第二章 兄
2 兄
オルセン王国の王位継承者は十二歳になると騎士団に入り、小隊を率いるのがしきたりだ。第二王位継承者であるアシルが騎士団に入ったのは二年前のことで、現在、彼は中隊を任せられていた。
隊の主な職務は王都を含む城下の治安維持だったが、騎士道を尊ぶオルセン王国では、元来治安が良く、中隊長であるアシルが剣を抜く機会はほとんど無いに等しかった。
(まあ別に抜きたいってわけじゃないけど)
アシルは腰の剣を眺めた。
叙任式で下賜された剣は、柄にオルセン国の紋章である大鷲が刻印されていた。その剣身に刃こぼれはない。剣を抜く機会がごくわずかであることに加えて、アシルには人を斬るだけの腕もなかった。十四歳の彼が中隊長を務めているのは、第二王位継承者という肩書きのおかげにすぎない。
(それに比べて兄様は――)
アシルは天井を見上げた。
夕食後のギルバートの部屋。アシルは一人そこにいた。部屋の主であるギルバートはまだ現れない。夕食もそこそこに席を立っていたギルバートを思い出し、アシルは、相談を持ちかけた自分を反省した。
(やっぱり明日にすれば良かったな)
ギルバート・オルセンはオルセン王国の第一王位継承者である。オルセン王国の騎士団長を務める彼の剣の腕は、国内一に留まらない。
(大陸一の騎士…)
ギルバートは、オルセン王国の騎士団長であるとともに、第二大陸の最高位の騎士で構成された騎士団――『剣の兄弟』の騎士団長も務めていた。
「まーた、くだらないこと考えてるな」
突然の声に、アシルはおどろき、部屋の入口に顔を向けた。
「兄様、いつからそちらに?」
「今、戻ったところ」
ゆったりとした平服姿のギルバートが部屋に入る。
彼は「あー、疲れた」と言って、自分の寝台に寝っ転がった。両腕を頭の下に敷いて、
「鍛錬は続けてるんだろう?まだ十四なんだからそんなに焦らなくても」
「でも、兄様は十四才で『剣の兄弟』に選別されました」
「そりゃ、ずるしたからだ」
「魔法が使えることはずるではありません」
アシルはギルバートの言葉を否定した。
類い希なる剣の腕。それに加えてギルバートは魔法が使えた。彼が、五十年はかかると言われる魔法体系を修めたのは、彼が十二才のときだった。
天才なのだ、とアシルは内心で呟く。
無意識に発された呟きには苦みがともなった。
「…僕は兄様のようになりたいのです」
「そう? 俺はお前がうらやましいけどなー」
(うらやましい?)
第二王位継承者という肩書き以外に何も持ち合わせていない自分のことが?
アシルはギルバートの意図を探ろうと口を開く。しかし、ギルバートはごろんと寝返りすると、
「体系を…、魔法を勉強したいのか?」
「え、あ、はい。あ、もちろん剣の鍛錬は続けます。簡単なことじゃないことも分かっています。でも、僕は少しでも兄様に近づきたくて、それで」
「いや、お前のことだから両方きちんとこなすとは思うが、アルバ様が何と言うかな、と思って」
アルバというのは、アシルとマリーベルそれにラティオの母親の名前だった。
ギルバートの母ではない。アシルとギルバートは母親が違う。
「母は良い顔はしないでしょう」
「叱られるのは嫌だなぁ。でもまあ…」
ギルバートは寝台から起きあがると、本棚から一冊、書物を取り出した。埃をはらって、アシルに渡す。
「とりあえず、この辺りから読んでみるか」
「教えて頂けるのですか?」
「時間があるときだけな」
「十分です。ありがとうございます」
アシルは表情を明るくして書物を受け取った。
深緑色の表紙には、『マレフィコス体系』とある。
「分厚い本ですね」
「同じ厚さの本がもう四十二冊ある。ほれ、ここに」
「そんなに?」
本棚を見て、アシルは驚く。
「やめるか?」
「いいえ。がんばります」
「ま、ほどほどにな」
ギルバートはそう言って、再び寝台に仰向けになった。
部屋を去ろうとしないアシルに尋ねる。
「まだ何かあるのか?」
「それがもう一つありまして…。その、魔女を見てみたいのです、僕も」
「お前も? マリーだけじゃなくて?」
「はい。恥ずかしながら、僕も魔女を見たことがないのです」
「俺だってそんなにたくさん見てきたわけじゃないぞ。今回だって、通報があったから捕まえに行っただけで」
「でも、僕は兄様以外の魔法実践者にもあったことがないのです」
「うちは魔女も魔法実践者も少ない国だからなぁ」
頬をかきながらギルバートが言う。
魔法実践者とは、神の力を借りて、人間には不可能な法則を実現する者の呼び名だった。
「魔法を使った戦いがどのようなものなのか、今の僕には分からないのです」
「でも、魔女を見たって」
「心構えは違うはずです。お願いです、兄様。いつか、僕も戦場に立つでしょう。その時のために、どうか」
「しかしなあ。何でよりによって今回なの? もっと普通の…、というか力の弱い魔女のときじゃ駄目なのか?」
「今しかないのです。今なら、母の意識はラティオに向かっていますから…」
「なるほど。それで、普段言わない我がままを言っているわけか」
「お疲れのところ申し訳ないとは思っています。でも、僕は……」
アシルは書物を抱きしめ、うつむいた。
後頭部に重みが加わる。
見上げると頭の上にギルバートの手のひらが乗っていた。
「兄様?」
「まあ、何事も経験か」
「ありがとうございます、兄様!」
アシルは勢いよく頭を下げると、ギルバートの部屋を後にした。