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急転/3

 オフィスの一室である。

 事務机の上にはパソコンがあり、書類などを纏めたファイルが無造作に置かれている。壁際には本棚があり、窓からは昼の陽光が室内を照らし出している。

 そんな中、黒服に鎖の装飾を纏った男が刀を携えているのは、場違いなどという言葉では語り尽くせないほどに場違いだった。


「一応、この辺りには無意識結界を張ってもらってるのでね。予めここに向かおうと強く考えている者で無い限り、ここを訪ねようとは思わないはずなのだが」


 その男は目立たない男だった。 

 人ごみに紛れれば溶解するように存在感を失うくらいに、薄い男に見えた。

 中肉中背、見に纏うのは日本における成人男性が最もよく着るであろうグレーに近い黒のスーツだ。

 顔立ちも美男子と呼ぶには崩れており、また不細工と称するには整っている。黒い頭髪も長くも短くもない。

 どこにでも居そうな男である。

 けれども、同時にどのような場所にも存在し得ない特異な男だ。

 人間には、何かしらの個性というモノがある。それが良い意味であれ、悪い意味であれ、個人を特徴付けるものが存在するのだ。

 しかし、彼にはそれが――ない。個性を削ぎ落とし、削ぎ落とし、削ぎ落とし尽くして産まれた無だ。

 通りすがりという役を究めた役者だと自己紹介されれば、まさしくプロだと人々は喝采するだろう。

 そんな彼の背後。

 彼が使っているらしい椅子の辺り。そこに『力の流れ』を感じた。

 ――元々、鬼を封じた巫女が住む神社があった場所。

 この地において、ここ以上に重要な場所などそうそうないだろう。


「ああ、そうか。協会から来た流れの異能者だったか。数日前に見た覚えがあるよ。バス停付近だったかな」

「――前だ」

「む?」

「もっと前に、会っただろうが。テメェが、女を、誘拐しようとした、その時だ」


 声を絞り出す度に耐え難い苦味が口の中に満たされている――そんな顔だった。

 理性と感情が鍔迫り合いを始め、火花を散らしているのが分かる。


「……ああ、そうか。五年前の無所属異能者鹵獲の時か」

「思い出したか」


 私を抜き、構える。

 幸いにも、人気はない。奴の言った無意識結界が正常に動作しているのだろう。


「なら、俺がなんでここに居るのか、なぜ剣を構えているのかも理解できるはずだな――?」

「いいや、全く」


 両断。

 会話を、言葉を、意思を。


「思い出したからこそ、解せないんだ。恋人? 友? ――まあいい、とにかくそれの仇を討ちたいのならば」


 すう、と指をこちらに向け――


「己自身を殺すべきじゃないか――?」


 弾けた。

 私に満ちた幻想の力が、爆発にも似た速度で雨宮の体全体に行き渡る。 


「オオオオォアアァァァッ!」


 血に飢えた獣めいた叫び声を上げ、私を袈裟懸けに振るう。

 ギィン、という鋼の音。金属と金属がぶつかり合う音が響く。

 しかし、それは断じて有り得ぬ音。


「……ッ!?」

「ナマクラだな。こんな刀では、今の僕どころか、数日前の僕すら斬れない」


 首筋に叩きつけられた刃はそこで静止していた。

 受け止められたワケではない。結界などといった防御の力が発動したワケでもない。

 ただただ――肌の頑丈さ。それだけで止められた。


「僕を恨んでいるのに、覚えていないのかい? 僕は、辺りに産まれた幻想から力を借りられる。もし僕を斬りたいのならば、鬼をなます切りにするくらいの腕力と切れ味が必要だ」

「ち――いぃぃぃ!」


 相手の言葉が終わるより早く後ろに跳ねる。

 受け止められた、ならば次に相手が攻撃してくるであろうという予測から雨宮は一気に距離を取る。


「……どういうつもりだ?」


 しかし、相手は動かない。攻撃が命中した時から姿勢を一切崩さず、ただ立ち続ける。

 腕はだらりと下げられたまま、脚を動かした様子もない。まるで、攻撃する意思などないようだ。


「別に僕は君を殺したいワケではないからね。攻撃する理由なんて欠片も存在しないよ。逃げても構わないよ、追わないから」

「こんな風に剣を向けられてんのに――テメェなに寝言言ってんだ」

「ああ、そうだ。なぜなら――」


 それは笑み。

 心の底から憐れんでいる憐憫の目。

 大雨の帰り道、電柱の脇に捨てられた子猫を見た表情だった。


「――命の危機ならばともかく、子供の悪ふざけに本気で対抗する大人が居ないだろう。居たとしても、そいつはただの頭の足りていないゴロツキだ」


 お前など眼中にない――と。

 だから殺す理由もない――と。

 淡々と、怒りや敵意など無く、むしろこちらの身を案ずるような響きで。


「ッ――アァァァァァァアアアアアァァァ!」


 それに応えたのは激情の声。

 吠え、猛り、がむしゃらに私を振るう。

 それに対し、男は無感動に腕を動かし、それらを受け止めた。

 肌で私を受け止めたこの男だ、ガードなど必要ないというのに。


「生憎、服は僕ほど頑丈ではなくてね。その刀でも切られてしまうのさ」


 手の平、手の甲、指、爪――袖から露出した部分全てで私を遮る。防御としてではなく、服が傷つくと面倒だと、ただそれだけの理由で。


「ッ……ラアアァァァアア!」


 顔面に向け、剣先を突き出す。向かう先は眼球、顔面の中でもっとも脆い部位を貫くべく突き出す。


「弱い」


 男は言う。

 瞼でそれを受け止め、男は小さくため息を吐く。


「なんて意思の篭っていない剣だ。使用者も、刀自身も抜け殻に等しい。それでは、そこらの二流や三流は切り裂けても、一流とは勝負にならない」

「黙れ――!」

「君は剣術家ではない、ただ棒切れのように剣を振るうだけだ。その妖刀で身体能力を強化しているようだけれど――剣士としては三流以下だ」

「黙れ、つってんだろぉがぁあ!」


 振るう。全身全霊、殺意と怒りを載せて私を振るう。

 しかし、届かない。男のスーツには汚れらしい汚れは見受けられず、動かす手の平は手遊びでもしているような無造作さだ。


「既に故人ではあるのだけれど、僕の知人にアングリッフと名乗る時代錯誤の騎士が居たんだ。もし君が彼と相対していたら、即座に殺されているよ。たぶん、こう言ってね――」


 瞬間、男の脚が動いた。

 鞭のようにしなったそれは、しかし鉄槌の如く重い。即座に幻想の力を腹部に回し防御を行うが――


「か――はっ!?」


 そんなモノは無意味だ、とばかりに雨宮と私を吹き飛ばす。

 壁に叩きつけられ、口から血液がこぼれる。 


「――そんな心構えで戦いを挑むなど虫唾が走る――とね。僕も同感かな。彼と違って殺意は抱かないけれど」


 ……さすがにこれはマズイか。

 戦況、ではない。いや、戦況も確かにマズイが――このままでは、戦闘が一般人の目に留まる。

 そうなれば、たとえこの場を生き残れたとしても、私たちに生きる道はない。ない、のだが。


「誰も……居ない?」


 見渡す限り、人間は雨宮とスタッフルームから出てくる男だけだ。他に、誰も居ない。


「結界を張っていると言っただろう? まあ、さすがにここまで広範囲ではなかったけどね。君がこの部屋に押し入ってから、範囲を広げさせてもらったよ」


 スーツ姿の男は、先程と同様に構えもせずこちらへと歩み寄ってくる。

 危機感がない。否、何一つとして危機だと思っていない動作だ。


「雨宮、少し冷静になれ」

「うる――せぇな」


 怒鳴り散らすように言い放たれた言葉だが、そこに力はない。左手で腹部を抑えながら、ホラー映画のゾンビのようにゆらりと立ち上がる。


「聞け。あいつは異能者だ」

「んなもん、当然だろうが」

「だから、聞け」


 無視して駆け出そうとする雨宮の脚から幻想を抜き取り、脚の強化を完全にリセットする。


「うるせぇな、一体――」

「結界は異法士が扱う技術だ」


 ハッ、と雨宮の表情に理性が戻る。

 異能者とは単一の能力に特化している存在だ。

 炎を扱う異能者が居るとしよう。しかし工夫次第では熱を利用した攻撃、煙を利用した攻撃などが出来るはずだ。

 しかし、己の体を強化する事も、空を飛ぶ事もできない。

 対し、異法士はイメージさえ出来ればありとあらゆる行為を行える。

 炎を使う事もできる。身体能力を強化する事もできる。多少であれば、何の能力を持たない人間のイメージに干渉する事もできる。

 つまり――


「ここに来るまでにあった部屋のどこかに、もう一人潜んでいるぞ」


 少なくとも、私たちが戦っているのを目視出来る範囲――いや、監視カメラという線もあるか。


「……たとえ逆転しても」

「その人物が増援に来れば二体一となり、一気に引っくり返される」


 無論、ここから逆転するのは薬物依存者の妄想にすら劣る現実味の無さだとは思うが――それを告げればムキになって戦いを続けるだけだろう。


「戦略的撤退だ。撤退という言葉が嫌ならば、後ろに全速前進でもなんでもいい! このまま戦い続けても、何の意味もないぞ!」

「……」


 数瞬の葛藤があった。

 感情は否、と叫び続けているはずだ。    

 この男を殺せ殺せ殺せ、それこそが我が望みであり存在意義であると。

 理性は応、と頷いているはずだ。

 このまま戦っても勝機は無いと、今すぐ逃げ出すべきだと。


「――知った事か!」


 そして、雨宮が選びとったのは感情だった。

 燃える激情を瞳に乗せ、飢えた肉食獣が如く猛り狂う。


「雨宮!」

「ンな細々とした事なんざ知った事か、俺は、俺は!」


 ああ、駄目だな。

 焦る心の奥で、酷く淡々と状況を受け入れる自分が居る。

 雨宮は止まらない。勝機は無いと知りつつも徹底抗戦を選択したのだ、もはや手足をもがれても止まるまい。

 ならば、もう死ぬしかない。

 そう思った、矢先のことだった。


「雨宮さん……っ!」


 ――それは。

 ここ数日で聞き知った声だった。

 何故、という雨宮の表情とは逆に、私は必然だろうとこの事態を受け入れていた。


「菅野さんか」


 セーラー服姿の少女、菅野嬢がそこに居た。瞳を大きく見開かれ、スーツ姿の男と雨宮を交互に見つめている。

 ――そう、無意識結界とは、無意識に働きかけ一般人の侵入を防ぐ異法だ。

 だが、彼女のように確固たる意思でそこに向かおうとしていれば、それを突破する事ができる。

 彼女はここでスーツ姿の男と会う予定があり、かつ雨宮が尋常ではない様子でそれを阻み、彼女を下の階に行かせた。無意識の上に意識の絵の具が塗られ、結界の力を無効化したのだろう。


「三島さん……? 一体、何をしてるんですか?」


 スーツ姿の男――三島と言うらしい――もその姿を認め、小さくため息を吐いた。


「そうか、菅野さんから伝わったのか。それでも僕が異能者であるという情報は出していないはずだから――ああ、なるほど。この襲撃は彼の独断か。全く、僕だからいいものを。もし勘違いなら最初の一撃で死人が出ているぞ」


 三島は瞳で雨宮を責めながら、しばし逡巡するように菅野嬢を眺め――小さく舌打ちをした。


「趣味ではないけど、仕方ないね」


 言うと――風を引き裂く矢の速度で駆け、菅野嬢の首筋をそっと握りしめた。

 息を飲む音が一つ、二つ重なる。


「交換条件だ」


 ただ一人、平静を保っている三島が小さく言った。


「今から引き上げるなら、この娘を助けるよ。けれど、どうしても戦いたいなら――仕方ない、喉を握りつぶさせてもらう」

「――ッ」


 菅野嬢が息を飲むのが伝わってくる。

 己の知り合いがこのような凶行に及ぶ意味が分からぬと、大きな瞳を見開き訴える。


「言っておくけれど、これは僕の趣味ではないよ」


 声にならない声を聞きながら、三島は少しずつ手に力を加えていく。ゆっくりゆっくり真綿か何かのように、細い喉に指を食い込ませ、気管を圧迫し呼吸を阻害していく。


「雨宮」


 彼女は異法士でも異能者でもない。武芸に秀でているワケでも、暗器を隠し持っているワケでもない。

 一般的な中学生少女である彼女にその拘束を解く術は無い。黙っていれば、そのまま死んでしまう。


「……」


 だというのに。

 雨宮は無言。頑なに無言を貫き通す。


「おい、雨宮!」


 見えていないのか、気づいていないのか――いいや、気づいた上で無視しようとしているのか。

 雨宮は止まらない。どろり、と淀んだ殺意を眼球に満たし、私を杖に立ち上がろうとする。


「……勝手な人間だな」


 それは侮蔑だった。

 穏やかな水面のようだった三島の表情は、突然の嵐で波立ったように荒れ狂う。

 そこには怒りがあり、嫌悪があった。何百もの剣戟をぶつけた時ですら浮かべなかったその表情に、雨宮は思わず足を止めてしまう。


「僕は君の仇なんだったな。正直、僕から言わせてもらえばあれは事故か自殺に近いモノだ、殺されてあげる道理はない。けれど、同時に君の怒りも理解できる。人の生き死には親しい者のモノであればあるほど感情が優先される。だから、君が僕を仇として憎み、殺してやろうとするのも理解できる」


 だが、と。

 菅野嬢の喉から指を外しながら、彼は続ける。


「それは君の勝手な理屈だ。そして、その勝手な理屈に、たまたま君に知り合っただけのこの娘を巻き込むつもりか?」


 ならば――


「君は、僕と変わらない。いいや、僕以下だ」

「ん、だと」

「被害者だから何をしてもいい、自分は復讐者だから何をやっても構わない、目的が果たされればその過程で親しい誰かが死んでも頓着しない――そういう事だろう、君の行動は」


 違う、と。

 誤りだ、と。

 誤字だ、と。

 誤謬ごびゅうだ、と。

 表現はなんでもいい、ただただ、その言葉は間違いなのだと。

 そうやって即座に言い返そうとした雨宮だったが、しかし何一つ言葉に出来ない。


「そして何より君の汚い所は――これだ」


 呆然と事の成り行きを見守っていた菅野嬢を、不意に抱き上げ――雨宮に向けて放り投げた。


「ッ!」

「きゃっ!?」


 大きな放物線を描いて飛来してきた彼女を受け止めた雨宮は、槍の鋭さで三島睨む。


「チャンスをあげよう」


 けれども、爆撃機から竹槍を見下ろす瞳で、馬鹿にし憐れむ目を向け――


「彼女を自分の手で殺せ。そしたら、僕も君に殺されよう」


 すっ、と菅野嬢を指さした。


「そしたら僕は抵抗しない。僕の強度は異能によってもたらされるモノだ、それを解除したら君のナマクラでも十分殺せるよ。首を落としてもいい。心臓を貫いてもいい。胴体を両断してもいい。腹部を捌いて内蔵を全て引き摺り出すのも自由だ」


 それは侮蔑。

 それは怒り。


「――そう、君が彼女を殺したらね」

「あ……」


 菅野嬢の震えが、雨宮を伝わり私に響く。

 瞳は、恐怖。

 チェーンソウを構えた殺人鬼と相対した時の表情で、彼女は怯え、震える。

 ああ、怖いだろう。怖いだろう。

 彼女は昨夜、雨宮が鬼たちと渡り合う姿を見ているのだ。

 故に、抵抗は無意味だと知っている。運良く逃げ出せても、すぐ回り込まれる事を理解してしまっている。

 そして――自分が殺されると知っているのに、三島に刃向かおうとした雨宮の狂気を知っているのだ。

 自分は確実に殺されるのだと、菅野嬢は理解した。

 それが雨宮が下すであろう結論だろうと、先程の行動で理解した。

 だから――


「雨宮……さん?」


 一向に刀を構えない雨宮に、疑問を抱いた。

 なぜだろう。もう既に自分の首は切り飛ばされていてもおかしくないのに――と。

 そう思って雨宮の顔を覗き込んだ菅野嬢は――


「ぁ……」


 ――流れる涙が今にも血液になりそうな雨宮の姿を見て、小さな吐息を漏らした。


「それが、君だ。それが答えだ」


 三島は蔑むように言った。


「自分の手を汚したくはないんだろう? 加害者にはなりたくないんだろう? 彼女を殺した瞬間、君は被害者という立ち位置には居られなくなるのだから。菅野法子という少女を殺した殺人者になるのだから」

「俺は……」

「復讐者と聞いて呆れる。僕が知っている紅い復讐者は――かつて大事だったモノ全てを焼き払ってでも復讐を為す覚悟があった。焼き払った先が空虚だと知りつつも、全てを投げ打ち求める覚悟があった」


 それが誰なのかは知らない。

 だが、彼の言葉からその男に親愛や尊敬を抱いているという事が伝わってくる。


「しかし、君はそれがない。君は現実は要らぬとうそぶきつつ、同時に亡くすのが惜しいと考えている。だから、己の手で殺せない。加害者にはなれない!」


 貴様は恥知らずだと。

 どうしようもない愚物だと嘲笑し、糾弾し、断罪する!

 ああ、汝はこれ程までに罪深いというのに、なぜのうのうと生きているのだろうか!?

 それは、奇しくも殺人者に対し犠牲者の親族が叫ぶようだった。


「僕が彼女を殺したら、言い訳ができるからね。仇を前に我を忘れたと言ってもいい、有無を言う間もなく殺されたとうそぶいてもいいね。なぜなら、ここには君の知り合いは彼女しか居ないのだから」

「――がう」

「ふん?」

「違う違う違う! 断じて違う! 俺は――俺はそんな人間じゃない!」


 駄々っ子のようだった。

 おもちゃを買って欲しいと親にねだり、けれども了承して貰えなかった時の子供の叫び。

 親の財布などの諸々の理念をすっ飛ばし、ただただ「認められぬ」と叫ぶそれは、童子ならまだしも雨宮のような男が行うには少々醜過ぎた。


「ふ――はは、ははははっ! やはり――やっぱり醜い! そうだ、君はそうでなくてはならない……!」


 先程までの憐憫や怒りとは違う、喜悦に満ちた笑みを浮かべ、三島は笑う。


「ははっ、それに法子ちゃんがこっちに来たらもう問題はねぇ! 彼女を逃がしてテメェぶっ殺せば事足りる!」


 だから、逃げろと。

 そんな言葉をかけようとして――


「……最っ、低」


 ――混じり気のない侮蔑が、彼女の口から漏れ出した。


「法子ちゃ……」

「自分は悪くない、悪いのは全部全部全部――仇のあの人だって言ってるようにしか聞こえませんよ」


 軽蔑するような――いいや、完全に軽蔑しきった眼で雨宮を睨む。


「私を殺させるのは見過ごして、自分の手で殺すのは首を横に振って。けど……分ってるんですか? 最初に見過ごした時点で、雨宮さ――……雨宮、アンタは私を殺してるも同然じゃないですか。なのに、なのに、どの面下げて『君を守る』みたいな態度ができるんですか……? 頭、おかしいですよ」


 数刻前までは親しく会話していた少女は言うのだ。

 責任だけを他者に押し付け、正義面をするのは酷くいびつで、醜悪で、唾棄すべき畜生であると。


「それ、は……」


 嫌だ、嫌だ、嫌だ。

 考えたくない、考えたくない、考えたくない。


 両脚の力を失い崩れ落ちる雨宮を見ても、菅野嬢の表情は真冬の氷のように冷たく、微動たりともしなかった。


「……けど」


 三島に目を向け、敵意に染まった視線を送る。

 それは決して友好的な立ち振る舞いとは言えなかったが――なぜだろう、先程雨宮に見せた表情よりはまだマシだと思えてしまう。


「雨宮が戦ってるって事は、仇って事は……昨夜、あたしの、おばあちゃんの家に化物を送った人って事でいいんですよね」

「そうだ。言い訳はしないよ。僕は異能者だ。己の欲するがままに異能を遣い、目的を達成しようとする者だ。ああ、僕は言い訳などしない。言い訳なんてしないよ。僕は菅野さんにとって、許しがたい悪事を働いた」

「……ッ。確かに、雨宮も許せないけど――あたし、あなたも許せそうにないです。凄く、いい人だって思ってたのに……ッ!」

「菅野さんの怒りは正統だね。けど、同時に間違いでもある。なぜ、僕が無償の善意を君と君のお婆さんのために与えなくてはならないのかな?」

「それ、は……!」

「人の行動には対価と利益が複雑に絡み合っているんだよ。一見、完全な善意に見えてもね。

 勉学に励みいい学校に行く――これは遊べたはずの時間を対価にして己を高めるためのものだ。

 何もかも忘れ遊び呆ける事――これは己を高める時間を捨てるという対価を払い快楽を得るためのものだ。

 企業が自然環境に配慮する――これはCO2などの削減に必要な費用を対価にエコに狂った消費者を囲うためのものだ。

 どこかの被災地に募金する――これはお金を対価にし『自分はいい事をしたのだ』という満足感を得るためのものだ。

 菅野さん、覚えておくといい。無償の善意など存在しない。たとえそう見えても、長い目で見れば帳尻が合う場合がほとんどだ。

 そして、僕が君たちに色々よくしたのも――噂を広め幻想が産まれやすくするためなんだよ」


 故に、自分の行為は正しくはないものの――人間として当然の欲求に身を任せた結果だと。

 三島は悪びれること無く、微笑みさえ浮かべて言った。

 その言葉に対し、菅野嬢は何も答えない。

 いいや、答えられないのだろう。

 反論はしたいのかもしれない。言うべき言葉もあるのかもしれない。

 けれども、呼吸を止めねば涙と嗚咽が先に溢れ出るとばかりに、俯き黙りこむ。


「さて、それじゃあ菅野さん。そろそろご退場を願えるかな? 君が僕を嫌う事になっても、僕は君に悪感情を抱いていない」


 凄惨な光景を見せてトラウマを与えたくはないんだよ、と。

 そう言った後、雨宮に視線を向けた。


 ――ぞっ、とする。


 汚物を見る目だ。ドブ掃除を命ぜられた者が、なぜこんな汚れがあるのだと不平不満を並べる時の瞳だ。

 ならば、私たちの恐怖は数分で除去される汚泥のそれなのだろうか。


「――この野、郎」


 だが、その汚泥にも五分の魂があるのだと宣言するように。

 雨宮はゆらりと立ち上がる。脚に力が入らず、上体が左右に大きく揺れた。バランスを取るため壁に手を置く。

 無様な姿だ。

 これが少女を助けるために立ち上がったのならば、実態は無様でもヒロイックな格好の良さを演出できたかもしれない。

 しかし、立ち上がった理由は怨恨のみ。ただひたすらに自分勝手な振る舞いは反吐が出る程に不恰好さであり、同時にストリートに転がる浮浪者の死体にも似た哀れさだった。


「……いいですよ。でも」


 視線が突き刺さる。刃にも似たそれが私と雨宮をズタズタに引き裂く錯覚を抱く。


「雨宮さ……も一緒に見逃してもらえませんか?」

「ふむ?」

「なん……」


 その言葉は、彼女を除く全ての人間と物体にとって予想外のモノだった。


「解せないな。君は彼を軽蔑したと、もはやどうでもいい路傍の石と認識したと思っていたのだけれど」

「借りが、ありますから。あたしの借りはさっきの行動でチャラになったとしても、おばあちゃんを助けてくれた分は、まだ残ってますから」


 だから、見過ごす事は出来ないと。

 菅野嬢は迷い無く言い放つ。


「構わないよ。ただ、今後一切彼を殺さないというワケではないからね」


 今後、こちらが手を出すにしろ相手が手を出すにしろ――殺す可能性は十分あると三島は告げる。

 それで十分です、と言って小さく頭を下げた菅野嬢は、ゆっくりと壁に寄りかかる雨宮に近づく。

 そんな彼女に、雨宮は轟々と燃える炉の炎の苛烈さで睨みつける。


「勝手に決め――」


 スパン――という澄んだ音。

 彼女の平手が頬を叩き、その勢いで雨宮は崩れ落ちる。


「聞いてくださいよ。これが――これが正真正銘、最後のお願いですから」


 それは。

 それは決別の言葉。

 もう終わりだと。関係が崩れたのだと。友愛だとか絆とか全て全て、終わりを告げるのだと。


「あ――」

「行きますよ」


 その言語に、一体何を感じたのか。

 こちらに背を向け歩き出す菅野嬢を、おぼつかない足取りで追う。


「どちらにも属さない者の、当然の末路だ」


 それだけ言うと、三島は携帯電話を取り出し、誰かと通話を始めた。

 エスカレーターの下は普段通り過ぎるほど普段通り。多少上の階の異音を気にする者が居たが、確かめるに値せぬと背を向け買い物を再開していく。

 客層も変わらず学生ばかりで、ほんの少し前に戦いを繰り広げたのが嘘のようだ。


「……」


 けれども。

 雨宮に刻まれたいくつもの傷が。

 菅野嬢の冷たい無言が。

 空想にあらず全てが現実なのだと告げていた。

 

     ◇


 私たちを降ろしたバスが、排気ガスを垂れ流しながら去って行く。

 菅野嬢はそれを見ようともしない――いいや、それは間違いだ。

 背後の私たちを見ぬようにしているからこそ、私たちの後ろを流れていくバスを見る事が叶わないのだろう。

 バスが視界から消え、排気音が聞こえなくなった頃に、菅野嬢は歩き出した。

 行先は神社、彼女の自宅。

 菅野嬢と雨宮の間に広がる空気は氷点下と化していた。時折吹くぬるい風すら凍てつかせ、私たちを凍えさせる。

 長い階段を登り、いつの間にか来ていた土木作業員たちが壊れた神社の周りで作業をしているのを横目に見ながら、姫凪宅に辿り着いた。


「これで」


 くるり、と反転した菅野嬢は、平坦な――平坦であろうと自身を律している声で言う。


「これで、貸し借りはありませんから」

「法子、ちゃん。俺は……」


 俺は? 

 雨宮よ、俺はなんだと言うのだ?

 悪くない? 頭に血が昇っていた? 本当はあんな事をしたくなかった?

 どれも、どれもどれも薄っぺらい言い訳だ。軽薄な妄言だ。そんな言葉、今の菅野嬢に届くはずもない。

 それに気づいているからこそ、雨宮も二の句を告げる事が出来なかった。


「あたしは雨宮のこと、かっこいいって思ってたんですよ」


 小さく、か細く――崩壊した神社を片付けようとする作業員たちの声に押しつぶされて消えそうな声。


「軽薄そうだけど、あたしのピンチを助けてくれた――漫画の主人公みたいだって、思ったんですよ」

「はは……復讐に生きる男なんぞ、悪役か脇役にしかなれねぇさ」

「それ自体は、構わないんですよ。あたし、親しい誰かが殺された事なんてないので。良くは思わないですけど、悪くも思わないです」


 自嘲の言葉を否と断じた菅野嬢は――体当たりをするように雨宮に掴みかかった。

 身長差のために胸倉よりやや下の辺りを掴む。じゃらり、とシルバーアクセサリーが鳴る。


「でも、雨宮は、貴方は違うんですよ」

「なに……が」

「今も、昔も――どちらも中途半端で。どっちも大事にしようとして、結局どっちも蔑ろにしてる。漫画の主人公みたい、ていうのも――ただ、嘘臭くて物語の登場人物みたいだったからなんだと思います」


 雨宮の呼吸が、死が訪れた時のように静止した。


「あたしは貴方が昔、どんなことがあったのかは知りません。けど、これだけは分かります」


 それはナイフ。鋭く、太く、決して折れぬ刃。その名を言葉という。


「貴方は傷つくのが嫌なだけです」


 刺して、

 刺して刺して、


「悲劇の主人公で居たいから、もう傷つきたくないから。嫌なことも、自分の悪意も、何もかもあの人に移して恨むだけ」


 穴だらけの腹の中に何がある? 

 それは臓腑。赤黒く照り光り、外面をどれだけ美しく取り繕っても人間の中身はグロテスクなのだと主張している。


「だから、復讐と関係なくても正義の味方みたいな行動は嬉々としてやるんですよ。良い事をしてると、気持ちいいんでしょう? もっともっと、したくてたまらないんでしょう? まるで麻薬中毒者ですよ。そんな貴方だから――目の前で見捨てた女の子を舌の根も乾かないうちに助けるんだって、臆面もなく言えるんです。だって、その時の貴方は辛くて辛くて――正義に逃げたかったんですから」


 それでも、だとしても、貴方の肺は黒過ぎると菅野嬢は言う。

 ああ、なんと醜いのだろうかと。

 だから。

 ヘビースモーカーの死体を解剖する医者のように、顔を顰めるのだ。


「……違う」


 小さく、呟く。


「何が違うんですか? もし、あたしが何か勘違いしていたら言ってくださいよ。その時は心から謝らせて頂きますから」

「違う」

「言ってくださいよ」

「違う、違う、違う!」

「駄々っ子じゃないんですから、ちゃんと一から十まで説明してくださいよ。そしたら――」


 すぐに元通りとはいかないかもしれないけど、いつかきっと元に戻れると思いますから。

 そんな言葉を言おうとしたのではないかと考えたのは、私の逃避なのか、それとも今まで見聞きした彼女から導き出した推論なのか。

 私には、分からない。

 そして、答えを知る機会もまた、永遠に失われた。


「違うッ!」


 腕が疾る。制止する間もなかった。

 肉を打つ拳の鈍い音。それから数秒ほど遅れ地面に何かが叩きつけられる音。倒れ伏す、菅野嬢の姿がそこにあった。


「あ……」


 振り切った拳を呆然と見つめる雨宮を、菅野嬢はじっと見つめていた。

 冷たくはなかった。

 けれども暖かくもない。

 限りなく常温に近く、けれども酷く淀んでいる――その眼差しから読み取れる感情を、人は『失望』と呼ぶ。


「……」


 真っ赤に腫れ上がった頬を抑えながら、よたよたと立ち上がる。


「あ……」

「帰って」


 その短い言葉に、どんな感情が盛り込まれているのか。

 私には想像する事しか出来ず、けれどその想像では内に渦巻く感情のうねりを理解する事など不可能だろう。


「アンタの顔なんて、二度と見たくない」


 それだけ言って、自宅へ向かう後ろ姿を、どうして止められるだろうか。

 その傷ついた後ろ姿を抱きとめるには――雨宮は醜悪過ぎた。

 

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