序章/2
うう、うう、うう、と。
呻くような、苦しむような、憎むような声が聞こえてきた。
それと重なるように響く重低音。ズン、ズン、と断続的に聞こえるそれは、どうやら足音らしかった。
らしかった、というのは人間のそれとは比べ物にならない大きさだったからである。
古めかしい旅館が、ぎいぎいと軋むように揺れる。窓から覗く桜花たちが揺さぶられ、桃色の吹雪を生んだ。
――ここはまだ範囲外だと思ったが、な。
どうやら、仕事場に着く前に一仕事済ませなければならないようだ。
「……起きろ、雨宮」
布団の中で転がる、黒服の男に声をかける。
アッシュブロンドの髪を揺らしながら、のそりと起き上がる。黒服を縛るように付けられた鎖の装飾が、じゃらりと音を立てた。
雨宮宗平という名の男は、鋭い目を糸のようにしたまま不機嫌さを隠そうともしない声で言った。
「ンだよ。どうせ明日から夜中まで起きなくちゃなんねェンだろ? 今くらい寝かせてくれよ」
「馬鹿者が。耳を澄ませろ、大地の震えを感じ取れ。その仕事場で用がある奴が近くにいるぞ」
雨宮はしばし無言で佇み、「はあ」と溜息を吐いた。
「労働組合に訴えンぞ」
「訴えられるモノなら、いくらでも訴えればいい」
私たちの仕事は労働組合の管轄外だろう。というより、管轄外で無ければ困る。
これから行うのは、そういった類の仕事だ。
「ですよねー、ああ、眠ィ」
ぶつくさと言いながら立ち上がると、気だるげな仕草で『私』を握った。
窓の外を見やると、夜半の世界。冴え渡る月と、輝きの粒子のようにも見える星たちが見える。
いい夜だ。睡魔をもたらす春の陽気も夜と共に隠れ、今は体を引き締める冷気だけがあった。
雨宮が窓から跳ねる。木々を足場に道路へ向かう。近場の民家の屋根に着地し、声の主を確認する。
――――昔々、あるところに。そんな前置きで語られるべき存在であった。
二メートルを軽く越す巨漢。皮膚は焼けた鉄のように赤く、けれど凝固しているかのように屈強だ。
その常人離れした体躯を包んでいるのは、腰巻一つだけ。右手には、平均的な男の身長よりも長く、そして太い金棒が握られている。
そして、そんな常軌を逸した特長すらもどうでもよい事と思わせるモノが、額に二本存在した。
角。
ツノである。
短くも鋭い、人の体にはありえぬ部位。
昔話の世界から抜け出してきたような風貌。だというのに、彼が歩くのは砂利道ではなくアスファルトで舗装された近代的な道路だ。
その様は何かのコントのようでいて、同時に幻想的でもある。どちらにしろ現実離れした情景だった。まるで、おとぎの国から抜け出して来たようだ。
――やれやれ。
そこまで観察して、私は思わず苦笑した。
おとぎの国から抜け出した存在、か。なにを他人事のように。それは――私とて同じであろうに。
「――オオ」
枯れた大地のように、低く、しわがれた声。鋭い牙が並んだ口を開き、何事か呻いている。
「……オオォォ」
感情の亡い声。けれど、鋭い双眸は言葉よりも雄弁に感情を発露していた。
曰く――壊したいのだ、と。
何でもいい、誰でもいい、自分の目の前に壊すものが欲しいのだと。
一歩、足を踏み出す度に轟音が鳴る。本来想定された重みを圧倒的に超えているためか、アスファルトは悲鳴のような音を立ててひび割れていく。
「あれが俺の安眠を妨害し腐った野郎だな」
私を握ったまま、雨宮は軽薄な笑みを浮かべた。
「ああ。油断するなよ。あれは幻想の中でも最上級の存在――鬼だ。そこらの幻想と同じ気持ちで戦えば、首が跳ぶのはお前の方だ」
「わァってる。ま、適当になんとかするさ」
よっと、などと軽い口調で屋根から跳びあがった。静寂に包まれた夜に、たん、という軽い音が鳴り響く。けれど、自身の足音にかき消され私たちの存在に気づかない。
にやっ、と雨宮は軽い笑みを浮かべ、私を抜き放った。
シャン、という清んだ音色。鋭く澄んだ高い歌声に、ようやく私たちの存在に気づいたのか、鬼は慌てたように上を向く。
――だが、遅い。致命的な遅さだ。
目と目が合うより疾く閃いた刃は、鬼の右腕と重なり沼に沈むように埋没した。
肉の間をすり抜けるような感覚。抵抗感は僅かだけれども、纏わりつく粘ついた赤が気色悪い。
轟音と共に地に堕ちる巨木の如く太い腕。捻られた蛇口のように、赤色を吹き出した。
「ぬがぁぁああああ!」
「るっせェ――よっ!」
怨、と。死を運ぶ怨霊の如く、黒き刃は鬼の首筋に纏わりつき、当然のようにすり抜ける。
スタン、と軽い音と共に鬼の背後に着地すると、雨宮は軽く私を薙いだ。宙に散る、粘ついた血液。
「不意打ち成功、ってやつだ」
「阿呆。あのような攻撃、不意打ちなどと呼べるか。気づかれなかった理由は、奴自身の足音によって跳躍の音がかき消されたに過ぎん」
「……まあ、結果オーライだ。それに、仮にバレたとしても、あの程度なら対処出来たろォぜ」
なーんの問題もねェよ、と雨宮は笑う。
私が人であれば、溜息の一つでも吐いていた事だろう。
なぜ私はこのような男の手に渡ったのだろうか?
……決まっている。思い返すまでもない。
「ぐ――オオ……」
苦痛の声と共に鬼が振り向き、背を向ける私たちに金棒を振り上げ――ようとした。
ずるり、と首を滑るように頭部がズレる。
ギ? と。
腑抜けた言葉を漏らし、鬼の頭は地に堕ちる。すると、栓の抜けた風船のように、中身を吹き出した。もっとも、中から飛び出るそれは空気のような綺麗なものではなく、鉄臭い赤色なのだが。
たとえ鬼とはいえど、そして、たとえおとぎの住民とはいえど――その体は哺乳類をベースに作られている。あれほど血液を吐き出し、生きている道理はない。
生命活動を停止した鬼。それが、徐々に薄くなっていく。
本来、この世に存在しないはずの生物である彼ら――幻想。それを繋ぎ止めるのは人々の意思であり、各々の生命である。生命を失った幻想は、空気を失った炎のようなものだ。いくら燃え盛ろうとも、酸素、水素が無ければ消え去るしかない。
――だが、その有り余った幻想は惜しい。
「その魂、貰い受ける」
闇色の刀身に、光が収束する。その光とは、あの鬼の存在を繋ぎ止める意思である。
それを、飲み込む。食事でもするように。
この時勢、本来ならば食えぬほど立派な馳走である。一瞬で喰らい尽くすのも勿体無いと思い、徐々に、削るような速度で喰らっていく。
「んなものさっさと済まして戻ろうぜ。まだ寝たりねェわ」
そう急かすな、とここ数年の相棒に告げ、私は食事に意識を集中させた。
「どうせ明日からの仕事で食い放題だろォがよ」
「明日は明日、今は今だ」
言いながら上司から与えられた仕事を思い出す。
『――鬼退治を頼みたい。きびだんごが欲しいならポケットマネーで入手してくれ』
馬鹿馬鹿しい、なんの冗談だ――と誰もが笑うその言葉だが、しかし私にだけはそれを笑う権利はないだろう。
「もういいだろ。とっとと帰ンぞ」
睡魔の誘惑に布団の中に入るということで応えたいらしい雨宮は、気だるげに刀を――私を鞘に収めた。
黒塗りの太刀にして、使用者と敵の魂を喰らう呪われた妖刀。それが私という存在だ。