変転/3
外の茜色は段々と薄くなり、澱んで行く。
昼と夜の境界が崩れ、太陽が月に空の覇者を明け渡す時間が近いと示していた。
そんな空の下、影法師が二つ。長く伸びたそれは主の動きをトレースして動く。
なら、雨宮の少し前を歩くこの影法師の脚が跳ねているのは、その主たる春香嬢の心をトレースしているからなのだろう。
顔だけは澄ました顔で歩いているが、全く隠せていない。嬉しいです、帰ったら自分で部屋で着倒そう――という考えがよく分かる。
そんな彼女をからかおうと口を開きかけた雨宮だったか――頭を振って閉じる。
さすがに、あれだけ楽しそうな少女に水を差すような事は、こいつでも出来なかったらしい。
不意に、春香嬢が振り向き、むっとした表情で言った。
「なにニヤニヤしてるのよ」
「さァ? なあ、相棒」
その顔ムカつくわね、と獣のように瞳を尖らせるが、どう見ても照れ隠しなので見ていて微笑ましい。
全く、
「そんな事ばかりしていると、せっかく上昇した好感度が下がるぞ」
雨宮が大きく吹き出した。
「お前さ、自分の事を無機物とか言うワリに俗っぽいよな。現代に染まり過ぎてて妖刀感ゼロだ」
……それをお前が言うか。
「使われ方が使われ方だ。そうなるのも必然だろう」
「オイオイ、なに人のせいにし腐ってンだ」
「上司に送るメールの文面を考えるのを、全て私に丸投げしてる男は一体どこの誰だろうな?」
「う」
「小難しい話が面倒だと、幹部連中の命令はほぼ全て私に覚えさせているのは、一体どこの雨宮の宗平さんだろうな?」
「ぐむ」
まあ、ここまでは――いい。
「しかも、だ。美味いラーメン屋までの道のりや漫画の発売日などまで記憶させられている私はなんだ!? 私はお前の外付けハードディスクか!」
「いやいやいや、漫画はお前だって一緒に読んでるじゃねェか! 俺は悪くねェ!」
「いやいや、宗平……こんな前時代の異物の口から『外付けハードディスク』なんて単語が出る時点で、かなり貴方の影響受けてることの証明じゃない?」
それ見た事か、と勝ち誇ったセリフを吐いたら、思いっきりカバンの奥に押し込まれた。めり、ぐしゃ、と前に熟女に貰った菓子が潰れる音がした。
「しかし、ようやく普通に呼ばれたな。学校の時も呼ばれたけど……ま、あんな猫かぶりはノーカンだろ」
「え?」
「名前だ、名前。ずっとアンタとかそんな感じだったろ。ようやく宗平、って呼んでくれたって話」
贈り物で好感度アップってヤツだなァ、とふざけた調子で笑う。
「好感度とか意味が分からないけど……でも、一応、言っておくわ」
いつもの凛とした瞳――ではない。
悩み多き多感な少女の瞳が、雨宮の瞳を覗きこんでいた。
その唇は、開いては閉じ、開いてはまた閉じる。言おうか、やめようか、悩んでいるように見える。
「なんだ、愛の告白か? なら待て、とりあえずこの相棒をどっかに放り投げて二人きりになった後にでも」
「……そんなんじゃないわよ、全く」
「なら、なんだ?」
「――その、今日はありがとうね」
ふわり、と僅風が吹く。ポニーテイルの先が揺れて、スカートの裾が多少靡くくらいの風。
その程度の風なのに、その風が起こす音程度でかき消されてしまうような小さな声だった。
――――それが、まずかった。
ざざっ、とノイズが走った――そんな錯覚。
絵と絵を重ね合わせるように、春香嬢の上に、とある少女の姿が重なっていく。
それはフラッシュバックと呼ぶべきか。閃光と共に脳裏に浮かんだ情景は現実を侵し、色あせたフィルムを再生する。
――――ね、宗平さ。
現実に有り得ぬ事象であり、想像よりも荒い妄想に過ぎない。
だが――私を含め、雨宮もまた同じ現象に囚われているようだった。
「最初はね、気に入らない以上に不審だったのよ。私の聞く雨宮宗平って男は、正義の味方みたいに誰かを守ったかと思えば、人質ごと誰かを叩き斬ったり――そんなちぐはぐな異常者だったから」
それは、他人では共有できない、私と雨宮だけが持つ錆びついた記憶であり、契約の起点である。
生み出された幻影は制服姿の少女だ。
けれど身にまとうのはセーラー服であり、髪の毛もショートのボブ。春香嬢とは、似ても似つかない。
重なるはずがないのに、無理矢理型に流し込むよう思い出が現在と重なろうとする。
「けど、噂は噂みたいね。確かにヘラヘラとした笑い顔とか気に入らない所はあるけど、特別嫌う相手じゃ――ない、かもね」
照れくさそうに、若干顔を伏せながら言うその言葉。恥らうような姿は、可愛らしくて、愛らしくて――
だが、その仕草が――高校生の少女である春香嬢の言葉が、その笑みが。
――――高校を卒業したら、あたしと……
「――ハハッ! そいつは嬉しい、ね」
刃で妄想を断つが如く、雨宮が大げさなくらい大きな声で笑った。
軽薄に、笑う、笑う、笑う。
「親交も深めたこったし、さっさと帰ろうぜ。出歩く前に一眠りしておきてェし」
雨宮は普段のように笑った。
その笑みを春香嬢も信じたようだ。
なぜなら、それは普段と変わらぬ笑みだから。
軽薄だから。
軽く、薄い、意味の無いモノだから。
しかし、だからこそ。そんな雨宮だからこそ、私を――魂喰らいの妖刀を扱えるのだ。
◇
寝静まり、空が闇色に染まった頃。雨宮が急に苦しみだした。
瞳は難く閉じられ、けれど口は空気を求め喘ぐように大きく開いている。
――始まった、か。
私は視線を逸らす事なく、それを見続ける。それが償いになるとは思わない。
だが――この苦しみの一端は、私が原因だ。
ならば、それを見届けるのは苦しめたモノの義務だろう。
「……む」
不意に廊下からきゅいきゅいと鶯が鳴く声が響く。
タイミングが悪いな――舌打ちが出来れば盛大に音を鳴らしていた事だろう。
「ねえ、その……今日くらいはちゅんと連携してあげても、――!?」
恐る恐ると言った風に襖を開けた春香嬢は、雨宮の状態に声無き声を上げた。
のたうち、ころがる、あえぎ、さけぶ。
悪霊に取り付かれた少女のように呻く雨宮の姿は、春香嬢には衝撃が強すぎた。
当然だ。
彼女は笑っている雨宮くらいしか見ていないのだから。
水素の如く軽い、真剣味の欠ける男の顔が、今は見ている方が悲痛な程に歪んでいる。
「ぐ――う、ぅうあ、ああ!」
雨宮は叫ぶ。
苦しい苦しいと。
のたうち回り、掛け布団は乱雑に弾き飛ばされている。閉じた瞳からは涙が、鼻からは鼻水が、開ききった口からはヨダレが垂れ流され、枕をぐしょぐしょにしている。
「……春香嬢か。悪いが、今日の夜は着いて行けそうにない。この埋め合わせは次回以降必ず行おう」
ハッ、と。
ようやく私に気づいたといった風に驚いた春香嬢は、瞳を血走らせながら私を掴み取った。
「――ッ! そんな事、どうでもいいわよ! それより、早く医者を――」
「無駄だ」
簡潔に答える。
春香嬢の瞳が釣りあがり、私を射殺すように睨んだ。
――ああ、やっぱり君はいい子だよ。強情な、お人よしだよ。
苦しんでいる人を黙って見ていられないのだろう。ああ、本当に……タイミングが悪い。
数日前なら――ほんの数日前ならば、雨宮が来なくても一人で鬼退治に出かけていたはずだろうに。
「貴方、こいつの相棒なんでしょ!? なのに、なんでそんな落ち着いてられるのよ!」
だが、今はこうして怒れる。
数回共に戦い、ほんの数日同じ日常を過ごしてしまったが故に。
「相棒だからだ。そう頻繁に起こるモノでもないが、何年も一緒に過ごせば見慣れる」
そう……見慣れた事だ。
何度も何度も繰り返し、その度に私は雨宮宗平という男を決して見限らぬと誓うのだ。
「春香嬢。使用者の魂を喰らうの妖刀を、魂を喰らわれる事なく扱い続ける男がまともだと思うか?」
「なにを……」
「人間、誰しも願望がある。私のような妖刀や魔剣と呼ばれる存在は、それに付けこんで契約し、願望達成の為に力を貸し――叶った時に代価を貰う。私の場合、それは魂だ。命、と言い換えてもいい」
だが、と。
一拍置き、私と雨宮を交互に見やる春香嬢に語りかける。
「願望達成のために力を尽くすが、それでもその願望を達成できない事がある。その場合、魂は食われない。契約を果たせなかったのだからな」
そう、私と雨宮のように――だ。
「しかし、契約はすぐに自動で更新される。人間の願望とは一つではないからだ。誰しもが願望の他に別の願望を持ち、心のどこかでそれも達成したいと思うものだ」
雨宮が喘ぐ。
失った何かを求めるように、
失った誰かを求めるように、
「雨宮には、それがない――いいや、違うな。正確には、全てが第一の願望と繋がっていた」
絶対に産まれた土地から離れないという願望があったとしよう。
しかし、その願望も土地自体が消滅するような大災害が起きれば変更せざるおえない。
けれど、もし他の願いがその土地を起点にしていたら?
その土地で誰かと一緒に居たい、
その土地で何かをやってみたい、
その土地でとある職業に就いてみたい、
――だが、それらは全て全て全て、不可能なのだ。
願いの根本が削られてしまっては、人は何も願えない。
「だから、雨宮は私を使い続ける事ができる。彼が求めた願望は全て破綻したのだから、私は魂を喰らえない」
雨宮は抜け殻であり、人形だった。
どんな事にも本気になれず、誰かの頼みを聞いてそれの為に動く
しかし、それは雨宮の願望ではない。本気を出せず、誰かのいう事を唯々諾々と聞き続ける限り、雨宮は私を自在に扱えるのだ。
「新たな願いも、上手く願えない。雨宮は生きていない、死んでいないだけでな」
「でも――あんなに笑ってたじゃない」
言い返すように、春香嬢が呟いた。
「楽しそうに笑って、焦って、楽しんで――そんな、人間らしい人間じゃない」
「――辛く当たったのに、変わらず接してくるのを不思議と思わなかったか?」
はっ、と。
春香嬢は息を呑んだ。
ここまで言うべきかは悩んだが、今の姿を見られているんだ、全てを話してその上で普通に接して貰った方が今後、雨宮が苦しむ事はないだろう。
「普通、あれだけ拒絶されたら嫌な気分になる。避ける。距離を置く。けど、雨宮にはそれがないんだよ。あの笑みだって、広義の意味での軽薄ではない――本当に、薄い笑いなんだ」
軽薄な笑み。
感情も意味合いも極端に軽くて薄い笑み。
それこそが、雨宮の本質。
誤魔化すための、その場を凌ぐためだけの行動だ。
「だが、だからこそまともを装える。春香嬢、今夜は無理だが――明日からは雨宮に不遜な命令を下してやってくれ」
日々、自分の感情を誤魔化し生きているから、他人から与えられる感情も誤魔化せる。
何を言われても、どれだけ罵られても。
ポーズだけ傷ついて、悪態をついて、けれどその言葉の主に従うのだ。
春香嬢は答えなかった。
ただ、のたうつ雨宮を見つめていた。
「――なによ、それ。そんなの、生きていないと一緒じゃない」
「そうだ」
搾り出すような声に、私は短く答えた。
「雨宮宗平という人間は数年前に死んだよ。死後の世界がここだ。かつての楽しい日々を思い出してはその差異に苦しめられ、忘れたフリをして笑うのだ」
「なんでよ」
春香嬢は私を掴み、怒鳴りつけた。
「貴方、相棒なんでしょ!? なんで助けてあげようとしないのよ、なんで苦しみを和らげてあげようとしないのよ!」
「私は無機物で、ただの無銘の刀だ。モノが心を動かす事なんて、出来やしない」
いずれ、私が壊れるか、雨宮が壊れるか。
それまで、永遠とこの関係が続くだろう。
「……もう、いいっ!」
私を力の限り床に叩きつけると、春香嬢は鴬張りの仕掛けを破壊するのではないかと心配になるような足音を響かせながら去っていった。
あれは、納得したわけではないな。
語ったのは失敗だったかもしれない。こんな事を見誤るとは――どうやら、こうなった雨宮の姿を見ている時の私は、思いの他冷静ではないらしい。
「すまないな、雨宮。すまないな、唯一にして無二の相棒」
今も、かつても、そしてきっとこれからも。
私はお前にとって良い相棒にはなれないだろう。