急転/1
リビングが全壊しているため、私たちは菅野嬢が自室として使用している部屋に居た。
老婆と春香嬢は協会に向かっているため、現状、部屋にいる人間は雨宮と菅野嬢のみとなる。
クッションに腰掛けた私たちは、菅野嬢に対しこちら側の事を説明していた。
「――こんな感じでご理解して頂けましたかね?」
菅野嬢にとって理解の埒外である異法世界の物事を説明するのは、些か骨が折れた。
協会、異法士、異能者、幻想――それらを語り終えた頃に窓の外を見ると、既に夜が明けていた。
菅野嬢の唇から、はぁ、と小さな吐息が漏れる。
「なんだか、漫画みたいな話ですね」
言って、インスタントの茶を傾ける。
その姿は落ち着いているように見えるが、本心はどうなのかは分からない。人間、感情が一定以上に達するとストッパーが働くものだ。
「漫画よかショボイのが実情だぜ? ぶっちゃけ、大半の異法士や異能者は拳銃持った一般人にも勝てないだろうし」
おどけたような軽い笑いを漏らしながら、雨宮も茶を呷る。その仕草は彼女の恐怖や心配を薄める気遣いゆえか、はたまた素か。こちらも私には判別がつかない。
異法士は二つ名クラスでも兵器を相手にすれば惨敗。各国の最強クラスでも、数を揃えられたら太刀打ち出来まい。日本の最強は数少ない例外らしいが――あれは瞬発力はあれど持久力という面では底辺で、どうにもならないのは一緒らしい。
異法は科学に対し優位に立っている点は、せいぜい無から有を創造することと、人体のみで完結していることくらいか。
「それも然り、だ。単純な算数だ。個人の能力よりも、何千何万もの人間が積み重ねたモノが優れているのは道理だとも。いや、少し語弊があるか」
例えば白米を炊く技術。絶妙な火加減、水加減で機械の飯盒を上回る美味さを生み出す人間はいるだろう。
だが、それは誰しもが出来るモノではない。どんなに努力してもその領域に達せない人間も存在する。
しかし機械ならどうだ? 達人の技に比べ見劣りするかもしれないが、使い方さえ学べば誰でも同レベルの白米を食すことができる。
そして機械は一度生産ラインが確立すれば量産できるし、それを研究開発する者たちが、更に上手く米を炊ける技術を生み出すかもしれない。
「そういうことを、科学と対極な人に言われると思わなかったなぁ……」
菅野嬢の視線が私に注がれる。
「まあ、な」
雨宮の腰に差されたまま苦笑する。
既に私のことは話し終えている。科学と対極の話をするのに、私ほど分かりやすい例はあるまい。
「けど」
ふと、菅野嬢が漏らす。
「あの鬼? ……たちは、なんで神社を襲ったんですか? 説明じゃ、もうこの神社に鬼を封じるとかそういう能力はないんでしょう?」
「そりゃ――、なん、だろうな?」
分かるか? と問うてくる雨宮に対し「いや」と短く否定の言葉を口にする。
しかし、考えて見れば奇妙な話ではある。
今までは人気のない場所でほんの少し暴れるくらいだったというのに――今回のアレは襲撃と呼ぶに相応しい。
そう、ただ暴れるのではく襲ったのだ。老婆と菅野嬢が居る家に、大挙として押し寄せたのだ。
ゆえにそれは姫凪の血に執着していると考えられないだろうか?
「それは無いんじゃないかしら」
鈴、と鳴るような済んだ声音。春香嬢が開きっぱなしだったドアから顔を出していた。
「姫凪家の異法士は鬼に対して特別強かったわけじゃないもの」
「え、マジ?」
雨宮の言葉は、期せずして私の思考を代弁していた。
「ええ。当時、鬼を相手取った異法士たちの中で、たまたま神職の人が居たから、聞こえの良いように関連付けただけ――ですよね?」
春香嬢の言葉に、老婆は「そうさね」と頷く。
「だから、これは予想外も予想外なのさ。私なんぞ、もはや残りカスで殺すに値しないはずなんだ。なのに、なんであの鬼たちは……」
唸るように言い、茶を啜る。
……考えても、考えても答えは出ない。
ただ暴れるのではなく、襲撃した。それが無意味なはずはないだろう。
「あの……」
小さく、おずおずと菅野嬢が手を上げる。
「その、わたしこんな世界を今日初めて知ったから、すごい的はずれなこと言うかもしれないんですけど……」
「いや、なんかあったら言ってくれよ。三人寄ればなんとやらだ、四人と一振りなら文殊通り越した何かになるかもしんねぇし」
じゃあ……と意を決したように、すう、と深呼吸をする。
正直な話、私も老婆も春香嬢も、促した雨宮でさえその言葉に期待などしていないだろう。
彼女はこちらの世界の知識を得て一日すら経っていない。故に、正答に至る道を指し示す事など不可能だと――そう思ったのだ。
「あの鬼たちって、噂があると出てくるんですよね? なら、自分たちが出て来やすいように、噂を広めたいんじゃないんですか?」
「噂を広める?」
私の言葉に、菅野嬢は柄の辺りに視線を定め、「うん」と頷いた。
「だって、この神社って鬼を封じた人が建てたんでしょ?」
「いや、あのね。ここにはもう、そんな意味合いなんて――」
「関係ありませんよ」
春香嬢の言葉を、ずばりと一閃。
「そもそもそんな話、意味なんてないんです。移転してそういう力が薄れた――うん、それは聞きました。けど、それは教えてもらったから知ってるわけで、教えて貰わなかったらわたしはきっと、ずっと知らなかったはずです」
神社の有用性など、関係ないと。
一般人たちにとって、非常にどうでもいいことなのだと。
「わたしたちみたいなのが知っているのは、この村に昔、鬼が出たこと。この神社を建てた人がそれを封じた昔話があること。その神社が移転された後、すごい力のなにかで破壊されたってこと。けど、噂を広めるだけならそれだけで十分過ぎますよ」
なぜなら、それは。
「噂を広める大多数の一般人は、簡単に、適当に物事を結びつけるはずですから」
鬼が出るという噂が蔓延するこの地で、突然、鬼を封じた者が建てた神社が重機めいた力で破壊された。
それだけで十分なのだと。
それ以上必要ないのだと。
「正直、鬼の噂って信じてない人も多かったんですけど。この現状を見たら――もしかしたら、って思うんじゃないかと思うんです」
現代の日本において、妖怪や幽霊などという幻想は物語でしか存在できない、吹けば消えてしまう儚いモノだ。誰もがそんなモノは存在しないと信じ、幻想を常識で打ち消している。
だが、人間の意思など簡単に揺らぐモノだ。
何も無いと分かっていても、闇から何かが出てくるのではないかという妄想。幽霊など存在せぬと思っていても、夜道の墓地は恐ろしいと思ってしまう。
居ない、と頭では分かっていても――人間は少なからず幻想を抱いているのだ。
「法子。つまりお前はこう言いたいわけだね? 鬼たちは姫凪の神社を恨んでいるわけではなく――」
「神社をぶっ壊すことで、自分たちを構築する幻想を強化したかった、ってことか」
老婆の言葉を雨宮が継ぐ。両者の表情は険しく、眉間に深いシワが刻み込まれている。
吹けば飛ぶような幻想を、それっぽい事実で強化する。
真実を知っている人間を騙す必要はない。そんな連中を騙すのは骨であるし、何より元々少数なのだ。無知かつ大多数の人間を騙せばそれで目的は達せられると。
一考に値する、と両者の表情が静かに語っていた。
だが、
「けど、あいつらにそれを考えるだけの頭があるのかしら?」
私の疑問を春香嬢が代弁する。
そうなのだ。今まで戦った鬼――いや、鬼らしき幻想か?――は戦闘能力という面においてはそこそこなのだが、思考能力という面では獣前後といったところだ。
故に、私は昨夜、狙うように神社を襲った鬼の行動に驚いた。今までの暴れたいが故に暴れるような行動とは全く違う。
ならば――といくつかの仮説を思い浮かべる。
「一つ、強化。鬼が出るという噂が前以上に広がり、幻想が強化され思考能力が上昇した。
二つ、偶然。出現した場所が偶然にも神社であり、普段通り暴れようとしたが反撃をされる。そしてその時期、噂が広がり鬼が顕現出来る数も増えたため、数と質を揃え危険な相手を処理しようとした」
だが、私は二つの理屈のどちらも信じていない。
一つ目に関しては数が多い割に質が悪い連中が多かったため可能性は低く、二つ目は――これはさすがに思考停止が過ぎるだろう。
もしあり得るとするならば、
「三つ、人為。異法士か異能者かは知らないが、鬼を生み出せる、または自然発生の手助けを出来る人間が居るとする。その彼か彼女かが、もっと鬼を生み出しやすいように神社付近で鬼を出現させた」
今年の二月頃に起きた大規模な事件――一般的に『連続焼殺事件』と呼ばれるその事件で、オリジナルの異形を生み出す物質創造特化の異法士が出没したという。
もちろん、完全に同系統の異法ではあるまい。だが、異法にしろ異能にしろ、何か幻想に働きかける力を持った能力者がこの村に居ることは間違いないだろうと思う。
正直これも突飛ではないかと思うのだが――突然の強化や完璧な偶然などよりは、随分とマシな仮説だろう。
それに、だ。
「――ああ、なるほど。確かに、確かにあり得るわな」
低い、低い、地の底から響いてきているような声だった。春香嬢と菅野嬢が怪訝な表情を浮かべる。
それも然り、だ。声の主である雨宮の表情は、普段のそれとは違い、酷く不愉快そうに顰められていたのだから。
ああ、そうだろう。そうだろうな、雨宮。
起きているお前が負の感情を抱くのは、忘却したい過去に触れれた時なのだから。
「俺は、一度そういう能力者に会ってる」
そう言って、ガリガリと頭を掻く。自分の苛立ちをこそげ落とそうとするように。
◇
――今から五年ほど前の話だ。
雨宮が住んでいた街で、妖怪という幻想が溢れた。
もっとも、それは鬼縁町のように種族が固定されたモノではなく、一般人が想像出来る範囲の有名所であり、そして一般人が妄想出来る程度の知識で生み出された幻想だった。
幻想が絵の具であり、それで描かれるのが妖怪だとしよう。しかし当時の街では、バケツの水で筆を洗った時に出来る色水――その程度の濃さで妖怪が生まれ落ちたのだ。
「当初は問題などなかった。薄い絵の具で描いた絵は、注意深く見なければ絵だと判別出来ぬほどに希薄だったからな。だが、どれほど希薄であろうと、存在していれば見つける者もいるし、それを噂にする者も居る」
噂は亀の歩みで広まり、絵の具は徐々に濃くなっていく。
協会が本腰を入れる頃には、その街の夜は人外魔境と化していた。
「そして、本来あり得ない絵の具で絵画が描かれた以上、その絵の具を持ち込んだ者が、いや、その絵の具を作り易いように場を整えた者が居る。雨宮と私は、その人間に会った」
雨宮の瞳は閉ざされている。この話題を切り出してすぐ「一眠りする」とだけ言って、クッションを枕にし寝転んだのだ。
春香嬢はそれを止めたかったようだが、私がそれを諌めた。
誰だって、思い出したくない過去ぐらいある。誰にだって耳を塞ぎ、目を閉じ、可能な限り別の事を考え、忘却する――その程度の権利はある。
無論、それは逃げだろうし、なんの解決にもならない。しかし、既に解決策が失われた事柄から逃げるのが、それほどまでに悪なのだろうか。
故に、私は雨宮をどこまでも逃がす。語りたくない過去は、同じモノを経験した私が語り聞かせよう。
「その男は雨宮の幼なじみを欲していてな、それを守るため、雨宮は私を抜いたのだ。……だが結局、逃がしてしまったのだがな」
「ふうん……」
何やら少し不機嫌そうに吐息を漏らす春香嬢を見ながら、私は小さく苦笑した。
嘘は言っていない。ただ、一部を話さなかっただけ。
「それで、その能力者と鬼を生み出している能力者が同一だと考えたとして――なにか、探す手段はあるのかい?」
老婆の言葉に「ああ」と小さく答える。
なにせ、私はそれを誰よりも近くで見ているのだ。知識の足りなかった昔ならばまだしも、経験を積んだ今、分からない道理はない。
「私が想像する通りの異能者ならばの話だが――その異能は、力を地面に叩き込み、そこから一定の範囲を幻想が生まれやすい世界にするというモノだ。これはどこにでも打ち込めるのだが、しかしその土地にとって重要な場所ほど範囲が強まる」
「この村にとって重要って……市役所とかですか?」
はい、と手を挙げる菅野嬢に思わず苦笑する。
いや、まあ確かに重要と言えば重要だろうが。
「そういう重要ではなく、こちら側――異法関連で重要な場所、だな。この場合、歴史がある神社、怪談のある場所、夜になると真っ暗になる道――菅野嬢に分かりやすく言うならば、『歴史がある、もしくは幽霊が出てきそうな場所』という事さ」
現代の雰囲気から少し外れた、そこにある非現実的な噂こそが、幻想の素なのだ。
「そう考えれば鬼たちが住居近くに出てこない理由も説明出来る。起点が人間の営みから外れた場所なのだからな」
「つまり、鬼が出た近くのいかにもな場所を探せばいいのね?」
春香嬢は憮然とした表情で告げた。先程から少し機嫌が悪い、雨宮が仕事中にふて寝を決め込んでいるからだろうか。
老婆は「年頃だからね」と呆れと好奇を混濁させた顔で彼女を見ている。
……まあ、いい。私が考えるべき事ではないだろう。
「そして、古くからある有名なところ。そして――元々は古く有名だったところ、か」
たとえば……そう、最近出来たデパートなどが怪しい。
元々、この鬼騒ぎの現況はあれが建った事により、鬼の噂が再燃したことにある。引き金であり、同時に未だ燃え続ける炎だ。
私がその異能者ならば、そんな場所を見逃すとは思えない。有名であり、鬼の噂が最も強い。場所としてはこれ以上ないと言ってもいいだろう。
「前に行った時も夜なら気づけたかもしれないのだがな。だが、昼間は人間の世界、異能の力など人の営みに消えるか」
雨宮の上司なら目ざとく見つけたかもしれないが――ここに存在しない人間の力を求めるのは愚か以外の何物でもない。
ならば、やることは大して変わらない。
連日の鬼退治を鬼の発生源潰しにシフトするだけだ。
◇
ふて寝していた雨宮をたたき起こし、時雨崎の屋敷へ足を向ける。
「くあぁ……んで、お嬢ちゃん学校どうすんだ?」
あくびを漏らしながら、傍らを歩く春香嬢に視線を向ける。
「休んだ。というか、休まざるを得ないわよ。さすがに今、授業受けたら三分とかからず寝ると思う」
さすがに目立つと思ったのか、戦闘時に着ている着物は畳んで両手で抱えている。
インナーのフリルのブラウスとミニスカートという出で立ちだ。だが、鞘だけとはいえ腰に鞘を差しっぱなしなのはいかがなものか。まあ、さすがに柄は着物の中にくるんでいるようだが。
「しっかし騙されたぜ。俺はてっきり物質強化特化の異法士だと思ってたぞ」
抜刀術は言わば蓋であり、真価を隠す幕である。その幕すらも一級だと言うのだから、二つ名と呼ばれる連中は恐ろしい。
だが、同時に珍しいとも思えた。
「そこまで究めた物質創造。一般的な異法士ならば、隠さず、むしろ見せびらかすと思うのだがな」
異法士の多くは自己顕示欲が強い。一般人に対して大っぴらに見せられない反動――なのかどうかは知らないが、腕に自信のある異法士の多くは自分の技術を広めようとする。俺はこんなに凄い現象創造が出来る、わたしはここまで精密な道具を物質創造出来る、自分は拳で鉄を砕ける程の身体能力強化が出来る――と。
力を隠すのは弱者であると。真の強者とは己の手札を見せた程度では負けず、隙を突こうとする弱者を一刀で断ち切るような者なのだと。
つまり、春香嬢はそれから外れた異常者という事になる。
「異常者で悪かったわね」
「ちょ、こいつを蹴るな、蹴るな! 巻き込まれるから!」
鋭いミドルキックをサイドステップで華麗に回避する相棒に、久方ぶりの感謝の情を抱く。
はあ、と小さなため息を漏らし、春香嬢は口を開いた。
「……二つ名取った頃は見せびらかして仕方がなかったんだけどね。でも、言われるままにホイホイと見せてたら、価値が下がりそうに思えてね。出し惜しみしてた」
「今は違うってわけか?」
「ええ。まあ、ちょっとね――ああ、思い出しただけでイラつくわっ!」
手近な石ころを軽い蹴り飛ばす。軽い身体能力強化をしたのか、体格に似合わない飛距離を叩き出した。
「……地雷だった系?」
「違……うわけじゃないけど。まあ、貴方にはもう見せちゃったし、隠す必要もないか」
そう独り言ち、思い返すように瞳を閉じた。
「わたしが高校に上がる少し前のことなんだけどね。その頃、とある性格の悪いゴスロリ女と模擬戦をする事になったのよ」
性格の悪いゴスロリ女?
誰の事だろうか、と数秒ほど思案し――ああ、と思い至る。
ゴシックロリータを好んで着て、かつ春香嬢の模擬戦相手が勤まる実力者と言えば、悪名高い『黒百合』以外に存在し得ないだろう。
身体能力強化、物質創造、剣の技量――どれをとっても最上位の化物異法士。その上、年齢は春香嬢と同じくらいだというのだから、その才気には驚かされる。
……だが、自分の気に入らない女を手当たりしだいに殺して協会に隠蔽させているという噂もあり、評判がいいとはお世辞にも言えないのだが。私も雨宮も好き好んで近づこうとは思わない。
「ああ、そいつにボロ負けでもしたのか?」
負けた相手を性格悪いとか貶めすのは子供だぜ、と笑う雨宮だが、予想してた反応は返ってこない。
はあ、と大きなため息が赤い唇から漏れていた。
「ボロ負けしただけなら、そこまで言わないわよ」
異法の力が右足に込められて行くのが視える。足元には先程蹴飛ばした石、どうやら追いついてしまったらしい。
「あいつはっ、自慢の大剣使わなかったのよっ。ちっさい短剣物質創造してっ、『これで十分よ』……ですって? ナメるのも大概にしないよっ、あのまな板ッ!」
つま先が石ころに突き刺さる、そこを中心にヒビが走り――爆散。砕けた石の破片がそこら中にばらまかれる。
怒っている――それはもうこれ以上ないという程に。
だが、理解できないワケではない。誰だって自分が万全を期して勝負しようとしたというのに、好敵手が適当なことをしていたら苛立つだろう。そんな状態で勝っても何の意味もないと。
そして恐らく、何よりも――
「けど、一番ムカついたのは自分。そんな適当やった相手に――全然、勝負にもならなかった。どれだけ伸ばしても、どれだけ複雑な動きで刀を変形させても、あいつは全部受け止めて、避けて――あんなチャチな短剣でわたしに傷をつけた」
それは、彼女にとって初めての挫折であり、同時に初めての屈辱だったのかもしれない。
食いしばった歯は、ふとすれば砕けてしまいそうだ。
「おまけに、最後にあいつは――わたしが、とある名家に産まれた唯一の劣等にも劣るとか言ったのよ。ふざけるなって思ったんだけど、それを否定してやれる程の実力がわたしにはなかった」
「だから、別の手段を模索したのか」
「ええ、そう。最も得意だった中距離から遠距離の攻撃を封じて、ひたすら剣の腕を磨いたのよ。……あの女に負けたのはたぶん、そういうのに頼りすぎてたからだと思ったから」
「確かに。あんなゴムみてぇに伸びまくる刀使ってりゃ、剣術が上達するわきゃねぇわな。どっちかっていうと鞭とか銃とか、そっち系だろあの技」
どこまでも伸びて敵を貫く剣。それを習得した時点で、彼女の成長は止まってしまったのだろう。
無論、その剣の精度を高める鍛錬を怠っていたわけではあるまい。一つの尖った部分をひたすらに練磨し続けていたはずだ。
だから、敗れた。
考えた事などなかったのだろう、己の唯一無二が通じないという事態を。
「けど、わたし一人だったら、あの敗北で折れてたと思う。きっと異法も使えなくなってたわ」
それも致し方ないことだろう。
異法とはイメージの力。空想、想像、創造というプロセスを踏んで世界とは異なる法則を具現化する技術だ。そのプロセスのどこが欠けても異法は扱えない。
空想をいくら現実に欲しいと願っても、細部のイメージがまばらでは具現化することは出来ない。
空想した法則を正しく想像しても、それを現実に具現化させようと強く願わなければ異法は成立しない。
そして――最初のプロセスである空想。それが無ければ、その細部のイメージを想像することも、ましてや創造することなど不可能なのだ。
空想は他のプロセスに比べ、大きく精神に依存する。「こうあればいい」と願う気持ちこそが空想なのだ。
だが、大きな挫折などで願う気持ちが失われた時、異法もまた失われてしまう。それを修復させるとすれば、支える事の出来る誰かが必要だ。つまり――
「ふむ、なるほど、男か」
傷心の乙女を支える少年。それによって気づく本当の気持ち。サブカルチャーの王道。ああ、素晴らしい……ッ!
「なんでそうなるのよっ! 父さんよ、父さん」
怒髪が天を貫く勢いで怒鳴られた。この年頃で挫折を救うのは同じ年頃の異性だと思っていたのだが――どうやら、少々サブカルチャーに毒され過ぎているようである。
それ自体は私の責任なのだが、私を腰に差す愚か者が現在進行形で笑っているのは気に食わない。それらを見せたのは他ならぬお前だろうが。
私と雨宮のにらみ合いをそのままに、春香嬢は人差し指を唇に当て、思い返すように呟いた。
「父さんはわたしに期待してたみたいだからね、惨敗したわたしを怒るなり失望するなりすると思ってた」
けど、と。言葉を区切り、微笑む。
「そんな素振りも見せずに、むしろ楽しむみたいに微笑んで慰めてくれたの。敗北が教えてくれるモノもある、それを糧にすればいいさ、ってね」
本当に、心から信頼しているのだろうな。嬉しそうに、誇らしそうに父を語る春香嬢の笑顔を見て思う。
異法士としての実力は冴えなかったものの、良き父ではあったようだ。
◇
時雨崎邸に戻ると、雨宮は呼吸すら止めたのではないかと思う程に深く、そして静かに寝入った。
それも当然か。あれだけ派手な戦闘を行い、今まで一睡もしてなかったのだ。致し方あるまい。
「……しかし」
眠る雨宮をそのままに、思考の海を広げていく。無機物とはいえ意識を持った存在は睡眠を必要とする――が、有機物ほどそれが重要というわけではない。
だから、今は考えるのだ。ここ数日の間に戦った存在について。鬼について。
――その鬼を生み出せる。いいや、生み出せる環境を作り出せる異能者の事を。
その男に対してどのような感情を抱いているか、自分自身でも定かではない。
怒りなどといったネガティブなモノ。
親愛などといったポジティブなモノ。
それらが混ざり合い、けれど決して溶け合わずコップの中をぐるぐると回っているようだ。
「全く……どれだけ取り繕っても」
私は、子供だ。
意思を持ってたったの数年の、童子にも劣る存在なのだ。
「……ん?」
思考が底なし沼が如く深い場所へと引きずり込まれそうになったが、不意に響いたウグイスの囁きが途中で引きずり上げてくれた。
春香嬢、ではない。
きゅいきゅいという鳴き声の傍らに寄り添う足音は重く、とても少女が鳴らせるモノではない。
「時雨崎か」
「ああ。雨宮は……寝入っているようだな」
覗き込む彼の肩にはホコリが僅かに被さっている。少し前まで土蔵の整理でもしていたのだろうか。
私の視線に気づいたという訳ではないだろうが、時雨崎は「おっと」とおどけたように言い部屋に入る前にホコリを落とす。
「昨晩の鬼は非常に強かったと聞いてな、娘を守ってくれた礼にと思ったが……間が悪かったな」
岩に染み入る清水のように静かに、けれど深い場所へ行っている雨宮を見て、気まずそうに顔を逸らす。
「礼など必要ない。実際、助けられたのは私たちの方だからな。彼女の実力には感嘆するばかりだ」
謙遜やお世辞などではなく、心から言う。
事実、私たちも協会の異能者の中では上位と言ってもいいレベルなのだが、昨晩の戦いぶりを見る限りは彼女に勝てる確率は皆無だろう。
「……そうか」
「時雨崎?」
時雨崎は短く答え、笑う。
娘が褒められた事による親の喜び、そう見るのが自然だ。
だが、なぜだろう。その笑みに僅かな違和感があるのだ。
表面の喜びに、僅かなほころびがあるような――そんな感覚。
「これ以上話し込んでは彼を起こしてまうな。ここらで失礼させてもらうよ。起きたら彼に私が礼を言っていたと伝えておいてくれ」
しかし、それもすぐに霧散する。
既に先程の違和感は失せ、子供の無邪気さを残した笑みが浮かび上がっていた。
「別に構わないが……同じ屋敷の中だ、起きてから自分で伝えてもいいのではないか?」
「少し用事があってな、少しばかり屋敷を離れるんだよ。その前にと思っていたが――間が悪かったな」
「いや、そういう事なら構わない」
助かる。それだけ言って時雨崎は部屋から出て行った。