どこなの?」
「は?」
間の抜けた声に、「貴方が行こうとしてた場所の事よ」とため息混じりに言って背を向けた。
「さすがに今夜は貴方のコンディションが悪すぎるから無理だけど、明日の夜辺りには強襲したいからね」
ずっと夜に出歩いてると肌にも悪いし、早く解決しちゃいたいのよ、頬を撫でながら呟く。
「ま、もう一人で行く理由はもうねぇしな。手ぇ貸してくれるなら全力で貸してところだ」
快活に笑いながら、居場所と主犯と思われる人物を告げる。
その笑顔を見つめ、もう雨宮は大丈夫だと確信する。その笑みに自分を偽る不純物はもう存在しない。これからは、喜怒哀楽全て全て己の思うままに扱っていく事が出来るだろう。
自分が無機物で良かった、と思う。もし私が一人の人間だったのなら、今頃は「なにニヤニヤしてやがる」と雨宮に睨まれていたはずだ。
「……そう」
相も変わらずこちらに背を向けている春香嬢は小さく呟くと、くるり、と反転した。
浮かべる表情は微笑み。春の日差しのように柔らかなそれは、本来好意的な感情を抱くモノである。
「それじゃ、汗かいちゃったし、もう一度お風呂に入って来ようかな」
だが、なぜだろうか。その笑みが少し気になった。
微かな違和感。だが、それを追求するには弱すぎる。
「……このタイミングでそれを言うとは、お嬢ちゃん、まさか同衾しないかという誘い――!? おう、とっととシャワー浴びてこいよ!」
「わたしの創造する刀ってね、人間くらいならバターのように両断できるのよ?」
「すんません、マジすんません。けど俺も汗ぶるなんで、後で入らせて頂いてもよろしいでしょうか?」
刃のない柄を雨宮に突きつける春香嬢に対し、全力で土下座を行う。
その姿を数秒見下ろし……ハア、と溜息を吐く。
「……だったら、宗平が先に入って来なさいよ。色々あって疲れてるのは貴方なわけだし、さっさと入ってさっさと寝たらいいんじゃない?」
「お、マジで?」
「それに、貴方を後にしたら、残り湯すすられそうで気持ち悪い」
「さすがに俺もそこまでマニアックじゃねぇっての……ホント俺どういう目で見られてンだ」
「じゃあ、下着漁りとか?」
「俺は着ている姿にしか興味はねぇな! 下着と女の子が融合した姿がジャスティスなわけだ」
「威張って言うことか、威張って――ま、上がったら呼んでね」
おう、と短く応えた雨宮はそのまま駆けて行く。
◇
風呂から上がり、きゅいきゅい鳴る廊下を歩く。
人気はない。当然だろう、もう夜半だ。女中たちも寝静まる頃合いだ。
「あ――やっべ」
やっちまった、という顔でぼやいた雨宮は頭をガリガリと引っ掻いた。
「どうした?」
「お嬢ちゃんの部屋、俺知らねぇわ――ったく、俺も俺だけど、お嬢ちゃんもお嬢ちゃんだよな」
そもそも俺、部屋を尋ねた事ねぇのにどうやって落ち合うつもりだったんだ。
苦笑しつつ辺りを見渡すと、不意に視線の先にある戸が開いた。
「あらあら、雨宮さんじゃないですか。一体どうしたんですか?」
「ああ、苗さんか」
普段身に纏っている割烹着姿ではなく、少女趣味な桃色フリルなパジャマを着た古川苗は、不思議そうに首を傾げながらこちらを見つめていた。
似合っているのは似合っているが、その歳でそのチョイスはいかがなモノか……
私と同じことを考えたのか、雨宮は微苦笑を漏らしながら「ちょうどいいとこに来てくれた」と言った。
「いや、風呂空いたってお嬢ちゃんに伝えたかったんだけどな。部屋が分かんなくてよ」
「……? 雨宮さーん、何を言ってるんですかー?」
「まだ部屋にも招待されてないんですかー? ってか? いやいや、俺はこう見えて恋愛は奥手な質なんで――」
「もうっ、こんな所で油売ってる暇があったら早く追いかけてください。強いとはいえ女の子なんですから、一人歩きはあまりさせたくないんですよー」
……?
なんだろう、話が噛み合っていない。
雨宮も気づいたのだろう、軽薄な表情から一転、怪訝な表情を浮かべていた。
――ざわざわ、と刀身が錆びついていくような、嫌な感じがした。
「なあ、苗さん。一体、お嬢ちゃんからどういう話を聞いてんだ?」
「へ? ええっと、ですねー」
真顔で詰め寄る雨宮に、困惑の表情を浮かべながら、
「もう遅いけど出かけてくる。宗平は後で合流するから、って――」
最後まで聞く前に雨宮は駈け出していた。
自室に戻り着替えを終えると、そのまま一気に玄関へ向かい、外へと飛び出した。
「だぁあああ、糞、ホンット面倒くさい女だなあのお嬢ちゃんは!」
風呂のくだりは足止めだ。その間にあのデパートへ向かったのだろう。
舌打ちする雨宮と私の感情がシンクロする。
馬鹿か、私は――あの違和感を、あんなに慣れ親しんだそれを流してしまうなんて。
――そう、慣れ親しんでいる。雨宮に使われてから、ずっと、ずっと見てきた表情だったのに。
あれは、作り物の笑顔だ。雨宮とは性質こそ違うものの、よく似通ったモノ。
「何故だ。何故、今そんな事を――」
「んなこたぁどうでもいいだろ! 行くぞ、体を強化して一気に走り抜けるぞ!」
「分かっ――」
そこまで言って、私は絶句した。
自分の事を馬鹿だ馬鹿だと思う事は数あれど、これほどまでに自分が愚鈍な存在だとは思わなかった。
刃全てが刃こぼれてしまったような喪失感と絶望が私の心を貫き、砕く。
「一体どうした!? さっさと――」
「でき、ない」
「はぁ!? 一体なに言って――」
「雨宮――お前は、自分の渇望を知ってしまった」
そうだ、本来ならあの道場に居た時点で気づくべきだった。
「ああ、そういえばお前――そんな刀だった、よな」
私は魂喰らいの妖刀、本来なら使用者の魂を貪り喰らう呪われた武器なのだ。
そんな妖刀を、なぜ雨宮は使えたのか?
――自分の渇望を勘違いしていたから。
無意識に願いが叶わないように行動していた雨宮だから、私を扱えたのだ。
だが、今は違う。
知ってしまった。気づいてしまった。己の渇望と真っ向から向きあってしまった。
「今、私がお前に力を貸せば――」
本来の性質と違わず、
「――お前の魂を喰らってしまう」
ああ、だからなのか。
だから春香嬢は一人で行ったのか。
戦う力を奪ってしまったから、自分の手で雨宮が戦う理由を排除する。単純といえば単純な理屈だ。
確かに、雨宮が渇望を自覚し現在を犠牲にすることを止めた。だが、それでも戦うべき相手は変わっていない。
故に、雨宮は奴を追い続けるだろう。力の有無など問題ではないのだ。
「……ッ」
ギリ、という歯を食いしばる音。
数瞬の迷い。糞、と吐き捨てた雨宮は眉を寄せ、
「一か八か、だ!」
一息に私を抜き放った。
阿呆、とか。
死にたいのか、などという言葉は咄嗟に出て来ない。
あるのは高揚感。
刀身全体に血管が張り巡らされ、沸騰した血液が循環しているような感覚。熱い、とは思わない。物語でしか見たことのない恋にも似た動悸が私を狂わせる。
それは、きっと本能なのだろう。
コンロの上で熱せられたヤカンを素手で触ってしまった時、無意識に手を引いてしまうように。
無意識に喰いたい、と思うのだ。
使い手の渇望を叶え、食らい尽くせと。肉一つ骨一欠片髪の毛一本すら無駄にせず味わいたいという肉食獣めいたの感情が、刀身全体に伝わり、私を震わせる。
抗い難い。抗いがたい。あらがいがたい。
「まだまだ鬼を喰った時の幻想はまだまだ残ってるだろ、今回はそれを利用してくれ」
声が遠く、酷く鬱陶しい。
極限まで腹を空かせた状態で『待て』と飼い主に言われた犬のよう。
なぜ止めるのだと、それになんの意味があるだと。
――いいではないか、何の問題がある。そこの餌を喰らえ。
私の中で私が笑う。まさに待ち望んだ展開ではないか、とよだれを垂らしながら誘惑する。
――雨宮宗平の魂を喰らえ。
「――ああ、分かった」
歯を噛み締め過ぎて血を吐きそうになる錯覚に陥りながらも、なんとか肯定する。
ただし――それは欲望の声に対してではない。
柄から己の幻想を流す。掌から毛細血管を這うようにして全身へ。行き渡れば脚を中心とした走る事に特化した形に配分し直していく。
その間に触れ合う雨宮の感触は、処女の割れ目を撫でているようだった。
心地良い、けれども、足りない。全てを忘れ、貪り尽くしたいという願いが噴出する。
――黙れ。
私は――私は、雨宮の望みを叶える事に失敗した。
その結果、雨宮は己の心とすれ違い続けたのだ。
私は魂を喰らう妖刀だが、同時に担い手の願いを叶える為の道具なのだから――
「何年も願いを叶えられたかった癖に、ここで貪るような、駄犬のような存在にはなりたくない」
そして何より、
「私は――なんだかんだで、お前の事を気に入っているからな」
私の使い手はもはや、雨宮以外には考えられなかった。
「……サンキュな」
駈け出した雨宮が小さく呟いた。
「全く、私が抜いた瞬間、お前の願いを糧に魂喰らおうとしたらどうするつもりだった」
「さっきのは早くデパートに辿り着きたい、って願いだったろうからなぁ。お嬢ちゃん大丈夫かー、って飛び込んだ瞬間魂喰われてバタンキュー、というすっげぇシュールな絵柄になったと思う」
「いや、そういう意味ではなくてだな」
「……ま、俺もなんだかんだで、お前を信用してるってこった」
それだけだ、とだけ言いながら跳躍。屋根から屋根へと跳び移り、強引に直線ルートを駆け抜けていく。
炎天下の中を数十キロ程ランニングしているような疲労と乾きが私を蝕んでいく。すぐ隣にある冷たい飲み物も、乾きを増大させる。
けれど、同時にこれ以上ないという喜びが私を満たす。
「雨宮」
「なんだ?」
「お前は――私にとって、一番の使い手だ」
数日前に春香嬢に苦し紛れに言った言葉だったが――今は、心からそう言える。
「……今頃気づいたのか?」
にい、と唇を上げる雨宮。その会話が心地良い。
恐らくそれは――男と女が恋に落ちる時のように。
刀である私が、雨宮という使い手に恋をした瞬間だった。