婚約破棄された銀食器の令嬢ですが、実は王家を守っていたのは私でしたので、もう知りませんわ
「今日この場をもって、リゼット・シルヴァーノとの婚約を破棄する」
クラウス殿下の声が、黄金に輝くシャンデリアの下で高らかに響き渡った。
王宮の大広間。今宵は王妃様の誕生祝賀会――そのはずだった。なのに今、私は数百の視線を浴びながら、断罪台に立たされている。
(ああ、やっとこの日が来ましたのね)
不思議と心は凪いでいた。むしろ、三年間ずっと胸の奥で燻っていた重荷が、ようやく降ろせるような心地さえする。
「殿下、一体何を――」
「白々しいぞ、リゼット」
殿下の碧眼が、正義の炎に燃えている。ああ、また始まった。この方は自分が「弱きを守る王子」を演じているとき、最も輝く瞳をなさる。
傍らでは、蜂蜜色の巻き毛を震わせた少女が、大粒の涙を零していた。ミリア・フォーチュレット。男爵令嬢でありながら、この半年で殿下の寵愛を一身に受けるようになったお方。
「ミリアは俺に全てを話してくれた。お前が彼女の食事に毒を盛ろうとしたことを!」
(……はい?)
一瞬、耳を疑った。
「わ、私……リゼット様が怖くて……今まで言えなかったんです……」
ミリア嬢が震える声で訴える。その琥珀色の瞳は潤み、頬は紅潮し、まるで怯える小鳥のよう。完璧だった。あまりにも完璧すぎて、感心すら覚える演技だった。
「先日のお茶会で、私のカップにだけ……変な粉が入っていて……」
「なんという卑劣な……!」
殿下が怒りに拳を震わせる。周囲の貴族たちがざわめき、好奇と軽蔑の視線が私に突き刺さる。
(殿下。お茶会でカップに粉を入れられる位置に座っていたのは、ミリア嬢ご自身と、あなただけでしたわね)
あの日の座席配置を、私は正確に記憶している。シルヴァーノ家の娘として、食卓の全てを観察する習性は幼い頃から骨身に染みついていた。
けれど、言わない。言っても無駄だ。
殿下は一度こうと決めたら、誰の言葉も耳に入らない。三年間、傍で見てきたのだ。この方の「正義」がいかに脆く、いかに都合よく歪められるものであるかを。
「リゼット・シルヴァーノ! 弁明があるなら申してみよ!」
広間が静まり返る。
私は深く息を吸い込んだ。三年分の記憶が、走馬灯のように蘇る。
初めてミリア嬢を庇って私を叱責なさったあの日。彼女が「うっかり」私のドレスに紅茶をこぼしたのを、私の不注意だと断じられたあの日。私への贈り物を「つまらない」と投げ捨て、同じものをミリア嬢に渡されたあの日――
「49回」
私の声は、自分でも驚くほど静かに響いた。
「……何?」
「49回ですわ、殿下」
顔を上げる。真っ直ぐに、あの碧い瞳を見据える。
「私があなたの無礼をお許しした回数です」
広間がどよめいた。殿下の顔が驚愕に染まる。
「な、何を言って――」
「一回目は婚約発表の翌日。私の名を呼び間違えになったこと。二回目は初めてのお茶会で、私の淹れた紅茶を一口も召し上がらなかったこと。三回目は――」
「やめろ!」
殿下が怒鳴る。けれど私は止まらない。止まれない。
「十七回目は、私の誕生日をお忘れになったこと。二十三回目は、ミリア嬢を庇って私を公衆の面前で罵倒されたこと。三十一回目は――」
「黙れと言っている!」
殿下の顔が、怒りで朱に染まっていく。でも私の心は、今までになく澄み渡っていた。
「四十九回。私は数えておりました。いつか、今日という日が来ることを知っていたから」
一歩、後ろに下がる。そして、この三年間で最も深い、最も美しい礼をした。
「長らくお世話になりました、クラウス殿下。どうぞ、ミリア様とお幸せに」
その言葉に、嘘は一つもなかった。
本当に、心からそう思っている。この方には、ミリア嬢こそがお似合いだ。
くるりと背を向け、歩き出す。
「待て! 誰が去っていいと言った!」
「婚約は破棄されましたわ、殿下。私はもう、あなたの言葉に従う義務はございません」
振り返らない。一度も、振り返らなかった。
(ああ、なんて清々しいのでしょう)
大広間の扉が、重い音を立てて閉まる。その瞬間、私の唇に自然と笑みが浮かんだ。
――知らなかったでしょう、殿下。
私が本当は、何を守ってきたのかを。
◇ ◇ ◇
馬車が屋敷の門をくぐったのは、夜明け前のことだった。
「お嬢様、旦那様がお待ちです」
出迎えたセシリアの声が、いつになく硬い。彼女が感情を表に出すのは珍しいことだった。
「父上が? こんな時間に?」
「はい。書斎にて」
玄関ホールには、松明の揺らめく明かりだけが灯っている。その奥、長い廊下の突き当たりにある父の書斎へ向かう。
扉を開けると、銀髪の老紳士が古びた木箱の前に佇んでいた。
「――お帰り、リゼット」
「父上。このたびは、ご迷惑を」
「迷惑などと」
ヴィクトル・シルヴァーノ。私の父であり、シルヴァーノ家の当主。温厚そうな顔立ちだが、今夜のその瞳には、見たことのない光が宿っていた。
「座りなさい。話がある」
婚約破棄についての叱責だろうか。あるいは、今後の身の振り方について。どちらにせよ、覚悟はできている。
けれど父が取り出したのは、一通の書状でも、小言でもなかった。
古びた木箱の蓋が開く。そこに収められていたのは――
「……これは」
銀食器だった。
スプーン、フォーク、ナイフ。そして大皿と小皿、ティーカップ。見覚えがある。幼い頃から、特別な日にだけ使われてきた「家宝」だ。
「シルヴァーノ家が代々守り続けてきた、銀食器の遺産だ」
「存じております。でも、なぜ今――」
「リゼット」
父の声が、私の言葉を遮った。紫の瞳が、真っ直ぐに私を見据える。
「この銀食器は、ただの家宝ではない」
空気が、変わった。
「かつてこの国を救った古の魔女が遺した『神器』だ。毒を見抜き、害意を暴く力を持つ」
「……毒を、見抜く?」
「そうだ。そしてこの力を受け継ぎ、王家の食卓を守護してきたのが――我がシルヴァーノ家の真の役目だった」
理解が追いつかない。けれど同時に、胸の奥で何かが反応していた。
幼い頃から、なぜか食卓に並ぶ料理を見るだけで「何かがおかしい」と感じることがあった。言葉にはできない違和感。それを父に告げると、父はいつも静かに頷き、その料理を下げさせた。
あれは――
「お前は幼い頃から、その力を継承していた。無意識のうちに」
「私が……」
「王宮の晩餐会で使われる銀食器。あれを管理してきたのは、代々シルヴァーノ家の当主だ。そしてお前は、婚約者として王太子の傍に侍ることで、さらに近くで王家を守護してきた」
三年間。私は殿下の傍で、何度「この料理は召し上がらない方がよいですわ」と進言しただろう。何度、さりげなく皿を取り替えただろう。
殿下は気づいていなかった。誰も、気づいていなかった。
「……では、ミリア嬢の訴えは」
「荒唐無稽だ」
父が、初めて感情を露わにした。
「毒を見抜く神器の継承者が、毒を用いるはずがない。それは神器への、そして血脈への冒涜だ」
父の言葉に、深く頷く。
そう。私は知っていた。ミリア嬢の言葉の矛盾を。彼女が語った「毒を盛られそうになった」という訴えが、いかに的外れであるかを。
けれど――
「殿下には、申し上げられませんでした」
「言ったところで、信じなかっただろう」
「ええ」
それが、一番の問題だった。
三年間、傍で支えてきた婚約者の言葉より、半年前に現れた男爵令嬢の涙を信じる。それがクラウス殿下という人間だった。
「父上」
木箱の中の銀食器に、そっと指を触れる。冷たいはずの金属が、不思議な温もりを持っているように感じた。
「私は今まで、この力の意味を知らずに使ってきました」
「……ああ」
「これからは違います」
顔を上げる。父と同じ紫水晶の瞳で、真っ直ぐに見つめ返す。
「銀食器の継承者として。シルヴァーノ家の娘として。この力を、正しく使いたいのです」
父の瞳が揺れた。そして、三年ぶりに見る柔らかな笑みが浮かんだ。
「……待っていた。お前がそう言ってくれる日を」
窓の外では、夜明けの光が差し始めていた。
長い夜が、ようやく終わろうとしている。
そして私の、本当の人生が――今、始まろうとしていた。
◇ ◇ ◇
婚約破棄から一月が経った。
「お嬢様、また届いております」
セシリアが差し出した銀の盆には、十通を超える手紙が載っていた。蝋印を見れば、どれも名のある貴族家の紋章ばかり。
「相変わらずの人気ですわね」
「人気、ではありませんわ、セシリア」
紅茶のカップを置き、手紙を一通取り上げる。
「これは『不安』です」
「不安、でございますか」
「ええ。王宮で何が起きているか、あなたも聞いているでしょう?」
セシリアの灰色の瞳が、わずかに翳る。
「……食中毒の噂、でございますね」
そう。私が王宮を去ってから、原因不明の食中毒事件が頻発していた。
最初は侍女が一人、腹痛を訴えた程度だった。けれどそれが二人になり、三人になり、ついには伯爵夫人が晩餐会の最中に倒れるという事態にまで発展した。
「死者は出ておりませんが、王妃様も軽い体調不良でお休みとのこと」
「……そう」
窓の外を見る。シルヴァーノ領の穏やかな風景。王都の喧騒とは無縁の、静かな日々。
(私が去ってから、銀食器の加護が失われた)
継承者不在の神器は、ただの食器に過ぎない。毒を見抜く力も、害意を暴く力も、私という媒介がなければ発動しない。
王宮の食卓は今、まさに無防備だった。
「お嬢様」
セシリアが、静かに問う。
「……戻られる、おつもりはございませんか」
「戻る?」
「王宮に。元の役目に」
私は微笑んだ。穏やかに、けれど冷たく。
「私を追放したのは、殿下ですわ。私から戻る理由はありません」
「……かしこまりました」
セシリアは深く頭を下げた。その背中には、安堵のようなものが滲んでいる。彼女もまた、私が不当な扱いを受けてきたことを、ずっと見てきたのだから。
「それより、この手紙の中に面白いものがありますわ」
「面白い、とは」
「隣国ヴェルディア王国の第二王子から」
セシリアの目が、わずかに見開かれた。
「ヴェルディアの……王子様、ですか」
「アルシェル殿下。こう書いてありますわ」
手紙を広げ、その一節を読み上げる。
「『銀食器の乙女にお会いしたい。兄の命に関わる件でお力添え願いたく、切にお願い申し上げる』」
「銀食器の乙女、ですか」
「いつの間にか、そんな噂が立っているようですわね」
王宮を去った侯爵令嬢。婚約破棄の真相。そして、彼女がいなくなった途端に頻発する食中毒事件――
点と点を結べば、答えは自ずと見えてくる。気づく者は、気づくのだ。
「お会いになりますか」
「ええ」
紅茶を一口。温かな液体が喉を潤す。
「隣国の王子が、わざわざ私を訪ねてくる。これは、面白いことが起こりそうですわ」
セシリアがかすかに微笑む。
「お嬢様が『面白い』と仰るときは、大抵、誰かが困ることになりますわね」
「あら。私はいつでも、ただ真実を明らかにしているだけですわよ」
窓の外で、陽光が銀食器を照らした。
新たな運命の幕が、上がろうとしていた。
◇ ◇ ◇
アルシェル・ヴィ・ヴェルディアは、想像とはまるで違う人物だった。
「お待たせしました、殿下」
応接室に入ると、窓辺に佇む長身の影があった。漆黒の髪、黒を基調とした簡素な衣装。振り返った瞳は深い翡翠色で、その奥に何の感情も読み取れなかった。
(……冷たい方、ですわね)
クラウス殿下の華やかさとは対照的。けれどその冷たさは、傲慢さからくるものではないと直感した。
「リゼット・シルヴァーノ嬢」
低い声。必要最小限の言葉。
「お会いできて光栄です。噂は、かねがね」
「噂、でございますか」
「『銀食器の乙女』。毒を見抜く神秘の力を持つ侯爵令嬢。――そして」
翡翠の瞳が、真っ直ぐに私を見据えた。
「愚かな王太子に、三年間も尽くした聡明な女性だと」
(……なんですって?)
一瞬、言葉を失った。この方は今、殿下を「愚かな王太子」と呼んだ。初対面の私の前で。
「驚かれましたか」
「……ええ、少々」
「失礼。俺は世辞や社交辞令が苦手でして」
「お上手ではなさそうですわね」
私の言葉に、アルシェル殿下の唇がわずかに緩んだ。笑みとは呼べないほどかすかな変化だったが、それだけで雰囲気が柔らかくなる。
「――では、本題に入らせていただきます」
「兄君様の暗殺未遂、と手紙にございましたわね」
「はい」
殿下が懐から一通の書状を取り出した。
「二月前、兄フェリクスは晩餐会で倒れました。原因は、毒です」
「……」
「幸い、一命は取り留めました。しかし犯人は未だ不明。宮廷医は『食材の腐敗』だと言い張っていますが、俺は信じていません」
翡翠の瞳に、静かな怒りが灯る。
「兄は狙われた。そして、次も狙われる可能性がある」
「それで、私に」
「あなたの力を借りたい。銀食器の継承者として、毒を見抜く力を」
率直な依頼だった。回りくどい言葉も、甘い言葉も一切ない。ただ真実を求める、まっすぐな瞳。
(――この方は)
胸の奥で、何かが静かに動いた。
三年間、殿下の傍にいた。けれど一度も、こんな目で見つめられたことはなかった。対等な存在として。力を認め、敬意を持って。
「お断りする理由を、お聞きになりますか」
「……断る、のですか」
「まだ決めておりません。ですが、私には疑問がございます」
「何なりと」
「なぜ私なのです?」
椅子に腰かけ、殿下を見上げる。
「銀食器の力を持つのは、シルヴァーノ家の血筋。私の父も、祖母も、同じ力を持っています。なぜ、婚約破棄されたばかりの私に?」
「……」
アルシェル殿下が、初めて言葉に詰まった。
そして――予想もしなかった言葉が返ってきた。
「あなたが、三年間を耐えたからです」
「……え?」
「49回。あの夜、あなたは言った。『私があなたの無礼を許した回数です』と」
私は目を見開いた。あの夜の話が、もう隣国にまで届いている?
「忍耐と観察眼。そして、最後に真実を突きつける胆力。俺が求めているのは、そういう人間です」
殿下が一歩、近づく。
「力だけなら、他にも求められる。けれど、俺は『あなた』の力を借りたい」
翡翠の瞳が、まっすぐに私を射抜く。
「リゼット・シルヴァーノ嬢。どうか、力を貸してください」
私は深く息を吸い込んだ。
三年間、誰にも認められなかった。誰にも感謝されなかった。当然のことのように守り、当然のことのように捨てられた。
けれど今、目の前に一人の王子がいる。私の価値を、正しく見抜いた王子が。
「――一つ、条件がございます」
「何でしょう」
「銀食器は、私が持参いたします。そして、調査の全てに私を同行させてください」
「当然です」
「もう一つ」
私は立ち上がり、殿下と向き合った。
「真実を暴いた暁には、私に全てを報告してくださいませ。たとえそれが、どの国の誰に関わるものであっても」
翡翠の瞳が、わずかに揺れた。
そしてその唇に、初めて明確な笑みが浮かんだ。
「……面白い方だ。噂以上に」
「お褒めにあずかり光栄ですわ、殿下」
「アルシェルで構いません。協力者に敬称は不要です」
「では、私もリゼットとお呼びください」
差し出された手を取る。
温かくはなかった。けれど、確かな力がそこにあった。
(――ああ、これが)
これが、対等に扱われるということなのだと、私は初めて知った。
◇ ◇ ◇
一方その頃、エルデシア王宮は混乱の渦中にあった。
「どういうことだ! また食中毒だと!?」
クラウスの怒声が、執務室に響き渡る。
「は、はい殿下……本日の昼食会で、伯爵夫人お二人と男爵が……」
「原因は何だ!」
「それが……調査中でして……」
跪く侍従の声が震えている。クラウスは苛立ちを隠せず、机を拳で叩いた。
「リゼットがいた頃は、こんなことは一度もなかった!」
言ってから、はっとした。
(……今、俺は何を)
婚約を破棄した女の名を、なぜ今更。
「殿下」
甘い声が背後から響く。振り返ると、蜂蜜色の髪を揺らしたミリアが立っていた。
「ミリア」
「お疲れのご様子……お茶をお持ちしましたの」
差し出された茶器を見つめる。美しい白磁のカップ。かつてリゼットが選んだものとは違う、ミリア好みの可愛らしい柄。
「……ありがとう」
受け取ろうとした、その瞬間。
(待て)
脳裏に、一つの記憶が蘇った。
リゼットが傍にいた頃。彼女はいつも、俺が何かを口にする前にさりげなく確認していた。
『殿下、こちらをどうぞ』
『殿下、その果物は本日は控えた方がよろしいかと』
『殿下、紅茶が少々冷めておりますわ。新しいものをお持ちしますね』
あの頃は、うるさい女だと思っていた。過保護で、口うるさい婚約者だと。
――違った。
「殿下? どうかなさいましたか?」
ミリアの声で、我に返る。
「いや……何でもない」
茶器を受け取る手が、わずかに震えた。
(まさか……リゼットは、俺を守っていたのか?)
そんなはずがない。彼女はミリアに毒を盛ろうとした悪女だ。俺が断罪したのだ。正しい判断だったはずだ。
はずだ。
「殿下、お顔色が優れませんわ。お休みになられた方が……」
「ああ……そうだな」
茶器を置く。飲む気には、なれなかった。
「ミリア。一つ聞いていいか」
「何でございましょう」
「……あの日。お前が毒を盛られそうになったという、あの茶会の日」
琥珀色の瞳が、一瞬だけ揺れた。クラウスは見逃した。
「お前の席は、リゼットからどのくらい離れていた?」
「え……?」
「答えてくれ」
「それは……あの、私、そういうことはあまり覚えていなくて……」
ミリアが困ったように眉を下げる。潤んだ瞳が、上目遣いにクラウスを見つめた。
「怖い記憶は、忘れたくて……ごめんなさい、殿下……」
「……いや、すまない。変なことを聞いた」
「いいえ。殿下が気にかけてくださるだけで、私は嬉しいです」
微笑むミリア。愛らしい、無垢な笑顔。
なのに、クラウスの胸には小さな棘が刺さったままだった。
(リゼットなら……席順を全て覚えていただろう)
あの女は、そういう女だった。細かいことをいちいち記憶し、いちいち指摘する。煩わしいと思っていた。
今になって思う。
あれは、煩わしさではなかったのではないか。
◇ ◇ ◇
ヴェルディア王国の王宮は、エルデシアとはまるで趣が異なっていた。
白亜の石造りではなく、深い緑の大理石を基調とした荘厳な佇まい。中庭には翡翠色の噴水が涼やかな音を立て、どこか神秘的な空気が漂っている。
「緊張していますか」
隣を歩くアルシェルが、抑揚のない声で問う。
「いいえ。これでも三年間、王族の隣で過ごしておりましたので」
「……なるほど。それは心強い」
晩餐会場への回廊を進みながら、私は銀食器を収めた小箱をそっと抱え直した。
「兄上は、あなたに会えることを楽しみにしています」
「フェリクス殿下が?」
「ええ。『弟が初めて人を連れてきた』と、随分と興味を持っておられた」
(初めて……?)
横目でアルシェルを見る。その横顔は相変わらず無表情だったが、耳がわずかに赤いような気がした。
「アルシェル殿下は、普段は人をお連れにならないのですか?」
「……必要がなかったので」
「今回は必要があった、と」
「ええ」
翡翠の瞳が、ちらりと私を見た。
「あなたが、必要だった」
その言葉が、予想以上に胸に響いた。
(――いけませんわ、リゼット。今は仕事に集中なさい)
自分を叱咤し、前を向く。
大扉が開かれた。
「ヴェルディア王国第二王子アルシェル殿下、並びにご同伴のリゼット・シルヴァーノ嬢、ご入場にございます」
侍従の声が響き渡る。一斉に向けられる視線。好奇、警戒、そして――
(殺意)
私の右手が、無意識に銀の指輪に触れた。
「どうかされましたか」
アルシェルが小声で問う。
「……いいえ。何でもありませんわ」
嘘だった。この広間のどこかに、害意を持つ者がいる。銀食器の継承者として培われた感覚が、警鐘を鳴らしていた。
上座に、柔和な笑みを浮かべた黒髪の青年がいた。アルシェルに似た顔立ちだが、その瞳は明るい金色で、ずっと親しみやすい印象を与える。
「ようこそ、リゼット嬢。弟から話は聞いています」
フェリクス・ヴィ・ヴェルディア。第一王子。暗殺未遂から生還した人物。
「お目にかかれて光栄でございます、殿下」
「堅苦しい挨拶は抜きにしましょう。今日は純粋に、あなたをもてなしたいのです」
「……恐れ入ります」
席に着く。アルシェルは私の隣、フェリクスの斜め向かいという位置だった。
晩餐が始まる。
美しく盛り付けられた前菜。芳醇な香りの肉料理。色とりどりの野菜。
私は穏やかに微笑みながら、全ての料理を銀食器越しに確認していった。
フォークを握る。スプーンを添える。その都度、指輪が微かに熱を帯びる。
(大丈夫。今のところ、異常はない)
そして、メインディッシュが運ばれてきた。
「本日のメインは、王国自慢の仔羊のローストでございます」
給仕が恭しく蓋を開ける。
肉の焼ける香ばしい匂い。完璧に調理された一皿。
その瞬間――
(!)
銀の指輪が、灼けるように熱くなった。
「お待ちください」
私の声が、広間に響いた。
全員の視線が集まる。アルシェルが鋭く目を細めた。
「リゼット嬢?」
フェリクスが穏やかに、しかし緊張を含んだ声で問う。
私は立ち上がり、銀食器を手に取った。
「殿下。失礼ながら、その料理をお召し上がりになるのはお控えください」
「……理由を聞いても?」
静かに、私はフェリクスの皿に銀のスプーンを近づけた。
美しい銀色が、見る見るうちに黒ずんでいく。
広間に、息を呑む音が響いた。
「毒、です」
私の声が、静寂を切り裂いた。
「この料理には、致死量の毒が含まれています」
◇ ◇ ◇
広間が、凍りついたように静まり返った。
「ど、毒だと……!?」
「まさか……」
「誰だ、料理に毒を!」
騒然とする貴族たち。私は冷静に、黒ずんだ銀のスプーンを掲げた。
「シルヴァーノ家に伝わる銀食器は、毒に反応して変色いたします。これは古の魔女が遺した神器の力」
「で、では今、フェリクス殿下は……」
「ええ。危うく、二度目の毒殺未遂に遭われるところでしたわ」
フェリクスの顔から血の気が引いていく。けれど彼は取り乱さなかった。金色の瞳が鋭く光り、広間を見渡す。
「犯人は、この場にいるのですか」
私に向けられた問い。
「……恐らくは」
銀の指輪が、まだ熱を帯びている。この広間のどこかに、害意を持つ者がいる。
「アルシェル」
「承知しています、兄上」
アルシェルが立ち上がり、鋭い眼光で広間を睥睨した。
「扉を閉じろ。誰もこの場から出ることは許さない」
「な、何を……!」
「殿下、これは横暴では……」
抗議の声が上がるが、アルシェルは微動だにしない。
「リゼット嬢。料理を担当した者を調べます。そして……」
「ええ。私に任せてくださいませ」
私は小箱から銀食器一式を取り出した。スプーン、フォーク、ナイフ。そして、小さな銀の皿。
「この広間にいる全員の飲み物を、確認させていただきます」
「何だと……!」
「私の飲み物に触れるなど……!」
貴族たちが騒ぐ。当然だ。彼らにとって、これは無礼以外の何物でもない。
けれど私は微笑んだ。三年間、殿下の傍で培った、完璧な令嬢の微笑み。
「ご安心ください。無実の方には、何の害もございません。――むしろ、潔白の証明になりますわ」
銀の皿を持ち、最初の貴族の前に立つ。
「失礼いたしますわね」
ワインを一滴、皿に垂らす。銀色は変わらない。
「問題ございません。次の方へ」
一人、また一人と確認を進める。貴族たちの顔に、安堵と緊張が入り混じっていく。
そして――
「次は、あちらの方ですわね」
私が示した先。末席に近い場所に座る、地味な服装の男。
「わ、私は……」
「何か問題でも?」
「いえ、その……」
男の額に、汗が浮かぶ。
私は穏やかに歩み寄り、銀の皿を差し出した。
「どうぞ。グラスのワインを一滴だけ」
「そ、それは……」
「拒否される理由は、ございませんわよね?」
男の目が泳ぐ。周囲の視線が集中する。
「私の……私のワインには、何も入っていない! だから検査など必要ない!」
「あら。そうおっしゃるなら、なおさら証明されればよろしいのでは?」
私の声は、穏やかなまま。けれど瞳は、一切笑っていなかった。
「さあ、どうぞ」
男の手が震える。そして――
彼は突然立ち上がり、懐からナイフを取り出した。
「くそっ……!」
「アルシェル!」
フェリクスの声が響く前に、アルシェルは動いていた。
一瞬で男との距離を詰め、その腕を捻り上げる。ナイフが床に落ちる音が、広間に響いた。
「ぐあっ……!」
「動くな。次に動けば、腕を折る」
氷のような声。男は完全に制圧された。
「お見事ですわ、アルシェル殿下」
「……当然のことをしたまでです」
私は床に転がったナイフを避け、男の前に立った。
「さて、お話を聞かせていただけますわね?」
「く、くそっ……こんなはずでは……」
「どなたの命令でしたの? フェリクス殿下を狙った黒幕は、誰?」
男が顔を歪める。
「言えるものか……! 言えば、俺は……」
「言わなくても、調べればわかりますわ。でも、今お話しいただければ、少しは情状酌量の余地があるかもしれませんわね」
私の言葉に、男の抵抗が弱まる。
そして、ついにその口が開いた。
「……エルデシア。エルデシア王国の、ある方から依頼を……」
広間がどよめいた。
エルデシア。私の祖国。クラウス殿下の国。
「エルデシアの誰からですの?」
「わからない……仲介人を通じて……でも、王宮に近い人間だと……」
私の脳裏に、一人の女の顔が浮かんだ。
蜂蜜色の髪。琥珀色の瞳。潤んだ瞳で上目遣いをする、可憐な少女。
「――ミリア」
その名を呟いた瞬間、全てが繋がった。
◇ ◇ ◇
晩餐会の翌日。私はアルシェルと共に、捕らえた男への尋問に立ち会っていた。
「もう一度聞く。依頼主の特徴は」
アルシェルの声は、相変わらず抑揚がない。けれどその冷たさが、却って凄みを増していた。
「だから……仲介人としか会っていない……でも、伝言があった……」
「伝言?」
「『銀の守りが消えた今がチャンスだ』と……」
私の目が、鋭く細められた。
「銀の守り」
「何のことかは知らない……ただ、そう伝えろと……」
アルシェルが私を見た。翡翠の瞳に、理解の光が灯っている。
「リゼット嬢」
「ええ。『銀の守り』とは、おそらく私のことですわ」
立ち上がり、窓辺に歩み寄る。
「私がエルデシア王宮を去ったのは、二月前。フェリクス殿下が最初に毒を盛られたのも、同じ頃ですわね」
「……時期が一致する」
「偶然ではありませんわ。私を排除した者と、フェリクス殿下を狙った者は、同一、あるいは繋がっている」
「ミリア・フォーチュレット」
アルシェルがその名を口にした。
「彼女が、エルデシア側の黒幕だと?」
「確証はありません。けれど……」
私は振り返った。
「彼女が現れてから、全てがおかしくなりました。殿下の心変わり、私への冤罪、そして婚約破棄。まるで――私を王宮から排除するために、計画されていたかのように」
「計画……」
「考えてみてくださいませ。私がいなくなった途端、エルデシア王宮では食中毒が頻発。そしてほぼ同時期に、隣国ヴェルディアの第一王子が毒を盛られる」
点と点が、線で繋がっていく。
「誰かが、両国を弱体化させようとしている」
「第三国の陰謀、ということか」
「ええ。そしてミリア嬢は、その駒として送り込まれた間者ではないかと」
アルシェルの顔が、険しくなった。
「……しかし、証拠がない」
「だからこそ、集めるのですわ」
私は微笑んだ。穏やかに、けれど瞳の奥には冷たい炎を宿して。
「幸い、私はエルデシアの社交界に顔が利きます。婚約破棄されたとはいえ、侯爵令嬢としての地位は失っておりませんもの」
「王宮に戻ると?」
「いいえ。私が動く必要はありませんわ」
懐から、一通の手紙を取り出す。
「セシリアから届いた報告です。エルデシア社交界で、ミリア嬢の評判が急速に落ちているとのこと」
「どういうことだ」
「私がいなくなってから頻発する食中毒。その度に、ミリア嬢は『偶然』その場にいたそうですわ」
アルシェルの目が、見開かれた。
「まさか……」
「人々は気づき始めています。『銀食器の乙女』が去った途端に起こった異変。そして、彼女を追い出した張本人の周りでばかり事件が起こる不自然さに」
私は手紙を折りたたんだ。
「因果応報は、自ずと訪れるものですわ。私が手を下す必要など、ありませんの」
「……恐ろしい女だ」
アルシェルが、低く呟いた。けれどその声には、賞賛の響きがあった。
「褒め言葉として受け取っておきますわね」
窓の外を見る。ヴェルディアの空は、エルデシアよりも青く澄んでいた。
(ミリア。あなたの嘘は、もうすぐ暴かれる)
銀食器が、静かに光を放っていた。
◇ ◇ ◇
エルデシア王宮。
ミリア・フォーチュレットは、鏡の前で微笑みを作っていた。
「今日も可愛い、私……」
けれどその瞳は、まったく笑っていなかった。
(まずい。まずいまずいまずい……!)
計画が狂い始めている。
リゼットを排除したまでは良かった。あの女が邪魔だった。銀食器の力を持つあの女が傍にいる限り、王家への工作は不可能だった。
だから、排除した。涙を武器に、愚かな王太子を操って。
完璧だったはずだ。
なのに――
「ミリア様、王太子殿下がお呼びです」
侍女の声に、ミリアは完璧な微笑みを浮かべた。
「わかりましたわ。すぐに参ります」
クラウスの執務室へ向かう廊下で、ミリアは貴婦人たちとすれ違った。
「ごきげんよう」
「……ごきげんよう」
よそよそしい返答。以前はもっと親しげだったはずなのに。
(ちっ……)
心の中で舌打ちする。最近、周囲の態度が変わってきている。冷たい視線。避けるような足取り。そして、ひそひそ話。
「ほら、あの方よ……」
「リゼット様が去ってから、不幸が続いていますわね……」
「偶然にしては、出来すぎですわ……」
聞こえているわよ、と叫びたかった。けれどミリアは微笑みを崩さない。今、感情的になれば全てが終わる。
執務室の扉が開く。
「お呼びでございますか、殿下」
「ああ、ミリア。入れ」
クラウスの顔色が、優れなかった。目の下に隈があり、頬もこけている。
「殿下、お疲れのご様子……」
「……ああ」
クラウスが、重い口を開いた。
「隣国から、報告があった」
「隣国、と申しますと……」
「ヴェルディア王国だ。先日の晩餐会で、毒殺未遂があったそうだ」
ミリアの心臓が、一瞬止まった。
「まあ……それは大変でしたわね……」
「だが、未遂で終わった。ある女性の活躍で」
「……ある女性?」
「リゼット・シルヴァーノ」
その名を聞いた瞬間、ミリアの仮面がわずかに揺らいだ。
「あの女が、銀食器の力で毒を見抜いたそうだ。しかも、犯人を捕らえ、尋問まで行ったと」
「そう……ですの……」
「犯人は、エルデシアから依頼を受けたと供述している」
ミリアの顔から、血の気が引いていく。
「殿下、それは……」
「ミリア」
クラウスの碧眼が、真っ直ぐにミリアを見据えた。
「お前に聞きたいことがある」
「は、はい……」
「お前は本当に、リゼットに毒を盛られそうになったのか?」
沈黙。
ミリアの脳が、高速で回転する。ここで嘘がバレれば全てが終わる。けれど今更、真実を話すわけにもいかない。
「……殿下」
潤んだ瞳を作る。涙を滲ませる。震える声で、訴える。
「私を……疑っておられるのですか……?」
「そうは言っていない。ただ、確認を――」
「酷い……私は、ずっと殿下のことを……」
涙が頬を伝う。完璧な演技。何度も使った、必殺の武器。
けれど今回は、クラウスの表情が変わらなかった。
「ミリア。泣いても答えにはならない」
「……え?」
「俺が聞いているのは事実だ。お前が泣こうが喚こうが、事実は変わらない」
ミリアの目が、驚愕に見開かれた。
今まで、この手は何度も通用した。涙を見せれば、クラウスはいつも折れた。謝り、慰め、ミリアの言葉を信じた。
なのに今、この男は――
「殿下……」
「答えろ、ミリア。お前は本当に、毒を盛られたのか」
クラウスの瞳が、初めて本当の意味でミリアを見ていた。
愚かで、騙されやすくて、感情的で――けれど今、その瞳には冷静な光が宿っている。
ミリアは悟った。
この男は、目覚め始めている。
◇ ◇ ◇
「答えられないのか」
クラウスの声が、静かに響いた。
「私は……私は本当のことを……」
「ミリア」
扉が開いた。入ってきたのは、白髪交じりの老紳士だった。
「シルヴァーノ侯爵……!」
ヴィクトル・シルヴァーノ。リゼットの父。
「殿下、お時間をいただきありがとうございます」
「侯爵。話があると聞いたが」
「はい。娘から預かったものがございます」
ヴィクトルが差し出したのは、一束の書類だった。
「これは……」
「ミリア・フォーチュレット嬢の出自に関する調査報告です」
ミリアの顔が、蒼白に変わった。
「な、何を……!」
「彼女は男爵令嬢ではありません。いえ、正確には、エルデシアの男爵家で育てられた――敵国ゼルヴァニアの工作員です」
広間が、静まり返った。
「ゼルヴァニア……だと……」
クラウスが、愕然とミリアを見た。
「嘘よ! 嘘! 私はフォーチュレット家の娘よ!」
「本当のフォーチュレット令嬢は、十二年前に病死しています。その後、密かにすり替えられたのがあなたです」
ヴィクトルの声は、淡々としていた。
「ヴェルディアで捕らえられた暗殺者が供述しました。彼の指示者は、エルデシア王宮に潜む『蜂蜜色の髪の女』だと」
「それだけで私だという証拠には……!」
「証拠なら、もう一つあります」
ヴィクトルが、懐から小さな瓶を取り出した。
「先日、あなたが王太子殿下にお出しになった紅茶。残りを調べさせていただきました」
ミリアの顔が、凍りついた。
「微量ですが、毒が検出されました。即効性はなく、徐々に体を蝕む種類のもの」
「殿下……殿下、信じて……私はそんなこと……!」
「殿下がここ数週間、体調を崩されていた原因は、これだったのです」
クラウスの顔から、完全に血の気が引いた。
「ミリア……お前は、俺を……」
「違う、違うの! 私は殿下のことを愛して……」
「黙れ」
低い声だった。今まで聞いたことのない、クラウスの声。
「愛している者が、毒を盛るか。愛している者が、俺を殺そうとするか」
「殿下……」
「リゼットは、三年間俺を守り続けていた。俺が何も気づかない間、ずっと」
クラウスの拳が震えていた。
「なのに俺は、お前の涙を信じて、彼女を追い出した。お前の嘘を信じて、彼女に冤罪を着せた」
「殿下、私は……」
「衛兵!」
扉が開き、武装した兵士たちが入ってくる。
「ミリア・フォーチュレットを拘束しろ。反逆罪の容疑だ」
「いやっ……やめて……!」
ミリアが抵抗するが、無駄だった。あっという間に両腕を取られ、引き立てられていく。
「殿下、殿下! 私を信じて! 私は本当に殿下のことを……!」
その叫びは、扉が閉まると同時に途切れた。
残されたクラウスは、力なく椅子に沈み込んだ。
「俺は……なんということを……」
ヴィクトルが、静かに頭を下げた。
「殿下。娘はヴェルディアにおります。お会いになりますか」
「……合わせる顔がない」
「それでも、お伝えすることがあるのでは」
クラウスは、長い間、黙っていた。
そして、ようやく顔を上げた。
「……リゼットに、会いたい」
その声は、かすれていた。
◇ ◇ ◇
ヴェルディア王国の迎賓館。
クラウスが足を踏み入れたとき、広間には多くの人々が集まっていた。ヴェルディアの貴族、外交官、そして――
「リゼット」
銀髪の令嬢が、穏やかに振り返った。
深い紫水晶の瞳。白磁のような肌。華奢な体に、背筋をぴんと伸ばした佇まい。
三年間、傍にいた女。けれど今、彼女は別人のように輝いていた。
「お久しぶりですわね、殿下」
その声に、怒りはなかった。悲しみも、恨みも。ただ、穏やかな微笑みだけがあった。
「リゼット……俺は……」
「アルシェル殿下から伺いましたわ。ミリア嬢が捕らえられたとか」
「ああ……あの女は、ゼルヴァニアの間者だった。お前が言っていた通り……いや」
クラウスは、深く頭を下げた。
「お前は何も言っていなかった。俺が聞く耳を持たなかったんだ」
「……」
「三年間、お前は俺を守り続けていた。毒を見抜き、危険を排除し、俺が知らないところで」
「殿下」
「俺は何も見ていなかった。お前の価値を、お前の献身を、お前の――」
「殿下」
リゼットの声が、静かにクラウスの言葉を遮った。
「謝罪を受け入れますわ」
「……え?」
「あなたが過ちを認め、謝罪されたこと。受け入れます」
リゼットは、穏やかに微笑んでいた。
「けれど、それだけですわ」
「それだけ……」
「私はもう、あなたの婚約者ではありません。エルデシア王宮に戻る理由もありません」
「リゼット、俺は――」
「殿下」
リゼットが、一歩近づいた。
「私の価値は、殿下が決めるものではありませんでしたの」
クラウスの目が、見開かれた。
「三年間、私はずっとあなたの判断を待っていました。あなたに認めてもらえる日を、あなたに感謝される日を」
リゼットの瞳が、静かな光を湛えている。
「でも、もう待ちません。私は私の力を、認めてくれる人のために使います」
「認めてくれる人……」
「ヴェルディア王国は、銀食器の継承者を正式に迎えたいと申し出てくださいました。両国の架け橋として、外交の場で力を発揮してほしいと」
「まさか……」
「私は、それを受け入れるつもりですわ」
クラウスの顔が、絶望に歪んだ。
「待ってくれ、リゼット。俺は、やり直したい。もう一度、お前と――」
「殿下」
リゼットが、最後にこう言った。
「49回の無礼を許した私ですもの。一度の謝罪は、受け入れますわ」
穏やかな微笑み。けれどその瞳は、もう二度とクラウスを見ていなかった。
「――でも、50回目は、ございませんの」
振り返ったリゼットの傍らには、黒髪の王子が立っていた。アルシェル・ヴィ・ヴェルディア。
「行きましょう、アルシェル殿下。両国同盟の調印式が始まりますわ」
「ああ」
アルシェルがリゼットに腕を差し出す。彼女は自然にそれを取り、二人は広間を後にした。
残されたクラウスは、ただ立ち尽くすしかなかった。
自分が失ったものの大きさを、今ようやく理解しながら。
◇ ◇ ◇
両国同盟の調印式は、盛大に執り行われた。
エルデシアとヴェルディア、長年緊張関係にあった二国が、共通の敵ゼルヴァニアに対抗するために手を結ぶ。その立役者として、私の名前は両国の社交界に轟いた。
「リゼット嬢、このたびは本当にありがとうございました」
フェリクス殿下が、柔和な笑みで頭を下げた。
「兄上の命を救ってくださり、そして両国の架け橋となってくださった。感謝の言葉もありません」
「もったいないお言葉ですわ、殿下。私はただ、できることをしただけですもの」
「ご謙遜を。――それと」
フェリクス殿下が、悪戯っぽく微笑んだ。
「弟をよろしくお願いしますね」
「……は?」
「兄上」
いつの間にか傍に来ていたアルシェルが、珍しく声を荒げた。
「余計なことを言わないでください」
「余計なことではないだろう。お前が誰かを連れてきたのは初めてだし、こんなに生き生きしているのも初めてだ」
「……」
アルシェルの耳が、真っ赤に染まっている。
「フェリクス殿下。アルシェル殿下と私は、協力者の関係ですわ」
「ええ、今はね」
フェリクス殿下がウィンクして去っていく。その背中を見送りながら、私は小さく溜息をついた。
「……すまない」
「何がですの?」
「兄上が、妙なことを」
「お気になさらず。兄君思いの弟君を持って、殿下もお幸せですわね」
アルシェルが、複雑そうな顔をした。
「リゼット」
「はい?」
「一つ、聞いてもいいか」
「何でしょう」
翡翠の瞳が、真っ直ぐに私を見据えた。
「今後も、俺と共に働いてくれるか」
「それは、先ほど同盟の条項で――」
「そうではない」
アルシェルが、一歩近づいた。
「条約とは関係なく。俺個人の願いとして」
「……殿下」
「お前の力を、お前の知性を、お前という存在を。俺は必要としている」
私は目を瞬かせた。この方は今、何を言っているのだろう。
「それは……」
「言葉が足りないのは承知している。だが、これだけは言わせてくれ」
アルシェルが、膝を折った。
広間の人々が、一斉にこちらを見る。ざわめきが広がる。
「アルシェル殿下……!」
「リゼット・シルヴァーノ嬢。俺の傍にいてくれないか」
「っ……」
「今すぐ答えを求めているわけではない。ただ、俺の気持ちを伝えておきたかった」
翡翠の瞳が、真摯な光を湛えていた。
三年間、決して向けられなかった眼差し。対等な存在として、一人の人間として、私を見る瞳。
「殿下」
私は、深呼吸をした。
「お気持ちは、嬉しく思いますわ」
「……」
「けれど」
私は、初めて本当の笑みを浮かべた。
「まずは、お茶から始めませんこと?」
アルシェルの目が、驚きに見開かれた。そして、ゆっくりとその唇に笑みが浮かんだ。
「……ああ。それがいい」
立ち上がったアルシェルが、私に手を差し出す。
「では、今度の休日に。俺が知る限り最高の茶葉を用意しよう」
「楽しみにしておりますわ」
その手を取る。
温かかった。アルシェル殿下の手は、思っていたより、ずっと温かかった。
(ああ……)
銀食器が、静かに輝いている。私の選んだ道を、祝福するかのように。
三年間の夜は、終わった。
そして今、新しい朝が始まろうとしていた。
――私の手で、私の力で、私が選んだ道を歩むために。
「さあ、参りましょう。アルシェル殿下」
「ああ」
隣を歩く黒髪の王子の横顔を、ちらりと見る。
(悪くない選択ですわね、リゼット)
心の中で、そっと呟いた。
銀食器の継承者として。シルヴァーノ家の娘として。そして、一人の女として。
私の物語は、ここから始まるのだ。
【完】




