廃鉱山に眠っていた宝は、銀でも宝石でもありませんでした。
「今年は、南の村で畑を四分の一ほど休ませるそうです」
家令の報告に、私は思わず顔を上げた。
「去年は五分の一だったわよね?」
「はい。春の雨が、さらに減りましたので」
机の上には、領地の地図が広がっていた。私は伯爵家の娘で、父から領地の管理を任されている。
ここ数年、領地では春から初夏にかけて雨の少ない年が続いていた。昔は十分だった小川の水が、今では畑を潤すのに足りない。
領民たちは、何もしていないわけではない。水を節約し、作付け時期をずらし、井戸を掘り、貯水池も整備した。けれど、雨そのものが減っているのだ。できることには限界があった。
「川から新しい水路を引く計画は?」
「以前の調査結果と変わりません。途中に硬い岩盤があり、工事費が高すぎます」
「そう……」
私はため息をついた。水さえあれば、畑を休ませずに済むのに。
地図を眺めていると、北の山に描かれた小さな印が目に入った。廃鉱山。二十年前に閉鎖された、古い銀鉱山だ。
「……あの鉱山、確か水が出すぎて困っていたのよね?」
家令が首をかしげた。
「閉山の理由は銀の産出量が減ったことですが、湧水も大きな問題だったと聞いております」
「今も水は出ているの?」
「排水路から流れております。ただ、鉱山の水は農業には使えませんぞ」
「ええ。鉱石に触れた水には、金属成分が含まれていることがあるものね」
それは知っている。だから、これまで誰も利用しなかったのだ。
けれど。
「……水は、どこから湧いているのかしら?」
「は?」
「全部が鉱石に触れた水とは限らないでしょう?」
家令は少し考えた。
「確かに、そうかもしれませんが……」
「調べてみる価値はあるわね」
私は地図の廃鉱山に、小さな丸をつけた。
◇
「結論から申し上げます。現在の排水は農業用水に適しません」
技師は、調査結果を机に置いた。廃鉱山を訪れて三日目。私は予想していた答えに、うなずいた。
「やっぱり、金属成分が多いのね」
「はい。長期間使えば、土壌に悪影響が出るおそれがあります」
「浄化する方法は?」
「ありますが、費用がかかりすぎます。農業用水としては採算が合いません」
私は排水路を見つめた。目の前には、かなりの量の水が流れている。こんなにあるのに。使えない。
「……ほかに方法はないかしら」
「古い図面を調べてみましょう。鉱山の排水設備は、何度も改修されていますから」
その言葉に、私は顔を上げた。
「お願いできる?」
「もちろんです。ただし、期待はしないでください」
「わかっているわ」
私はうなずいた。使えないなら、それで仕方がない。でも、まだ調べられることがあるのなら。諦めるのは、その後でもいい。
◇
一週間後。技師が古い図面を持ってきた。
「お嬢様。ひとつ、可能性が見つかりました」
「本当!?」
「ただし、まだ確定ではありません」
彼は図面の上に二本の線を引いた。
「鉱山には、深い坑道から湧く水と、山の上部から流れ込む水があります。現在は途中で混ざっていますが、上部の水は鉱石に触れていない可能性があります」
「では、その水だけを取り出せば……!」
「農業用水として使えるかもしれません」
私は思わず立ち上がった。
「調べましょう!」
「問題があります」
技師が指したのは、古い排水路だった。
「この区間が崩落しています。上部の水路へ近づくには、補強工事が必要です」
「費用は?」
見積書を受け取った私は、思わず息をのんだ。
「……高いわね」
「安全を確保するためです。無理に掘り進めれば、人命に関わります」
私は黙った。領地の予算には限りがある。水不足への対策は、ほかにも必要だった。貯水池の補修。井戸の整備。既存の水路の維持管理。
使えるかどうかもわからない水のために、多額の予算を投じてよいのだろうか。
「……少し、考えさせて」
「承知しました」
◇
翌日、私は領地の役人たちを集めた。廃鉱山の調査を続けるべきか。意見は分かれた。
「可能性があるなら、調べる価値はあります」
「しかし、失敗すれば予算を失いますぞ」
「その金があれば、南の村の井戸を三本修理できます」
「井戸を修理しても、地下水そのものが減っているのでは意味が薄いでしょう」
誰も、間違ったことは言っていなかった。私は全員の意見を聞いた。そして、技師に尋ねた。
「補強工事を途中で止めることはできる?」
「できます。ただし、途中までの費用は戻りません」
「どこまで進めば、水の状態を調べられる?」
「最初の崩落区間を越えれば、上部の水路に近づけます」
私は見積書を見つめた。全額を投じるのは危険だ。けれど、最初の区間だけなら。
「……第一段階の調査工事だけ、認めます」
役人たちが顔を上げた。
「予算はここまで。水が使えないとわかったら、その時点で中止します。追加工事が必要になった場合も、いったん止めて判断します」
「それなら、ほかの対策への影響も抑えられますな」
「はい。井戸の修理費は削りません」
私は技師を見た。
「お願いできる?」
「承知しました」
彼は深くうなずいた。
「安全を最優先に進めます」
◇
工事が始まった。古い排水路の入口を補強し、崩落した石を取り除く。作業は慎重に進められた。
しかし、五日目。
「……想定より崩落がひどいですね」
技師が難しい顔をした。予定していた区間の奥で、さらに大きな崩落が見つかったのだ。
「補強を追加すると、予算を超えます」
私は図面を見つめた。
「別の入口は?」
「現行の図面にはありません」
「……そう」
私は唇をかんだ。ここまで来たのに。あと少しで、上部の水路に届くかもしれないのに。
「お嬢様」
技師が静かに言った。
「中止すべきです」
「……もう少しだけ、何とかならない?」
「なりません」
即答だった。
「安全を削って進むことはできません」
私は黙った。わかっている。彼が正しい。ここで無理をすれば、作業員を危険にさらす。それだけは、絶対にしてはいけない。それに、追加予算を使えば、ほかの村の井戸修理にも影響が出る。
私は深く息を吸った。
「……わかったわ。工事を中止して」
技師は深く頭を下げた。
「承知しました」
作業員たちが撤収の準備を始める。私は崩れた排水路を見つめていた。
水は、すぐそこにあるかもしれない。あと少し進めば、領地を救う水が見つかるかもしれない。でも、これ以上は進めない。
作業員の命を危険にさらすわけにはいかない。ほかの村の井戸修理に必要な予算を奪うわけにもいかない。
中止するしかない。それが正しい判断だと、わかっている。
わかっているのに。
「……悔しい」
私は拳を握りしめた。目の前の暗い坑道を、もう一度見つめる。
「悔しいっ……!」
誰に向けたわけでもない声が、冷たい岩壁に吸い込まれていった。
◇
工事を中止した翌日。私は、廃鉱山の古い管理小屋を訪ねた。調査に使った図面や記録を、返却するためだった。
埃をかぶった帳簿を整理していると、一冊の古い修理記録が目に入った。
『北側の旧排水口、土砂流入により閉鎖』
「……北側?」
私は思わず手を止めた。現在の図面には、北側の排水口など描かれていない。
私は棚から古い図面を引っ張り出した。一枚。二枚。三枚。年代を遡るうちに、ようやく見つけた。
山の北側へ延びる、細い水路。
「……あった」
私は息をのんだ。古い排水口だ。しかも、その水路は、今回調べようとしていた上部の水路につながっていた。
私は急いで技師を呼んだ。
「これを見て!」
彼は図面を受け取り、目を見開いた。
「……旧排水口?」
「土砂で埋まっただけなら、外側から調べられるかもしれないわ」
技師は図面を見つめた。
「この記録は、現行図面よりも古いものですね」
「ええ。後の改修で使われなくなったみたい」
「なるほど……閉鎖済みの設備として、図面から省かれたのか」
彼は顔を上げた。
「現地を確認しましょう」
◇
私たちは山の北側へ向かった。古い記録を頼りに斜面を歩き、草木に覆われた石組みを見つけた。
「……これだ」
技師がつぶやいた。石組みの隙間から、わずかに水が染み出していた。
「内部が完全に塞がっているわけではなさそうです」
「調べられる?」
「はい。こちらは外側から作業できます。坑道の内部へ入る必要はありません」
「費用は?」
「最初の調査より、ずっと少なく済みます」
私は胸の前で手を組んだ。
「……お願い」
技師はうなずいた。
「今度こそ、確かめましょう」
旧排水口の調査は、予想より早く進んだ。土砂を取り除くと、石組みの奥から水が流れ出した。技師は水を採取し、検査に回した。
数日後。
「お嬢様」
彼が報告書を持ってきた。
「使えます」
「……本当?」
「はい。農業用水として問題のない水質です」
私は報告書を受け取った。何度も数字を確かめた。
「……やった」
小さな声が漏れた。
「やった……!」
私は思わず技師の手を握った。
「見つかったのね!」
「はい。見つかりました」
彼も笑っていた。
「水量も確認しました。南の村の不足分を補うには、十分な量があります」
私は息をのんだ。
「……本当に?」
「はい。ただし、乾季にも同じ量が出るか、しばらく測定を続ける必要があります」
「もちろんよ!」
私は報告書を抱きしめた。あのとき。工事を中止したときは、もう駄目だと思った。でも、まだ方法は残っていた。
◇
その後、乾季を通して水量を測定した。結果は良好だった。水質も安定しており、農業用水として利用できる見通しが立った。
私は領地の役人たちを集めた。
「廃鉱山の上部から、農業に使える水を取り出せることが確認できました」
役人たちがざわめいた。
「本当ですか!?」
「はい。水量も、南の村の不足分を補うには十分です」
「それなら、水路を造れるのですな!」
「ええ」
私は地図を広げた。
「工事費の見積もりも出ています。以前の川から水を引く計画より、ずっと安く済みます」
役人たちは顔を見合わせた。やがて、家令が笑った。
「……まさか、あの廃鉱山が役に立つとは」
「私も、最初は半信半疑だったわ」
私は笑った。
「でも、調べてよかった」
◇
水路の建設が始まった。廃鉱山の旧排水口から、麓の農地へ。地形を調べ、必要な場所には石組みを造り、水門を設けた。工事には、村の人々も協力してくれた。
もちろん、簡単ではなかった。途中で岩盤にぶつかり、予定していた経路を変更したこともある。雨で斜面が崩れ、作業が止まったこともあった。
それでも、少しずつ水路は延びていった。
そして、翌年の春。ついに、水路が完成した。
◇
「水門を開けます!」
技師の声が響いた。
水路の両側には、村人たちが集まっている。私は大きくうなずいた。
「開けてください!」
作業員たちが水門を動かす。重い扉が持ち上がり、澄んだ水が勢いよく流れ出した。
村人たちが息をのむ。
やがて。
「……水だ」
誰かが、つぶやいた。
「水だ……!」
その声が、震えた。
「水が来たぞ!」
次の瞬間。歓声が、爆発した。
「水だ!」
「本当に来た!」
「畑に水が来たぞ!」
村人たちが笑い、泣き、抱き合っていた。
年配の女性が、水路の前にしゃがみ込んだ。両手で水をすくい、顔を洗う。
「……冷たいねえ」
女性は笑っていた。涙を流しながら。
「本当に……水が来たんだねえ」
私は、その光景を見つめていた。胸がいっぱいで、何も言えなかった。
技師が隣に立った。
「お嬢様」
「……はい」
「できましたね」
私はうなずいた。
「……うん」
声が震えた。
「できた……!」
気がつけば、私も泣いていた。
春の日差しの中、澄んだ水が、乾いた大地へと流れていく。
その光景が、涙で滲んでいた。




